「女童はこそ神であると言いたい。」かぐや姫の物語 ヌリカベさんの映画レビュー(感想・評価)
女童はこそ神であると言いたい。
なにより単純に誰もが知っているかぐや姫の物語だ。
この映画にストーリーの意外性や新規性を求めてはいけない。
見えない人にはただの「まんが日本昔話」の長編バージョンにしか映らないだろう。
単純な水彩画や鉛筆画、描き込まれない白い空白。
良く見るとこれがすべて生きている。緻密に計算されている、描き込まれない書き込みである事に気付くと思う。
更に緻密な時代考証とロケハンを基にした作画から、あえて簡略化し消し去られていることに気付くだろう。
五人の貴公子のカーチェイス(牛車だけど)の迫力や都大路の賑わい。姫の御殿での宴の賑わいや田楽師の踊り、御殿にバリケードを気付く職人たちの所作。もののけ姫以上に史学的な研究成果をたたき込んでいる。
その躍動感は絵巻物がそのまま動き出したようだ。
キャラクターすべての表情が生きていて、田舎家の庭で初めて立った姫を顔を真っ赤にして涙を浮かべて呼ぶ翁の姿についつい涙してしまった。
そして本題。
女童こそがかぐや姫のアンチテーゼで理想ではなかろうか。
御殿に仕えながらも鉄漿もせず、月の使者の前でも彼女だけは眠らない。
カムロ頭で笹を振り童どもを従えて、童歌を歌い天上人に対抗する。
彼女は中世において社会規則の外に存在した京童や大童の象徴で彼女もまた人外の力を持った神の化身なのだろう。
女童と天上人の音楽を聴くだけでもこの映画の値打ちは十分あると思う。
宮崎監督が今を表す人なら、高畑監督は未来を作る人なのだろう。
「思いでぽろぽろ」の時にあの写真と見まがう風景描写に批判が起こったが今はどうか?写真トレースによる風景描写が定番になっている。
そして「となりの山田君」の成果が今回のかぐや姫だ。
「風立ちぬ」は良くも悪くもジブリ作品だが「かぐや姫の物語」はまるで次元の違う別作品だ。
そしてキャッチコピーについて、公の罪は地球に憧れて地上に降ろされた事。それはインターネットの前で災害画像に同情を寄せる我々と同じではないだろうか。地べたを這い、盗みに手を染めて必死で生きる捨丸に憧れる姫はやはり真実が見えていないのだろう。しかし姫のほんとの罪は逃げたいと思い連れ戻されることだ。本当の苦悩を呑み込めなかった姫は捨丸とも結ばれることは無い。(キャッチコピーは鈴木Pの失敗だと思う。)
ただあっさり妻子も捨ててしまう捨丸には共感できないし、何故ああしたのかは疑問に思う。
(下世話な話で考えると最後のあれは捨丸とやってるよね。)