「カメラワークに目が離せない」セデック・バレ 第一部 太陽旗 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)
カメラワークに目が離せない
日本統治時代に台湾で起きた、山岳民族による蜂起の史実を基にした物語。植民地政策、民族の同化政策、これらを受ける側からの視点で、これらが人々の尊厳をどのようにして奪い、このことが人々の悲しみと怒りを生み出すことを描いている。
日本の統治が始まる前から台湾には清国からの漢人がやって来ていた。彼らは物の流通を支配して、山岳民族たちとの交易をしていた。ここにどれほどの搾取があったのかも描かれていないわけではないが、漢人たちは山岳民族の狩猟採集の生活・生産様式から生み出されるものを交易品として必要としていた。
日本の統治が始まると、彼らの狩猟採集生活は解体され、彼らは植民地建設のための労働力を求められる。今までの生産様式を貫こうにも、彼らの狩場からは建築資材として木々が運び出され、これに彼ら自身が使役されるのある。
近代化の名のもとに言語、生活様式、教育の変更を迫られるなか、文化的な価値観の違いや、支配者と被支配者の感情的な対立によるいざこざは絶えない。霧社事件の発端になった、警官の殴打が、獣の鮮血に対する両者の価値観の違いから始まることがそれを象徴している。仕留めた獣の生き血を飲むことが、彼らセデック族にとって特権的な行為となるほどに、獣の血液は尊く貴重なものである。反対に、多くの日本人にとって獣を殺しその血に塗れることは穢れを意味する。この価値観の違いが生み出した悲劇が、一つの部族が地上から消えてなくなる契機となってしまうのだ。
父祖より受け継いだ土地と生活を奪われること、それまでの価値観とは別のルールを押し付けられ、卑下されなければならないこと。共同体と個人の尊厳が奪われている様子を、映画は丹念に描いていく。
そして、追い詰められた者たちの怒りの爆発。尊厳を奪われた形で個人が生き残ることしか選択肢がなく、自分たちの共同体がいずれ解体され消えていくことが分かった時、彼らは負けると分かっている戦いに挑むのだ。
この間の彼らの言説はしかし、対米戦の敗北を自覚した日本人と共通してはいないだろうか。奇しくも、霧社でセデック族に追い詰められた木村祐一が「俺だって武士の末裔なんだ。」と勇猛に反撃するではないか。追い詰められた者は皆、自らの死の意味を問う。そしてその場合、個人の死の意味と共同体の死の意味が重なり合わなければならないのだ。
追いつめられたセデック族と、彼らに急襲された日本人たちの、二重の意味での、敗者の死の意味を問いかけながら第一部は幕を閉じる。
霧社を制圧した部族の頭目が国旗の掲揚台に腰を掛けるシーンをはじめ、大胆で躍動的なカメラワークに、本来なら目を背けたくなるような残忍な殺戮の光景から目を離せなくなる。素晴らしい技法の連続だ。