「キスが軽くなければ」潔く柔く きよくやわく Takehiroさんの映画レビュー(感想・評価)
キスが軽くなければ
『潔く柔く』(2013)
dTVにて。役名ではなく、役者名で書かせていただく。2018年に閲覧なので5年経過している。調べる余裕がないが、この頃は高良健吾や岡田将生は随分露出されていただろうか。波留はもっと最近ブレイクしたのだろうか。この映画はビデオでは語り口や花火の音などの強弱に差があって、音量を調節しないと不快だった。主人公は長澤まさみが演じているが、共演者よりもやや実際は年上だ。高校生の仲間や周囲との、はっきりしない恋愛以前から恋愛への過程が、幼馴染とはキスが、「野良猫のようなキス」として、恋愛以前としてしまっている。戦後から現代までの日本の恋愛への想定の不安定さから出ているものだろうと思う。戦前ならキスはそんな簡単な感覚ではなかったし、実際はそう簡単な感覚ではないだろう。だが、本音は幼馴染同士は恋愛したい関係だったのだが、長澤演じる女性のほうが曖昧なために、中村蒼演じる仲間からのアプローチでキスしてしまう。その頃に、高良健吾演ずる幼馴染はトラックにはねられ死ぬ。仲間の波留は長澤の曖昧さに怒り、友情が壊れる。このシーンだけ既視感があり、波留が怒るシーンだけ、部分的に何かで観たのだと思う。そうした過去のシーンから、社会人となった話に移る。中村蒼はテレビの『八重の桜』も観てはいたが、『東京難民』の印象が残っていながら観た。長澤と岡田は、映画の配給会社と出版社の社員という設定らしい。配給の映画の件で知り合うが、女の方は過去にそうした恋愛寸前の幼馴染との死別があって、大学時代も多くの言い寄る男を振ってきたそうだが、岡田のほうも過去があるらしく、これから説明があると思う。池脇千鶴が少し前に妹らしい人物の子供の頃の日記を渡すシーンがあった。実は男のほうも幼稚園かそこらの頃に、突き飛ばした女の子がその後はねられて死んでしまったという過去があり、池脇はその子の姉だった。岡田が長澤と再会したのも、長澤の友達がトラック事故で死んだ男の話をしたことが関連して何度も会うことになったのもあるらしい。似た者同士の過去のトラウマというか、悔いがある二人だったわけだ。それから急性アル中とかエピソードが入る。過去のシーンが思い出されたりする。赤い絵の具が血に思えてしまうシーンなどがある。それらの交錯から、だんだん惹かれあってくる二人。古川雄輝が、女の高校の同級生で、男の大学時代の後輩で偶然、再会してくる。男の高校時代のシーンに戻り、突き飛ばして死んだ子に線香をあげる。死んだ子の両親の片言が複雑に思われ、辛いシーンである。映画では死んだ女の子の日記などを通じて、もっと複雑な関係性が表現されるが、私の能力不足もあり書けない。物心ついてないときの過去である。戸惑うだろう。男の思いは、女への恋愛感情ではなく、似たような罪の意識から、女は悪くないという思いが、交際の続行とさせていた。この作品のテーマは男女の恋愛過程ドラマではあろうが、双方に、関係者を死なせてしまったかも知れない、死なせてしまったのに、そんな自分が幸福を得て良いのだろうかという、複雑な心理関係があるところが加味されているのだ。恋愛以前というのか、複雑なところのセリフに「ああ、もう、あんたほっとけないんだよ」という男のセリフがある。キスではなく、頭を瞬間、なでて別れる。兄貴のような、相手への尊さの表れ、援助というと援助交際のために汚いイメージに落とされてしまった言葉だが、援護的な気持ち。長澤のほかにも、池脇にせよ、漫画家役のMEGUMIにせよ、男の優しさのエピソードが垣間見られる。池脇が崖から落ちて倒れているシーンなどは、姉妹して関わると死なせてしまうのかというような危険なシーンである。その時に姉の
身体が妹に見えて、男は悔いて泣く。ごめんと姉妹の苗字を繰り返して泣く。姉は無事で助かったが、贖罪のシーンにも思える。姉との恋愛になってしまう構成もあったかも知れないが、それも複雑すぎる。この作品はそうはしなかった。姉が「私生きてていいのかな」と男に言うが、姉のほうも、妹が死んでしまったことを自分の罪というか、自分だけ良いのかという思いがあったようなのだ。人間心理の崇高な面だろう。ここで、最初のシーンもそうだが、自然の美しいシーンが取り入れられている。その後で、「俺に何かできることがありますか」と聞くと姉は、「あるよ。あなたはあなたの道を行って」というセリフがあるが、このセリフは高度だ。切なく辛い過去があるが、それでも暗いばかりの話ではなく、けっこう明るくコメディータッチの面もある。長澤岡田の関係は、いたわり合いのような、似た心理の傷を持つ、兄妹関係のようなところがあって、女が、「罪悪感ってどうやったらなくなるの」と男に聞く。男は、「そんなもの無くならない。一生抱えて生きていくんだ」と答えた。
そこで男は「つきあってみない。だめだったらだめでしょうがないから」という。女は考える。ここで田山涼成演ずるバーのマスターが脇役の渋さをみせる。こうした第三者的な人の存在が意義を持ってくるのはよくあることだし、そう言う世界なのかも知れない。世界はそれでも二人きりではない。死んだ女の子の姉は女の子があり、死なせた男とは連絡をとりあい、友達のようになっている。
姉が「彼女できた?気になるよ。あなたには幸福になって欲しいもの」笑顔で会話する。波留と再会したり、映画だからかも知れないが、こうした偶然の再会は、意外に実際にもあるのかも知れないとふと察したくなった。波留は随分ひどい事を言って別れたが、23歳で再会すると、もう別に気にしていないとお互いににこやかに語り合える。これも人間関係は和解することを知らせる。むしろ、相手に死亡への配慮が、15歳頃にキスさえなんとも思わないような接触の感覚から、愛する人を選べるまでの慎重さ、深さへと成長させたのかも知れない。そういうことも無く、援助交際や乱交へとさまよってしまう人達が多いのが社会問題かも知れないし、そういう教育的な意味も、この作品には見られるだろうか。周囲の人は既に教えられなくなってしまっているから。これは賛否あるところだが女性の泥酔が男性との交際のきっかけとして幾つも採用されているが、それも照れ隠しなのか。死んだ男性の父親は再婚したと聞き、泣いた長澤に、岡田は高校生の墓参りに誘い、伴う。反対に、池脇の子供に会いに行こうと長澤が提案し、言葉を発しないという子供に会いに向かう。女の子が話した。このエピソードの挿入の意図はよくわからないが、感動的だろう。その後、女性の母校、高校へと二人は向かう。「魂はきっといろんなことを忘れないでくれるのかなって。今辛くて忘れたいことも、思い出せない大切なことも」女性が言う。二人夕焼けの海を並んでみているときに言う。男は死なせた子供の姪にあたる子供が初めてしゃべったことで泣く。二人はこの段階で恋人同士ではない。二人で似た罪の残りを見にいった。夕日と赤い車と海と二人の構図が美しい。その後、死に役の高良が長澤をとても真摯に思っていたエピソードを古川から長澤は聞く。そこでMEGUMIが狂言回しになるのだが、岡田と付き合ったと長澤にMGUMIが嘘をついたが、それでも岡田の誕生日をおめでとうと言って、去ろうとする長澤だが、岡田は追いかける。そして、最低だと岡田の頬を長澤がひっぱたく。付き合ってるけど打ち合わせでだよと言い、「それで何。俺に伝えたいことって」女はもじもじしていると、岡田は面倒くさいと言って、抱き寄せて、「ずっと一緒にいたいくらい好きだ」と言う。女は「私もあなたを一人にしたくないです。一人にしません」と返して、キスをした。誕生日プレゼントだという。ドタバタ劇のようだし、好ましいとは思えない一瞬だったが、逃げようとする女を男は名前を呼んで、今度はゆっくりとキスを返した。全体的に運命や死や再生や男女の関係を美しく描こうとしていたと思ったが、恋人としての始まりがキスだというのは、平成の終わりにかけて、現在の日本人が許容に向けていったからなのか、原作者たちのリードなのか、キスに対しての感覚を変化させようとした。映画でもキスシーンは電車の窓越しから疑似的に見せていた時代から今は遠いのか。だが、こうした二人の出逢いは、永遠を認め合ってはいるはずに思える。同じ長澤主演の『世界の中心で、愛をさけぶ』のほうが、キスシーンもたしか無かったし、死と永遠と再生の男女の出会いという似た感じの映画であるが、生き合っているのに別れてしまうのを繰り返すという現代の性的病理への問いかけではあるのだろう。こうした自由の行きすぎで幾つも別れを繰り返して平然としている人々の中で、こうした特殊なセカンドラブのような形で察するしかないのだろうか。これをどうみるかの裏表で5段階評価は2か4に分かれる。斉藤和義の「かげろう」が終わりを添える。