「圧倒的な映像美、そして精密な時代考証、波乱に満ちた戦闘シーンが続き、あっという間にラストを迎えることができました」セデック・バレ 第一部 太陽旗 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
圧倒的な映像美、そして精密な時代考証、波乱に満ちた戦闘シーンが続き、あっという間にラストを迎えることができました
「台湾原住民」とは、17世紀頃の福建人移民前から居住していた、台湾の先住民族の正式な呼称。中国語で「先住民」と表記すると、「すでに滅んでしまった民族」という意味が生じるため、この表記は台湾では用いられていない。現在では憲法で「原住民族」と規定されている。
4時間37分の超大作をものとしない歴史ドラマで、圧倒的な映像美、そして精密な時代考証、波乱に満ちた戦闘シーンが続き、あっという間にラストを迎えることができました。ラストのセディク族が日本軍に突撃を仕掛ける戦闘シーンは圧巻。映画的には、傑作でお勧めできます。
台湾の歴史を知ると言うことは、近代日本の歴史を知ることと同じ意味を持ちます。戦前の日本が台湾で何をしたのか、史実に忠実な本作を通じて、自虐史観に囚われている戦後の日本人の考え方が少しでも変わってくれることを望みます。
監督は長編デビュー作『海角七号/君想う、国境の南』で台湾映画史上歴代第1位の大ヒットを記録したウェイ・ダーション。「正論シネマサロン」で見た『海角七号』では、こんなにも台湾の人々が日本を敬愛し、日本の武士道精神を尊んでいるのかと驚かされました。そして、櫻井よしこさんの解説に胸を打たれたものでした。
そんな親日家の監督がどうして戦前の抗日事件である霧社事件を扱ったのか疑問をもって鑑賞に臨みました。前半日本人の警官が蕃人たちを蔑視し、暴力を振るうシーンが目立つのは仕方ないとしても、中国で量産されている抗日映画と根本的に違うところは、描かれている視点が極めてニュートラルであることです。
一方的に日本側の軍隊や警察を侵略者として描かれていないところにも好感が持てます。特に史実では、家族を霧社事件で家族を殺されて復讐の鬼となる小島巡査をセデック族を蔑視しない好人物で描いたり、首狩りなど野蛮な伝統に縛られていた彼等に蕃童教育所の設置による初等教育を施し、優秀な原住民の子弟を警察官などに登用するなど一族の近代化に尽力したところも描かれています。
また冒頭では部族間の対立の激しさも描かれており、日本の介入がなければ、ずっと復讐の連鎖が続いていたことも想起させられる内容でした。
ウェイ監督は、現在の親日のルーツとして、避けて通れない霧社事件を取り上げたのだと思います。それはラストの現地日本軍鎌田隊長の、「彼等の中にわれわれが失っていた真の武士道を見た」という台詞に繋がっていると思うのです。
当初鎌田隊長もセデック族を蛮族として蔑視していました。しかし、そんな彼でも武人のひとりとして命を省みず、信仰と名誉のためだけに不屈の精神で立ち向かってくる戦士たちの勇敢さに感銘してしまうのですね。それがウェイ監督の本作に込められた日本へのメッセージであり、霧社事件という悲劇があったからこそ、その反省にたって、その後の理蕃政策が抜本的な見直されて、日本人と同等の民族として位置づけられていった結果、台湾原住民は「日本統治が台湾を発展させた」と考える人が多数を占める現状に繋がっていったものと思います。特に日本側が原住民の文化についての詳細な調査・記録や研究をおこなったことが、原住民が自らの伝統文化を継承するにあたって大きな助けになっていると評価されたことは大きな要因となったことでしょう。
作品で描かれるセデック族の戦い方は、どこか太平洋戦争末期の旧日本軍のゲリラ戦を彷彿させます。数千人の日本軍に対して、僅か300人のセデック族が神出鬼没な戦い方で混乱させるシーンは痛快です(但し日本人としては微妙な心理になるけど)耳が良く、夜目が効き、素足で音も無く夜の密林を駆け巡ると言われる程の彼等の身体能力の高さは軍人の常識をも遙かに超えるものでした。
彼等の戦法はやがて旧日本軍に志願した高砂義勇隊に受け告げられて、そこから拡がったものと考えられるでしょう。
とうことで、本作で描かれる霧社事件は、その後の台湾と日本の絆を深めるための礎となった事件であり、そこに親日家のウェイ監督が着目したのだと思われます。
但し、ウェイ監督がメインに据えたのは、そんな歴史上の事件の経緯よりも、セデックたちの先祖と自然を崇敬する強い信仰心でした。
本作のタイトル『セデック・バレ』とは“真の人”を意味するセデック語。“真の人”になるためには、命を厭わず民族と先祖の名誉のために勇敢に戦うこと。“真の人”とならなければ、先祖の勇士の魂が暮らす永遠の魂の国への掛け橋となる“虹の橋”を渡ることができないとされ、彼等は“虹の橋”を渡るために、勝ち目のない日本軍と果敢に闘い散っていったのでした。それは戦士だけでなく、その妻や家族たちまでもが、足手まといにならないようにと自らいのちを断つ過酷な信念だったのです。そんな信念を現地の美しい自然の映像美と絶え間なく口ずさまれるセデック族の歌で、印象深く描かれるのです。
過酷な決断といえば、花岡兄弟の場合はもっと悲惨でした。彼等は現地民ながら、高等教育を受けて、日本の警察官として採用されて、霧社駐在所に任官されていたのでした。 蜂起の直前に、頭目のモーナに呼び出された兄弟は、モーナから死ぬとき、おまえたちは靖国に奉られたいのか、それともわが祖先が暮らす虹の橋を渡りたいかと睨まれて、断腸の思いで蜂起に参加することを決断します。けれども、日本人として教育を受けてきた日本への愛着も捨てがたく、この兄弟の葛藤は中盤の名場面として、凄くよく絵が描けていました。この兄弟の末路は、ぜひ劇場で涙してください。
頭目のモーナは、史実のように何度も対日蜂起しようと自ら行動したのでなく、本作では血気に逸る息子たち部族の若い戦士をなだめる役割に。それも納得で、実は日本政府の招きで、各部族長は日本観光に招待されて、日本の国情をつぶさに見聞していたのでした。その後のモーナは多くを語りませんでしたが、身内には「日本人は河原の石のように多い」とだけ答えていたというです。日本と闘ってもいかに勝ち目はないのか、実は頭目のモーナが一番良く知っていたのでした。
ところで、本作のモーナ(壮年) 役を演じたリン・チンタイ(林慶台)は映画初出演で、俳優ではありません。彼の本職は、台湾原住民の暮らす部落の現職の部族長で、なんと牧師。先祖が残した民話や部族の精神の伝承に並々ならぬ情熱で活動しているとか。そんな情熱が、本職の俳優顔負けのカリスマにみちた頭目ぶりを演じきったのです。まるでモーナが乗り移っているかのような堂々としてものでした。
日本人俳優陣としては、木村祐一のシリアスな演技に注目。芸人らしくない大立ち回りも見せて、俳優としての懐の深さを見せ付けてくれました。