嘆きのピエタのレビュー・感想・評価
全45件中、1~20件目を表示
ストーリーは良いのに組み立てが下手すぎる
物語の舞台になっている清渓川周辺の町工場エリアというのは、首都ソウルの中心に近い場所にありながら開発が取り残されたエリアだ。
昔ながらの雰囲気を残すべきとの声もあるらしく、ここを開発する是非はわからないが、作品内では、見捨てられたエリア、荒んだエリアの写し身として主人公ガンドがいる。
つまり、発展した母ソウルから見捨てられた存在、息子清渓川周辺の母子の物語であるが、これはまあ具体的なメッセージ性に欠けるので無視していいだろう。
街のメタファーとしてミソンとガンドがあり、その二人にはうなぎとうさぎというメタファーがある二重メタファーは面白いと思ったけれど、使い方が良くない。
生きた動物をしめて食べる、いわゆる血肉をむさぼる悪魔の表現として何度か登場する。ガンドがしめずに飼い始めた生き物がうなぎで、うなぎはミソンであるから、ガンドがミソンを母として受け入れた事を示す。が、比喩表現としてのうなぎは、まあここでは良いとして、いくらなんでもガンドが母に陥落するの早すぎるだろ。3回あったくらいでもう受け入れ始めちゃう。
それで次が一番の問題なんだけど、うなぎとうさぎがミソンとガンドなのはちゃんと観てれば誰でもわかるわけで、そうなるとうなぎとうさぎがどうなったか、うなぎはミソンの手でしめられ調理される。うさぎは車にひかれる。二人のこれからがモロバレすぎてサスペンスらしいハラハラ感が全く持続しないのはツラい。
物語の真ん中くらいでミソンが自死することがわかってしまえば、ミソンが何をしようとしているのか全部わかってしまうのだからもう少し考えるべき。
うなぎはミソンが死ぬ直前くらいに、うさぎはガンドがテントに行ったラストシークエンスの直前くらいにするのが最善だと思う。
あとは、母子関係のあり方とかその他、文化的、思想的な違いは理解していても、さすがに気持ち悪い。
これが映画の中だけではない事実もまた気持ち悪い。
良い面は大いにあり、そこだけ見れば星5。しかし悪い面も多く差し引きで星3だろうか。
あまり良いものがない韓国映画の中でも光るものはあった。
ピエタ:亡きイエスの骸を抱く聖母マリア
ネタバレ
見終えてなるほどのタイトル。これも一つのピエタ像(イメージ)だったわけだ。。
韓国工業団地底辺層。高利の借金に苦しむ債務者から情け容赦なく金を取り立て、払えなければ文字通り〝かたわ”にしてまで保険金をせしめる過酷な借金取り立て屋。
幾人も彼に手や足を駄目にされ、残された家族ともどもさらなる絶望の最下層生活に追いやられる。
ところがそんな一人身の彼にいきなり母親と名乗る女が現れ、最初は相手にしなかったものの、次第に彼女の言い分を信じ、本物の母親として受容するに至る。
そのせいか暖かい人間味が彼の中に生じてしまい、非常冷酷な借金取り立てができなくなる。
逆に身内の存在を知った〝かたわ”にされた債務者が彼の「母親」を人質に取り、彼に復讐を果たそうとする・・・・
というのが途中までの流れ。
まるで六道輪廻・餓鬼道の世界を垣間見るような絶望的気分に陥る映像。ここまで救いようのない徹底的な無慈悲の世界は初めて見たような気がする。
そしてかなり訳アリと感じさせる「母親」の出現が悪魔と罵られる「彼」に及ぼす微妙な影響、心理の柔軟化はこちらが痛々しいと感じるほど。
その「弱点」を見透かし彼に仕返しをしようとする彼の被害者の登場はまさしく因果応報。
ついに「母親」の真の目的が明かされオープニングシーンと結びつくわけだが、ここで種明かしが早すぎるのではないか? と感じてしまったものの、そこから更なるクライマックスで監督が〝ピエタ”と名付けたタイトルの意味がおぼろげながら浮かび上がってくる結末、全体構成になかなかの感銘を受けることになる。
ただラスト。あれがもし「刑場に牽かれるイエス」を模したものだとするなら、それは違うだろうと感ず。あれでは自動車の運転手が単なる殺人犯として処罰を受けることになってしまうだけだから。(遺書でもない限り言い訳や釈明は認められそうもない)
被害者やその家族が「彼」に対する恨みを清算できる別の相応しい手立てがあったはずとそこが惜しまれる。
しかし、自作自演をしながら「彼も可哀想・・・」とかりそめの母親が慈悲心(又は罪の意識か)から涙ながらに語る場面こそ、私にとってのクライマックスでしたね。
総評四つ星
2008-2
復讐であり贖罪
「恨(ハン)」というナショナルな思考様式を文化的背景に持っていることも作用してか、復讐を主題に据えた韓国映画の力強さはマジですごい。点在する憎悪はやがて一振りのナイフへと研ぎ澄まされ、作品そのものに死というピリオドを穿つ。そこにカタルシスの恍惚はなく、どん詰まりの虚無感だけがある。
手ブレの多いざらついたカメラワークは復讐の自家中毒に陥った人々の錯乱ぶりを如実に示しており、小説で言うところの「信頼できない語り手」的な危うさが物語のサスペンス性をさらに倍加する。その間断に挟まれる緻密で正統的なロングショットはさながら宗教画のような崇高性と啓示性を湛えている。特にラストシーン、夜明けの幹線道路を走る軽トラックが血の轍を描き出すシーンは美しいほどに悲劇的だ。
ピエタとは聖母子像の一種で、磔刑に処され事切れたキリストを抱え上げる聖母マリアの彫刻や絵画を指す。しかし本作では孤独なキリストを抱え上げるはずのマリアは彼より先に没し、残されたキリストは自らに注がれるはずだった哀れみと慈愛を求め亡霊のように彷徨う。彼が自分に(間接的にではあるが)引導を渡してくれる相手として、自分がかつて不具にした男の妻を選ぶあたり、彼がいかに母性に飢えていたかが窺い知れるというものだ。
冷酷に他者を傷つけ時には命まで奪ってきた男が女性蔑視の一形態に過ぎない母性神話に縋り付いた果てに悲惨な末路を辿る、という流れは社会倫理的に考えて至極当然の因果だ。しかし土の上に頭を擦り付けながら「母さんだけは助けてくれ」と叫び続ける彼の姿を見た女が「彼も可哀想」と涙を流す一幕には、折り目正しい社会倫理では掬いきれない個人倫理の儚い燐光が煌めいている。女の自殺は、男に自分の本当の息子を殺されたことへの復讐でもあり、同時に自分を本当の母と信じて泣き叫ぶ男への贖罪でもあったのではないかと思う。しかしそれが結果的に彼の命を奪う契機になってしまったというのがこの上なく悲痛だ。
すっとぼけた美しさ
キム・ギドクは韓国のたけしと一部で言われていましたが、個人的にその通りだと思っていて、それは暴力描写ではなく、すっとぼけたシニカルさ、その際の間が似ていると思っています。
うなぎが落ちてピチピチいってるシーン、ギターがド下手なシーン、そしてラストシーンと、隣で芸人さんがツッコミを入れれば笑えるようなシーンだと思います。
これをサスペンスだと思って見たら2流3流になってしまうと思います。現実感の調整でも冷めてしまう方がいるのはうなずけるんですが、「うつせみ」のキム・ギドクですから、そうしてでも描きたいものがあるんだろうと思って見てました。
それが、僕が映画史に残ると思っているラストシーンの美しさです。ここでプラス10点ぐらい加算されました。
サマリアの運転シーンもそうでしたが、泣けるとも笑えるともつかない、今まで味わったことのない色の感情を与えてくれました。
そこでは想像もしたくない凄惨な事が起きてるわけですが、それを俯瞰的に見せて深入りさせず、なんならクスッと、笑いを20倍に薄めたような成分と、陽の登らない早朝の爽やかな空気と、あり得ないし胸糞な色であるはずなのにストレートに美しく感じさせる映像は圧巻でした。
悪魔を人間にしてしまう…
ギドク監督らしいエグみ、これぞ韓国映画。借り手を障がい者にして借金を保険金に代えて取り立てる借金取りイ・ガンド。客は町工場の人々で次々と機械で手を落としたり、ビルから落としたり、情けを一切かけず、悪魔の所業。しかし、生まれて30年天涯孤独で育ち、人の愛情を知らずに育つ。そんなところに母親と名乗る女性が現れ、生活が一変する。最初は疑うも、次第に心を開き、共に暮らすようになり、母親無くしては生きていけないようになってしまう。しかし、それはガンドに息子を自殺に追いやられた母親の復讐だった。悪魔に初めて愛情を与え、それを自ら自殺という手段で一気に奪い去る。これほど恐ろしい復讐はない。もはやガンドは抜け殻、生きる糧を無くし、自殺するしかなかった。2時間切るスピーディな展開ながら、色濃く、後味が悪い。ガンド役が巨人の岡本和真にしか見えなかった。
あまりにも悲しい物語
人の心を持たない残忍なやり方で借金を取り立てて、大勢の人から恨まれている、天涯孤独の男。
そんな男の元に母親と名乗る女が現れた。拒絶しても辛くしても無償の愛を捧げてくる女に、少しずつ心を開いていく男。
その結末のかなしさは壮絶なものだった。
男は人の心を取り戻したがために、もう愛のない暮らしには戻れないのだろう。
この悲しい死に方にも彼の償いの気持ちが滲み出てより悲しくなった。
再見(2012年9月6日)
正直これを見てその後キム・ギドクを見るのをやめたくらい衝撃作品。何よりも重く美しさの欠片もない。最初見たときのメモには儒教的母子観における母性の欠如とその普遍性が描かれていると思ったが、今回の再見で新たな発見があった。母性は復讐へ向かうと厄介なものだがそれでも母性はそれ以上の普遍性を持つことをこの映画を通して知ることになる。母性は復讐として効果的だがそれでも誰からも否定されえない属性であることが開示された。罪も罰もなく救済と許しが最後には描かれるが、そこには見る者への媚びは微塵も感じられない。それ故に作品的な救済はなくカタルシスもない。あるのは混とんたる現実のみである。
復習の仕方が凄い
ガンドの前に現れた母親という女。でも実は、、、。ミソンの考えた復習の方法が凄い。母親の愛情を思い知らせ、有頂天になったところで奈落に突き落とす。ガンドの目の前で死ぬ。確かにガンドがしてきたことを体験させるべくピッタリの方法だけど、観ていて辛い。
ガンドのケジメのつけかたもまた凄まじい。
あの奥さんに言われた、お前を車で引きずって殺してやりたい〜を実行させた。でもあれだと奥さんに殺人容疑がかかってしまいそう、と余計な心配が沸いた。
私が初めて観た韓国映画で、面白く、韓国映画を見始めるきっかけになった映画。久しぶりに観たけれどやっぱり面白い。
壮絶な母の愛
久々に映画を観て泣きました。
壮絶な母の愛と親からの愛を求める孤独な心。
愛を知らずに育つと、人はここまで残忍になれるのか。
そして初めて知る愛は人をここまで変えてしまうのか。
壮絶なエンディングに涙します。
しょっぱなから始まる、丑島君的高利貸しの借金取り取り立てが非常にエグくて観いて辛いですが、心をえぐり取られる名作です。
そして辛くて二度と観たくない名作かな。
ピエタ、母への愛と母の愛がすべて
韓国映画の、母子間の愛情はとてつもなくて愛が深すぎて暗闇に突き進んでしまうようなのが時々ありめんくらう。これはそれより複雑パターン。途中でそうか、とわかってしまうのだが、ガンドの、極悪非道人から親孝行に前のめりになる様がとにかく異様だ。図らずも、母の策略により、自分が加害者となり危害を加え人生を変えてしまった人々ひとりひとりに贖罪をしていくことになる。
母の死、策略のラストステージで復讐完成に燃える母の背後には、また予定外に別の母。韓国映画王道の強い母たちの物語。
それにしてもいきなり冒頭のシーンの衝撃。
ラスト、それでもセーターを奪い返してしまうほどの、誰かに愛されていたかった、信じるものが欲しかったガンドの姿に衝撃、その最後の贖罪の衝撃。
処女懐胎だろうが演技だろうが、子にとって母は母。
むき出しの心をヤスリで削られるような苦しさと
観る人の予想だにしないストーリーテリングにはいつも感動させられます。
久しぶりに観たキムギドクでしたが、やはり素晴らしい!
子のためであれば何でもなし得る母親の強さを
描いていました。
いや、母(を名乗る女)ミソンのすさまじさといったら
いっそファンタジーなくらいで、
本当の女心・母心を知るべくもない男である監督の
想像と憧れの姿の現れかも知れないと思いました。
母と息子の関係には、親子以上に別の特殊な感情も
付随しがちなのではないかと思えてきました。
劇中、ミソンがガンドを慈しむ姿は恋人のそれのようでもあり。
また、よくアメリカのギャング映画でも描かれているように
残虐な悪人であっても母親だけは大切にしたり、
あるいは母親には頭が上がらなかったりして。
ママ
ところどころカメラがブレたり、「こんな雑なズームある?」という寄り方だったり、不思議な映像が入る。どこにも視点が定まっておらず、なんか安っぽくみえて、奇妙な時間が続く。
と思ったら母親が何か企みはじめて、ああそういうことかと。借金取りの鬼が心を鎮めていく過程は息もできないを思い出しましたが、こちらもきちんとバッドエンド?に着地してた。
というか主人公ガンドは母親が債務者の母親だったと最後に掘り出したセーターの男から気付いたでしょうから、そこで絶望ではなく騙された怒りが起こるのかなと思いましたが、まあこの時点で悲しみを取り戻した人間になっていたということなんすね。トラックの下での自死の選択は少し疑問が残った。最後の血を曳くトラックシーンはよかった。
暗くて重い復讐譚の中に見える母と息子の愛
ベネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞した韓国のキム・ギドク監督の作品。
バイオレンスや復讐はどちらかといえば苦手な方なのに、最近、韓国のそちら系に走ってしまっています。
天涯孤独で母親というものを知らないまま生きてきた、冷徹な取り立て屋のガンドの前に、母親と名乗る女性(ミソン)が現れて、家に入ってきて、いきなり台所にたまった皿を洗い出すのです。不信に思ったガンドは何度も女を追い出そうとするのですが、女は何度もガンドに謝り、たびたび涙を流すのです。でも何だか怪しすぎる。しかし、母を知らないガンドは女を慕うようになり、女(母親)に首ったけになってしまいます。
ガンドを抱きしめ、よしよしもするのですが、ガンドの夢精を手伝って、手を汚し、顔をしかめて、水で洗い流すシーンから、「本当の母親じゃないんだ」とわかります。
この作品の「復讐」は、屈折しているというか、手が込んでいるものでした。
母性愛を知らない男に
母の愛を植え付けて
愛を失わせることで
悲しみのどん底に突き落とす
衝撃の事実を男が知る
そして贖罪として男は・・・
復讐のためにガンドに近づいた女もガンドを憐れみ、慈悲のような気持ちが芽生えていました。凄まじい映画なのに、優しさも残っていて、気持ちが和らぎました。
女と一緒に植えた松の木の下に、母の亡骸を埋めようとしたときに、ガンドは事実を知るわけですが、女の息子が着ていたセーターを自分が着て、3人並んで横たわっているシーンが、不気味なのに美しく見えました。
多少、笑えるところもありました。
女が置いていった、うなぎにタグのようなものがついていて、そこに女の名前と電話番号が書いてあったり。笑えるシーンかどうかはわかりませんが、ガンドが女の股間に手を突っ込み、「俺はここから産まれたのか?」と叫び、「ここにまた戻してくれ〜」ということころ。母と息子なのに、ここで、2人は結ばれたのか・・・? 背徳的なにおいもしました。
仕事の合間、寝不足の時に観たのですが、ある意味、魂を揺さぶられました。
天晴
冷酷冷徹、悪魔とさえ罵られるガンド。
そんな彼に、面影も知らない母親が現れたからといって、
何が変わるのかと思ったら、全く逆の真人間になるという、
ホントにそんなのアリ?とは思いましたが、
それだけミソンの愛情は大きかったのです。
母は偉大だと本気で思いました。
ところが、ガンドが夢精するシーンが2回あるのですが、
2回目はミソンが「手伝って」、手に精液が付いてしまいます。
ここでミソンは手を洗うのですが、
その顔の険しいこと、ここで「おや?」と思うのです。
「こいつはひょっとして・・・」という振りでして、
その後ガンドの誕生日(ミソン曰くなので多分でたらめ)に、
ガンドにケーキを買ってこさせといて、
ミソンはいつも編んでいたセーターを持って出かけてしまいます。
更に「おやおや?」となってきます。
この「おや?」の増幅が話を引っ張ります。
遂にミソンは最後の「大芝居」に出ます。
これが自作自演のホントに「大芝居」で、
ガンドはなんで気づかないのか不思議なんだけど、
それもミソンの前振りがよく出来ていたからなんだと思います。
そう、ガンドの母、というのも「芝居」だったのです。
何故そんな「芝居」をミソンはしたのか、
やはり、母は偉大だ、と言わざるを得ません。
ラスト直前の廃墟のシーンで、
ある債務者の母親が出てきたシーンは「まさか!」と思いましたが、
そこも見事に裏切られました。
導入からはここまでミステリーになるとは考えられず、
結論良い話に着地するとは思えない展開には、
日曜の朝並の「天晴」を進呈したいです。
ずっしり重い
30年ぶりに再開した親子が息子の仕事を知って愕然とし、親自ら身をはって子供に愛を説いていく物語。
突然息子の前に現れた母親。最初は不気味だったけど次第にまともな人間の心を持った人だとわかり安心した。
もし、母親まで息子の肩をもって協力するような人だったらこの重く暗い作品に追い討ちをかけるような暗さになる。
唯一の救い母親が正常な心であったこと。
でもなぜ息子を見捨てたのか?
30年の間どこでなにをしていたのか?
この謎は謎のままだった。
.
自宅にて鑑賞。原題『피에타(英題;"Pieta")』。題名のピエタ(聖母)は本作に登場しないし、少なくとも("C.ミンス"とクレジットされた)J.ミンスの“チャン・ミソン”はそう思えない。時折フラフラ揺れるアングルやズームイン、ズームアウトを繰り返す落ち着きの無いカメラは昂った感情の現れだろうか。ラスト近く、罵倒し拒み続けた障碍者となったW.ギホンの“フンチョル”の抱擁にソッと手を添えるその妻、K.ウンジンの“ミョンジャ”とそれを屋外から見守る孤独な男の対比に本作のテーマが隠されている。65/100点。
・J.ミンスの“チャン・ミソン”に食べさせた物は翌朝、L.ジョンジンの“イ・ガンド”のズボンの左腿の辺りが汚れていたのがヒントだと思う。
・撮影は二台のデジタル一眼レフCanon製"EOS 5D Mark II"で、フルデジタル撮影され、その内、一台は監督自身が回したらしい。
・監督は10日間でロケハンを及び準備を進め、20日間で撮影を終え、その後の30日間で編集とポストプロダクションを施し、完成させたと云う。尚、予算はたったの13,000ドルで済んだらしい。
・鑑賞日:2016年7月2日(土)
激烈で見るに耐えないくらい凄い
物語のからくりが何となく途中で分かるようにさせて、それがまた辛辣な感情を生み出して、とにかく見ているごとに辛さが増していく激烈な作品だった。このような嫌な題材は、悲しいかな世の中にはたくさん存在するだろうけれど、この物語の創造性は並大抵のものではない。これほどまでにクライムな映画は皆無なような気がする。
全45件中、1~20件目を表示