サイの季節のレビュー・感想・評価
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権力の圧倒的腕力になすすべもない個人の運命を考えた
体制側を批判した、と取られた詩を書いた男が、妻とともに捕らわれた。30年という年月はあまりにも長過ぎる。ボクなら悲観して獄死しそうな期間だ。そして女性に執拗に迫る官憲は男を抹消しようと動く。モノトーンのシーンに、人への思いと運命、誤解が絡み合い、象徴的なカット割りを刻んで行く。今現在も世界で続く内戦の悲劇でも同じ図式だろう。権力の圧倒的腕力になすすべもない個人の運命を考えた。
イランから亡命した監督
イランのイスラム革命で、反イスラムの詩を書いたとして詩人のサヘルと妻ミナ(モニカ・ベルッチ)が逮捕される。
先に釈放されたミナのもとにサヘルが獄死した、との偽情報がはいる。
サヘルは30年の刑期を終えるが・・・。
監督は前作によりイランに帰れなくなり、亡命せざるを得なくなった
バフマン・ゴバディ。
良質で硬質な、これが映画だ。たぶん。
久々に、良質で硬質な映画を見た。
イスラム革命のなか投獄されたサヘル、彼を待つ妻ミナ。
横恋慕を抱くアクバル。
3人の目を通して、それぞれの感情が、押し殺したなかで描かれる。
この3人を演じたベヘローズ・ボスギーもモニカ・ベルッチも、そしてユルマズ・エルドガンも皆素晴らしい濃厚な演技。
映画もその大筋を観るものには十分に分からせながらも、ときに幻想的な映像を詩とともに織り込む。
本当の映画ファンだけが見られる映画なのか。
自分は、まだまだ修行が足らぬことを実感した。
蛭、亀、サイ
物語の根底には、1979年のパーレビー国王の亡命によって達成されたイランイスラム革命の最中に起きた男女の愛憎がある。この革命運動によって、従来の主従の関係が逆転して、それまで鬱屈していたものが噴き出す。
こうした、社会的立場の逆転により、抑圧されていた人間の醜い欲望が現れるのは、中国の文化大革命を題材とする作品でよく見るものだ。
この作品でも、醜く弱い者たちの暴走と、その衝撃が人の心に惹き起こすものを、演出的な画をつなぐことによって描いている。
男たちの背中に貼りついて血液を吸う蛭は、まるで東洋医学の鍼灸治療にも似た施術。このようなものがあることを初めて知ったが、案外世界中で行われているのだそうだ。
この蛭のほか、空から亀がたくさん降ってきたり、荒野をシロサイが走っていたりと、生き物でイメージを膨らませる演出が時折現れる。蛭のシーンは現実のものとして描かれているが、亀とサイは現実世界のことではなく、登場人物の意識を表すものとして現れる。
こうした心象を抽象的に表現するシーンが多く、物語の本筋を追うことが非常に難しい作品になっている。しかも、イスラム圏ではお決まりの男性の口髭のおかげで、登場人物の区別も難しく、はじめのうちはモニカ・ベルッチの夫と彼女に横恋慕する男の現在・過去の見分けができずに、4人(現在と過去それぞれの夫と横恋慕男)の人物の関係を把握することで精一杯だった。
もう一度、機会があれば観てみたい作品である。今度は、物語論的なものを追わずに、説話論的なものを注意深く見つめる余裕を持ちたい。
イスタンブールのロケに関しては、あの街のランドスケープとサウンドスケープに浸るという、小さな旅が味わえて良かった。
命の輪郭を映しとる
これは久々に手強い作品と出会ったものだと、観終わって、改めてちょっと身構えてしまいました。
本作は実話ベースです。しかし、ドキュメンタリータッチでは描かれておりません。現代アートのような映像表現も含みながらの、ストーリー展開、人物描写、さらにはイランでのイスラム革命の予備知識がないと、僕のようなボンクラな理解力じゃあ、とてもじゃないが付いていけません。自分の頭とハートで納得できるようになるには、何回も観直す必要のある作品だとおもいました。
主人公のクルド系イラン人の詩人、サヘル(ベヘルーズ・ヴォスギー)は、革命政府から「神を冒涜する、くだらん詩を書いた」として検挙され、投獄されてしまいます。彼の妻ミナ(モニカ・ベルッチ)も投獄され、二人は離ればなれとなってしまいます。
本作でのキーパーソンとなるのが、アクバル(ユルマズ・エルドガン)という男。彼は詩人の妻、ミナのことを密かに慕い続けておりました。
革命前、ミナは王制下、軍司令官の娘として裕福な家で育ちました。アクバルはその司令官邸宅の運転手であり、下っ端の使用人だったのです。しかし、革命によって、まさに天地がひっくり返りました。
昨日まで、偉い人たちに平身低頭していたアクバル。それが、革命がおこった今では、支配する側に立場が逆転。今は権力を手に入れ、ついには自分の長年の想いを果たそうとします。実は、詩人サヘルと妻ミナを引き裂いたのは、アクバルの仕業でありました。サヘルを既に死んだものとして「処理」し、ミナを監獄の中で自分の思うまま凌辱してしまいます。ミナは獄中で望まない妊娠をし、二人の子供を出産します。
さて、永い、長い、獄中生活30年を経て、詩人サヘルはついに釈放。彼は、なによりもまず、最愛の妻、ミナの行方を捜します。あらゆるツテを頼りに、彼がたどり着いた先は、トルコのイスタンブール。
ここはヨーロッパへ渡る難民たちの中継地となっています。サヘルはここで二人の若い女性と出会います。彼女たちも難民らしい。ヨーロッパへ向かう旅費を稼ぐため、止むを得ず、女である自分の身体を売る、いわゆる「街の女」になっております。もとより、自暴自棄になっていたサヘルは、この女に誘われるまま、体を寄り添わせるのですが、実は彼女こそ、自分の妻ミナの……。
「サイの季節」とは、かつてサヘルが書いた詩の言葉です。彼の書いた詩は、本作中で、幾度か朗読されます。それはどこか、日本の詩吟、または浄瑠璃の悲恋物語を思わせる、体の奥底からこみ上げてくる詠嘆として詠われています。
「サイは土を食み、遠くへ吐き出す」
生まれた故郷を追われ、国を捨て、放浪する人々。詩人サヘルも、その群衆の中の一人であることはまぎれもないのです。彼らは自分の体と魂をつくった故郷の土を、一体どの土地で吐き出すことになるのでしょう?
本作では、重要なキーパーソンであるところの、アクバルの人物像について、あまり多くの説明をしておりませんので、作品の流れの中で短時間で理解するにはやや無理があると感じました。
映像に関しては、アート感覚あふれるアプローチがなされております。
映画ならではの広大な風景、ロケーション。それを絵の額縁のように利用しながら、画面の半分に、クローズアップした人物を配置。これを一つの様式のように多用します。そこに演技は必要ありません。ただ、ただ、一人の俳優の存在感、質感、肉感、そういうモノをキャメラに捉えようとします。それはベヘルーズ・ヴォスギーというイラン人俳優(ちなみに彼も革命後亡命)その人の存在感に監督が惚れ込んでいるからなのでしょう。
この絵作りを見ながら、ノーベル賞作家、ヘミングウェイの晩年の肖像写真を思い出しました。顔の一つ一つのシワ、ザラついた肌の質感。口元から顎をふちどる白い髭。その一本一本がもつ存在感。まるで小説「老人と海」の主人公、ちっぽけな小舟で、巨大なカジキを釣りあげる、あの老人を彷彿とさせるヘミングウェイ。その写真の手法を本作で持ち込んだかのようです。
他にも、監獄の柱に縛り付けられたサヘルのシーン。そこに降り注ぐ大粒の雨。と思ったら、それはなんと小さな亀。亀が雨のように降ってくる。このシーンは何を意味するのだろう?
地面にひっくり返った亀が映ります。でも、その亀は必死で起き上がろうとする。キャメラはその亀の姿を地面すれすれの目線で捉えます。
また、本作の序盤で登場する、横たわる巨木のシーン。まるで、樹齢千年を超える屋久杉のような巨木が横たわっている。それだけで圧倒的な存在感があります。
そういうロケーションを大切に描く、絵として切り取る感覚は、ギリシャの故アンゲロブロス監督作品に通底するようなところも感じられます。
本作を観て、ふとジュルジュ・ルオーの「避難する人たち」という絵画を思い出しました。
人々はいつも、なんらかの理由で、避難を強いられている。それは決して革命や戦争といったことだけではないでしょう。
弱い人たちは、いつでも避難を強いられる。
その象徴的な例がニッポンの原発事故。それによって否応無く「故郷」を追われた人々。
更には、最近問題になっている貧困の連鎖。それによる子供達の漂流。先進国と呼ばれる日本国内で、実はいま、静かに、世の底辺で「難民」にさせられている人たちがいる。
あの、深夜の商店街を、あてもなくさまよい、その後失われた二人の子供たちの命。
あの監視カメラに映った「ぼやけた子供達の姿」こそが、象徴的な「ニッポンの避難」そして「ニッポンの命の軽さ」そして「命の輪郭がぼやけている」という「風景」ではなかったでしょうか?
ルオーはご承知の通り、20世紀最高の宗教画家と呼ばれています。その骨太の輪郭が形作る、人物像。そこには人間の尊厳を見つめるような、画家の視点があります。僕はそのルオーの筆使いそのものに、どこか「聖なるもの」を感じ、心が静かになるような気がするのです。
本作「サイの季節」をネットで調べると、監督であるバフマン・ゴバディ氏自身も、生まれ故郷イランを去り、現在も国外亡命中であるとのことです。
また、婚約者がイラン政府からスパイ容疑で逮捕され、8年間拘束されていたという情報もあります。
そのような監督自身の境遇を踏まえ、本作の方向性として、イランでの革命の際、実際に起こった、不幸な人間ドラマとして描くのか? それとも現代アート的な表現技法へ軸足を置くのか、はたまた、民衆を決して幸せにしない国家や宗教への痛烈な批判を描くのか?
もちろん、監督自身はこれらを全て融合させ、作品として仕上げようとしていることは疑いようもありません。ただ、そのブレンドのさじ加減については、好き嫌いの分かれるところでしょう。
監督自身が、難民であり、故郷に戻れない境遇で描かれた本作。
バフマン・ゴバディ監督については、抜きん出た映像感覚の持ち主であることはまちがいなく、アート系の映画がお好きな方にはいいかもです。
これぞ映画
映画でしか描けない世界
それを描いているのがこの映画
色といい、物語といい
そこいらの映画一線を隔します
しかし、話としてはいささ煮え切らない・・・
と思ってしまいました
サイがサイだとは・・・・
それが未だわかりません。
サイの肌のようにかたい
深刻な映画である。
撮影、テンポ、ストーリー、役者の面構え、演技、なにもかもがシリアスで重い。
そのシリアスさが空転して硬いだけの画面になってしまっているシーンも多々ある。
結果として苦味が強くなりぎたウィルヌーヴの二番煎じという印象で、あまり魅力的な作品に仕上がっているとは思えない。
せめてサイは実物を撮るべきでなかったか。
欲望と、抑圧のあいだ
「ペルシャ猫を誰も知らない」で、世界の注目を集めたバフマン・ゴバディ監督が、実在するクルド人詩人サデク・カマンガルをモチーフに描く群像劇。
この作品に関しては、あらすじを含め作品情報を頭に入れずに劇場に足を運ぶべきである。なぜならば、異常ともいえる妄想力、感受性を武器に世界を渡り歩く「詩人」の破滅的人生をテーマに描く本作。根幹にはストーリーが存在しているものの、鬱積と疑惑に満ちたモノトーンの空間を染めているのは、一人の男の爆発的欲望と抑圧の作り出すイマジネーションの奔流であるからだ。
政治犯として投獄された半生。苦しみの果てに結ばれた男と女。抗えない流れの中で生き別れた美しき妻。もう、このフレーズだけで濃厚な人生ドラマが花咲きそうな予感だが、さらに厄介なのが、主人公となる男のあっぱれなエロスへの渇望。もう、彼のような男が世界を席巻すれば、少子化対策もそれはそれはスムーズに行くだろうに・・。
だが、その渇望は、思春期の少年にあるような「ハレ」の解放感ではなく、深く、深く闇へと手を突っ込み、未知なる異性に手を伸ばす芸術家としての試行錯誤の延長である、まるで「儀式」。庶民の想像を遥かに超えていく、エロと失望の権化。観る者は、まるで異星人の理解できない言葉に呆気に取られるが如く、強烈な表現の海に突き落とされる。
疲れる、呆れる、眠くなる。だが、その絶望の先には、ささやかな浮遊感と、高揚感が観る者を包み込む。メジャー映画に漬かり切った頭では分からない、あるべき芸術との付き合い方がある。「未知」は、いずれ必ず「道」になる。という所だろうか。
その2時間弱。暗闇の中で、他人の計り知れないエロ頭に潜り込んでじっとりと過ごす時間旅行。この特異な体験は、きっと観る者の眠れる感性と、可能性を「ちょっと」開かせるかもしれない。
しかし、「詩人」とはここまでに本能的な、動物的な生き物なのだろうか。機械と予測、ゲームに支配された現代において、支持者を得にくい芸術であるのも、何となく分かる気がするのである。
重すぎて
かなりヘビーな内容で台詞は少なく空気感でビンビンと圧倒してくる。
ただ…自分には軽すぎるシーンや理解が難しい長すぎる間が存在し、ナレーションも違和感を覚えるシーンがありところどころ現実に戻された。
お国柄かエロチックなシーンも浮いている気がして、もっと見せない演出でも良かったのではと感じてしまった。
空気感が大変良かっただけに求め過ぎだとは思うけれど残念。
ちなみに…公開初日、寝てしまった人、途中退場した人、合わせて約1割wそういう自分もけっこうギリギリww
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