嘆きのピエタ : 映画評論・批評
2013年6月11日更新
2013年6月15日よりBunkamuraル・シネマほかにてロードショー
拝金主義社会を舞台にした、2つの魂の「覚醒」の物語
舞台は経営難の町工場がひしめく町。主人公のガンド(イ・ジョンジン)は弱者を食い物にして生きている。孤児の彼には、それしか生きる術がなかったからだ。そんな悪業にまみれた主人公の「どうしようもなさ」を、キム・ギドク監督は見事にすくいとる。「悪い男」や「春夏秋冬そして春」で発揮された人間描写の個性は健在だ。
拝金主義の弱肉強食社会で、債務者という獲物を貪欲に狩るガンドの獣性を、キム監督は食事の儀式に象徴させる。ピエタ(キリストの亡骸を抱く聖母マリア)という題名の宗教性にならって言えば、ガンドが食事用の動物をさばく浴室にはホロコーストの匂いが充満している。床を濡らす血と肉のイメージが鮮烈だ。
そんなガンドの前に母と名乗る女が現れたことから、ドラマが動き出す。ガンドに「失うことへの恐怖」を味わわせる母の存在は、彼の中で眠っていた人間性を呼び覚ます。そして、あらわになった母の真実は、より残酷な第2のめざめへと彼を導いていく。
このシンプルな覚醒の物語は、フェリーニの「道」を想起させる。「道」が野蛮なザンパノと無垢なジェルソミーナの双方の魂の覚醒を描いたように、この映画もガンドと母の2人の覚醒をみつめているからだ。ガンドの覚醒の触媒の役目を果たす母親は、自身も「息子を愛する母」以外の何者でもないことにめざめる。が、それがガンドに伝わることはない。2人の心が永遠にすれ違ったまま放置される無情さが、胸をしめつける。
さらに、劇の最後にはこんな問いかけも放たれる。金に始まり金に終わる世の中で救いは得られるのか? と。その問いは、好景気の幻想に浮かれる我々の胸にも「覚醒」の2文字を喚起するのだ。
(矢崎由紀子)