セデック・バレ 第二部 虹の橋のレビュー・感想・評価
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風のように戦え
第一部は分かりやすかったが、この第二部の終盤は敵と味方の区別が難しくて若干評価が下がってしまいました。山岳地帯のゲリラ戦。地の利があるセデック族の強襲は凄まじかったが、霧社では圧倒的多数の日本軍が巻き返しを図る。それというのもモーナ・ルダオと対立しているタイモ・ワリス率いるタウツァー社が日本軍に力を貸していたからだった。
同族なのに協力せんのかい!と、思ってはみたもものの、頭目モーナを筆頭に主導者たちは全滅を覚悟していたようだし、女たちは投降するくらいならと自決を選んでいたからだ。これも戦争の一幕だし、女たちの立場はいつの世も弱く悲しい物語が感じられる。しかし、子どもたちは違っていた。険しい山林であっても遊び場のように自由に動き連絡係として活躍し、さらには襲った日本軍武器庫から武器を奪い戦闘に加わるシーンも描かれていた。
敗れることはわかっていながら、日本の戦国時代のように潔く自決の道を選ぶところ。武士道精神が彼らにも受け継がれていたのか?この点では日本人でも共感できる部分が多いのだろう。戦闘機、大砲、毒ガス攻撃・・・日本の戦力は彼らにもわかっていたのだ・・・
第一部では反乱を起こす昂揚感がメインであったが、第二部では戦争の激しさと虚しさが描かれていたように思う。そして立場の弱い女たちの悲しさ。さらにはセデック族の遺伝子を後世に残そうとする生存本能。決して英雄視するだけの戦争映画ではなかった。同化教育は結局失敗する。文明を取り入れてやったのに・・・という日本側の傲慢な姿勢は批判されるべきであり、戦時下ではなくとも改めなければならないと痛感しました。
アイヌ民族に対しても、日本は弾圧をしている。『コシャマインの戦い』『シャクシャインの戦い』と言う
アイヌ民族に対しても、日本は弾圧をしている。高校2年生の歴史で習ったと思うが『コシャマインの戦い』『シャクシャインの戦い』と言う。そんな歴史を無視して、日本は単一民族国家だと言う。もっとも、台湾は正確には日本の領土ではないし、中国の領土でもない。台湾の歴史は正確には知らないが。
国民党が、大戦後台湾に逃れて、樹立した漢民族政府だし、日本にとっては明治よりも前は、間に琉球王国があった。これも高2の日本史で習う。
高砂族を、単純に、首狩り族とか野蛮人とか差別しているが、この映画の様な歴史があった事を知らないのは、日本人として恥ずかしい。勿論、日本軍がこんな事をやったか、やらなかったかは別の話。あくまでも、台湾を武力で統治していた事実を知っておくべきだと申しあげている。
この首領のカッコ良さなんて関係ないし、英雄視したくない。また、首を斬ると言う行為もやっていたのだろうから。しかし、日本人だって、切腹を世界から野蛮視されているが、日本人全てがサムライな訳ではない。個人を英雄視するのではなく『そう云う事件があったと知るべき』と申しあげている。
戦いを俯瞰するもう一つの視点
1.2部を続けて鑑賞。
侵略統治を正義と信じて疑わない日本軍と、誇りのためであれば女子供の殺戮も辞さないセデック族の血みどろの抗争。それだけであれば「悲惨な史実から目を逸らすな」みたいな平板なメッセージしか伝わってこないんだけど、そこにセデック族の女たちという視点が加わるためうまい具合に立体感が生まれている。
女たちは基本的には男たちに従順に奉仕する良妻賢母であり、彼女たち自身もそこにある種の誇りを持ってはいる。しかし男たちが何も言わずに一斉蜂起をした際には「どうしてこんなことを!」と涙ながらに反感を露わにした。「日本軍/セデックの戦士たち」という対置構造が誇りとか伝統とかいった観念的なものを軸にしている一方で、「戦う男たち/虐げられる女たち」というきわめて身体的な不安や恐怖を軸とした別の対置構造がここにはある。
誇りをかけた戦いにはもちろん大きな意義があるけれど、そこへ共同体の生命まで賭けてしまうことに対するメタ的な視点がなければ、作品は容易にプロパガンダへと堕してしまう。セデック族の戦士たちが直面した危機に同じ目線で寄り添いながらも、彼らに疑義を投げかけるものとしてのセデック族の女たちの心境も同時に汲み取っているからこそ、本作には単一の二項対立を超越した奥行きが生まれているんじゃないか。
とはいっても日本軍将校の「彼らには我々が失ってしまった武士道の精神があったんだろう…」的なセリフはかなり軽率だと思う。あとは頭目のモーナ・ルダオが仲間たちを置いて一人だけ森に消えていってしまったのもなんだかなあという感じ。戦いの責任を取ることよりも民族共同体としての威厳を存続させることのほうが重要ということなんだろうか。しかしそもそもこの戦いの発端は頭目のモーナ・ルダオなのだから、それはさすがにどうなん…?と思ってしまう。
セデック・バレの美しさたるや!
一部、二部を1日で鑑賞完了。
この映画を観るまで、恥ずかしながらこんな歴史が、こんな文化があったことを知らなかった。
彼らの文化の美しさと素晴らしさに感動するとともに、歴史上繰り返されてきた全ての侵略や植民地化という暴力に心底腹が立つ。
教科書上は彼らの文明が踏みにじられた事実がたった一行で説明されてしまうことすらある。
他にもマヤ、アステカ、蝦夷、アイヌ、アボリジニ、アフリカ、アマゾン、そしてこのセデック・バレも。
失われたものたちの偉大さと魅力を、そして無念さを強く感じさせられる作品だった。
長尺なこともあるけど
セデック・バレたちの歌、踊り、祭り、ファッション、生活、宗教感、思考、身体能力、文化の継承に至るまで、その魅力や情報がぎゅっと詰め込まれてて、かつその構成も上手くて納得感が強い。
森の中を駆ける勇猛なセデック・バレのシーンはどこを切り取っても美しい。。戦士たちのカッコよさよ。
物語上、戦闘シーンもかなり多いのだけど、どのシーンも迫力があって、場面や撮り方も違って、観客を飽きさせないのが上手い。
冒頭はセデック・バレたちの伝統的な狩りのシーンや部族(社)同士の対立シーンから始まり、日本軍が絡み、どんどん悲壮感を増してゆく。
残酷な描写も多いのだけど、どのシーンも本当に素晴らしい。戦争の虚しさを感じさせるための残酷さという要素が多分にある。
個人的には、最後の日本軍鎌田のセリフだけはいただけなかった。。武士道に通じるものがあるということが理由で賞賛されるべきではない。賞賛され、尊重されるべきはセデック・バレの文化そのものである。
個人的にもうひとつ、、前述とは完全に矛盾するのだけど、セデック・バレにある「虹の橋」という極楽浄土的な思想は悲しく切なかった。あの世ではなくこの世で人生を、文化を繋いで欲しかった。(もちろんその思想なしでは到底救われない世界だったからこその産物なのだともわかってるけど)
Wiki情報によると事実では彼らは霧社事件で日本軍に対してたいした実ダメージは与えられなかったようだが、そんなことはどうでもいい。
ただただ、失われた文明の尊さと美しさを感じさせられる名作。
失われた文明の尊さを訴える同様の作品としては
シネマ歌舞伎のアテルイ、彷徨える河
本だと パパラギ もオススメです。
一部、二部一気に見終わりました。二部は戦闘のシーンが中心です。 キ...
一部、二部一気に見終わりました。二部は戦闘のシーンが中心です。
キャストの方はほとんどがセデック族の方で素人さんということですが、
戦闘シーンでの身体能力の高さが画面から伝わってきて、
後の太平洋戦争時に、ニューギニアでは高砂義勇軍として
ジャングルを素足で駆け巡り、困窮した日本兵を助け、蛮刀を手に
果敢に敵陣に切り込んでいく勇猛な姿を彷彿とさせました。
多少脚色されているとはいえ、この事件が起こったのは史実です。
日本人の他文化に対する無理解が衝突の引き金になったことは確かでしょう。
民族の誇りを守る為に女子供も巻き添えにして死んでいくセデックの男たち。
方や、自国民を惨殺した原住民の妊婦達を保護し、優しく接する日本人の姿。
決して日本人だけが絶対悪ではないと感じられる描き方は
皮肉にも、その後の日本と高砂族と呼ばれるようになった彼らとの
戦場の中で生まれた絆に続いていくのだと思いました。
当時アジアでもっとも近代文明化された日本人と、日本統治下の
台湾の中のさらに原住民族の彼らとの接点はなんだったのでしょうか。
第二部の終わりに河原さぶさんが演じる台湾守備隊司令官が、
セデック族の中に日本人が失くした大和魂を見たと語るシーンがあります。
大和魂とは何かをここで語ることはできませんが、刃の交わりをきっかけに、
出自や背負う民族の歴史を超え、お互いが大切にしているものを理解し、
対等な立場で尊重しあえる世界があることに気付く入り口に立ったのだと私は思います。
それはセデック族側からも同様で、高砂族と呼ばれるのを受け入れた彼らを
日本の同化教育の結果と言ってしまっては、セデック族の方に失礼というべきでしょう。
この監督の次作にその答えの一つが描かれているように思えてなりません。
未来を生きる皆様へ
長い話ですよね。しかも邦人が、切り株にされるので、コケて当然。それでも観てほしい。事実と違うそうですが、初公開して久しい本作が、未だ劇場公開されるのも、事実です。感動する必要は、ありません。批判するのも、良いことです。反対意見が粛清される世界に、未来はありません。人は自分の正しさで、世界を割り切ろうとするもの。ただその尺度が、お隣さんと違う時、どうするべきでしょうか。隣人を無償で愛しなさいとは、言いません。それでも、正義と云う尺度で、隣人を断罪する時代に、終止符が打たれる未来が、望ましく思えてなりません。本作を首狩り族と、帝国主義者の蛮行と見るか、虹の橋の先に、希望を見るかは、未来を生きる皆様に、委ねるとしましょう。
胸が張り裂ける
臨場感溢れる作品で劇場で鑑賞しなかったことを後悔しました。
私は、セデック族と日本兵との激しい戦いよりも何よりも一番心に突き刺さったのは、セデック族の女性達が小さな子供を連れて、「男たちはどうしてこうなの」「この子達が可哀想」と歌いながら首をつり自決するシーンです。同じ女性として胸が張り裂けそうになりました。
死後の魂の存続を信じるセデック族の死の価値観は日本人である私とは違います。ただ、文化が異なっても女性達は戦争になると真っ先に自分が犠牲になることを知っています。自分の命よりも大切な子供を失うことを知っています。
台湾でも沖縄でも女性達が子を連れて自決した歴史があることを、私は一層忘れることができなくなりました。
この歴史を忘れるな
日本統治下の台湾で起きた台湾先住民族セデック族による坑日運動“霧社事件”を描いた2部作からなる歴史大作。
第二部では、日本軍の反撃で次第に劣勢になり、戦いに参加したセデック族の悲しき末路を描く。
第二部はちょっと粗い点が目だった気がした。
第一部はドラマ的にメリハリあったが、第二部は戦いがメインとなり、少し間延び。
史実との相違も。日本軍の近代兵器の反撃でセデック族は瞬く間に劣勢、日本側の死者は兵22名、警官6名と記録されているらしいが、映画ではセデック族はまだまだ強さを誇り、日本側の死者もおびただしい。
安藤政信はセデック族に理解ある軍人なのだが、どうも立ち位置が中途半端。
日本軍に助力する(させられる?)セデック族が参戦、どっちがどっちだか混乱。
終盤、家族もろとも自決するセデック族、散々セデック族を敵視していたのに「大和魂を見た」と心境変化する日本軍司令官など、それらの描写をもっと深く描いて欲しかった。
でも、決してつまらなかった酷評レビューではない。
見応えは言うまでもなく、映画の大部分を占める戦いのシーンはさながら「ランボー」+「プライベート・ライアン」のような迫力。
多くの者が死んだ。
多くの血が流された。
許されない罪があった。
正当化されない残虐な行いがあった。
繰り返してはいけない過去。歴史。
この哀しみの中から、学ぶべき事、語るべき事、忘れてはならない事はある。
総4時間半の長尺。
見る時は是非一気見で!
実際は凄惨な弾圧戦だったと思われるので多少ファンタジーを入れないと観てられないのだろう
映画ではそれなりの善戦に描かれてたが鎮圧線での日本側の犠牲者は30名弱(日本側の記録)なので,実際は凄惨な弾圧戦だったのだろう.化学兵器やら対立部族による首刈り容認までしたのだからねぇ.
最後にそれはないだろう
日本の統治に対して蜂起し、霧社から日本人を消し去ったセデック族。しかし、近代武装した日本軍が本格的に掃討戦を始めれば、地の利を活かしたゲリラ戦で相手を苦しめることはできても、最終的には山中に追い詰められていく。戦いの中で命を落とすだけでなく、自決をはかる者たちも出てくる。
そんななか、日本の高等教育を受けて文明の価値も理解し、天皇の赤子として近代国家の建設に力を注ぐことに喜びを感じていた兄弟は悩む。出身部族は今や滅亡の運命が明らかである。彼らには自らの努力でつかんだ日本社会での地位がある。しかし、この出自を背負ったままでは、同じ天皇の赤子であるはずの日本人から侮蔑を受け続ける。生き続けるにしても、死ぬにしても、一体自分たちは何を誇りにすればよいのか。逡巡しながらも、そうした一切の呪縛から自由になることを願って命を絶つ彼らこそ、この事件での最大の被害者であり、恩讐を乗り越えた場所に最初に到達した人間なのではなかろうか。この長い作品の中で、最も切なく、近代化の悲劇を象徴している。
セデック族の戦士が残すところわずかに数名というところで、頭目のモーナが、「戦いたい者戦え。投降したければ投稿しろ。自分は日本軍に捕まるわけにはいかないから山奥に消える。」というようなことを言う。
ここにきて、この英雄がどうしてこのように落とされなければならないのか。一部族のほとんどが死に絶えたことへの責任の取り方がこれでよいのだろうか。最後まで戦って、誇りと掟を守り抜くことが蜂起の目的だったはずではなかったのか。私が、頭目の共にこの瞬間まで生き残った者ならそのように思っただろう。この頭目は最後の最後で、ここまで自分についてきた者たちを、先ほどの兄弟と同じ苦しみの境地に叩き落とすのである。
観客を圧倒するカメラワークと、頭目モーナの人物としての魅力につき従ってきたこの長い物語の果ての、この彼の言動への理解が出来なかった。
'真の人'たれ。
台湾と日本。
現在の関係に至るまでに歩んできた歴史、前作「海角七号」に続き、監督は提示してくれている。より大きなスケールで、より多くの熱量で。
国と国の関係も、個人と個人の関係も、決して良い面ばかりではない。
その選択した行動も、善とか悪とか、一刀両断できるものではない。
簡単に答えに辿り着こうとせず、また、一方だけを断罪せず。
観る者が、じっくりと咀嚼していくこと。
そして、各々の記憶に留まり、語り継がれていく物語。
ああ、小生は虹の橋渡れるだろうか?
監督が着地点を見失ったバカ映画
セデック族が蜂起するまでを詳細に描いた第一部に対して、ファンタジー映画か!?と思うほどの第二部のトーンの変わりっぷりにビックリ!
ゲリラ戦のプロの如く日本軍を圧倒するセデック族。
日本兵をマシンガンで薙ぎ倒していく少年ランボー。
なのに、追い詰められて自決するセデック族という矛盾。
事実は、日本兵22人・警官6人しか殺られてないのに、劇中ではその何倍も殺してるから追い詰められるセデック族の描写が矛盾してんだよ(笑)
あげくには最後に日本軍将校に「我々大和民族が100年前に失った武士道の精神を見たのだろうか!?」と陳腐なセリフを吐かせる始末。
事実は、日本軍の圧倒的武力で簡単に鎮圧され倫理的教育を施されただけなのに(笑)
女子供を虐殺しといてどこが武士道だよ...
監督が、何が善で何が悪かわからなくなってしまった。と言う通り、今の時代から見たら明らかに倫理観の欠片も無い蛮族を英雄に描きつつ、日本軍も殊更悪くは描かないという、台湾と日本双方に配慮しすぎて、着地点を見失ってしまったとしか思えないバカ映画。
事実は、巡査殴打事件から自分の地位を奪われる事を恐れたモーナ・ルダオがテロを画策して、都合悪くなると自分だけ逃げた卑怯ものだから、監督が霧社事件を調べるうちに善悪わからなくなったのも仕方ないか(笑)
台湾セデック第2部
超武闘派部族の抗日戦第2部。逃げずに戦うあるいは自決。女、子供も自決。不屈の精神とかではなくては、圧倒的な部族としてのプライドが一切の屈辱を許さないし、先祖が虹の橋の向こうで待ってるという伝承が足を止めさせない、容赦無く前に進み続ける感じ。第1部の設定説明的な部分がなくなって、自決、戦いを繰り返す感じはかなり楽しめる。この楽しめるというのが、ミソで、永遠の0だろうとなんだろうと、大戦ものの日本映画は殆ど見ていられないのは、テーマのかったるさではなくて、単に活劇として成立していないからで、4時間それなりに見せるのはやはりそれなりなのだ。
知らなかったでは済まされない歴史的事件
自分の無知を晒してしまうようだが、この作品の元になっている霧社事件については、この作品を観るまで全く知らなかった。
(台湾の歴史については、日本統治時代が終わって、中国本土から渡って来た人々外省人と元々台湾で暮らしてきた人々内省人の対立をホウ・シャオシェン監督作品で見てきたつもりだったが、それ以前の時代、それも少数民族の歴史となると…。)
自分が生まれ育った国が過去に何をしてきたのか、これを知らなかったでは済まされない。台湾国内でも製作にあたってはプリ・プロダクションの時から多くの困難があっただろうことは想像に難くない。日本人の描き方についても、一方的に悪役として描くのではなくとてもフェアに描かれていて、例えば、『鬼が来た』を観たときのように非常に居心地の悪い思いをせずに済む。
知らなかった歴史的事実を教えられたという意味でも、日本人の描かれ方についても、この作品が作られたこと自体、非常に有難い作品であることは確かである。
しかし、この作品を絶賛することが出来ないのは、戦って死ぬことを良しとするセデック族の精神性に共感出来ないからで、彼等の姿は、どうしても負けると分かっている戦争に突き進んでいったこの国の姿に重なる。
特に、まだまだ大人に守られる存在である少年までが戦う姿には心が痛むし、あってはならないことだと思う。
アクションシーンが
第一部から続けて鑑賞。一部には劣るという印象。内容的にこうなるのは仕方ないのですが、やはり大半を占めるアクションシーンが似たような絵ばかりに見えるのが痛い。
一部と二部平均して3.5って感じですかね
戦争のリアルって、こういう事でしょ?
1930年、日本軍統治下の台湾で起きた霧社事件の話(後編)。大半が戦闘シーンと自決シーンという、とてつもない内容!息をする暇がない!
ただこの映画の凄いところは、“死”ではなく、“生き様”がしっかりと描かれている点。
これは歴史的な傑作だと思う。
心を揺さぶる、驚きの作品。
軽い気持ちで、見に行った映画だったけれど、あっという間に、映画の中に引きずり込まれてしまった。日本人として、複雑な気持ちになる内容ではあったが、この映画は、理屈抜きの凄さがあり、人の心に何か突き刺さる何かがある。アメリカインディアンの戦いをも彷彿させる。映画の中に出てくる自然、歌の美しさ、とにかく、飽きさせる部分が一部、二部ともない。緊張感を持ちながらの映画鑑賞は、久しぶり、だった。
不謹慎なほど面白い
前編がそれまで抑圧されていた人々の武装蜂起のカタルシス溢れる展開だったので、後編は敗残兵として山に追われ、一人二人仲間が殺され……といったような鬱々とした話ではないだろうかと予想して見に行ったら全く違っていた。鎮圧しようとする日本軍を互角かそれ以上に一歩も引いていなかった。決死の覚悟で『ワイルドバンチ』『硫黄島からの手紙』のような徹底抗戦だった。
それに対して日本軍も他の部族を引き込んで戦わせ、毒ガス攻撃までするなど、ひじょうにえげつない。モーナたちを応援したい気持ちと、日本軍に頑張ってほしい気持ちで引き裂かれるような気持ちで見た。命と命がぶつかり合い、奪い合う激しさがとんでもないテンションで描かれていて腰が抜けそうだった。
民族として生き残る事が重要なのか、誇りを失わないために命を投げ出すことが大事なのか、どっちも大事にできる方法は果たしてなかったのだろうか。か弱き者たちが命を失う場面はとにかくつらい。
エンターテイメント性が非常に高く、不謹慎なほど面白かった!
こっちは戦闘編
二部は、ずーと戦闘シーンです。ゲリラ戦。たくさんの人が死に、段々と仲間が減っていきますが、彼らは悲しみを抑えつつ勇敢に戦う。虹の向こうへ死ねば行ける、と考えているから。虹の向こうは先祖が暮らしている平和な土地、そこでみんな幸せに暮らしている。浄土思想に近いものです。敵の首を狩らないと浄土に行けないのが、ネックポイントでしょう。これがもし敵の首を狩らなくても浄土に行けたのなら、反乱自体なかったのではないでしょうか。
敵を打ち取れば大人になれる、大人になれば虹の向こうに行ける。だから敵を倒したことがない子供は大人にしなければならない。子供は敵を倒さないといけない。この敵が、かつては敵族だったのですが、日本統治以後は日本人になった。
史実によれば、戦闘による日本側の戦死者は味方蕃を含めて五十人ほど。脚色されているのか、それとも史実が違うのか、ずいぶんと日本の戦死者が多い描写でした。映画だしエンターテイメント性を計ったのでしょうか?
物語の中で、やはり注目すべきは蕃族でありながら日本の警官になった、花岡一郎と花岡二郎。反乱成功後、責任感か、罪悪感か、自害してしまいます。
刃向っても勝てないことをしりつつ刃向うのは、先祖、祖国に報いる為、今この生を散らしてでも一矢報いるべきという武士道に通じます。さっぱりして、すがすがしい。日本人なら好きな考え方。
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