劇場公開日 2013年3月16日

ぼっちゃん : インタビュー

2013年3月13日更新
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大森立嗣監督&水澤紳吾、「ぼっちゃん」で喚起する“考え続けること”

秋葉原無差別殺傷事件を引き起こした加藤智大被告をモデルに、社会の片隅で追い詰められていく若者を映し出した映画「ぼっちゃん」。「ゲルマニウムの夜」(2005)、「ケンタとジュンとカヨちゃんの国」(09)など、現代社会と隣り合わせの闇を見つめてきた大森立嗣監督が、「SR サイタマノラッパー」シリーズなど意欲作に出演を重ねる水澤紳吾とともに、心に巣くう孤独をあぶり出した。本作を通して社会が直面する問題と向き合ったふたりは、今何を思うのだろうか。(取材・文・写真/編集部)

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物語は、東京・秋葉原の歩行者天国から始まる。梶知之(水澤)は、まわりにわき目も振らず、インターネットの掲示板にコンプレックスや心の叫びを書き込んでいた。派遣労働先の工場でも片時も携帯を手放さず、自分の世界にこもりきりだったが、よく似た境遇の田中さとし(宇野祥平)と出会う。ふたりは社会から疎外された者同士、友情を深めていく。

非情な凶行に及んだ犯人は、一体何を考え、何を感じていたのか。「ぼっちゃん」は、ドキュメンタリーという形で事件を記録するのではなく、物語としてもうひとつのストーリーを構築した。大森監督は「加藤智大が、ネットの掲示板に事件を起こすまでの心情を克明に書いた文章を見たんです。その文章が強くて。ふだん触れることのない犯罪者の心のなかに触れることができるかなと思って、脚本にしたいと思ったんです」といまだ決着がついていない事件を題材とすることに踏み切った。さらに、かねて喜劇に取り組みたいという思いがあり「喜劇って本当に難しいけれど、そういう形でこの話を転がせられたら面白くできるんじゃないかなと思った。彼の生い立ちを描くのはやめて、喜劇的な要素と彼が働いている場所だけで世界を作っていく方が難しいけど、その方が絶対面白いと思ったんです」

水澤は、孤独という名の殻に閉じこもり、暴走に行きつく青年・梶を怪演。淵上泰史扮する“イケメン”の岡田コウジの前では“ブサイク”な自分をさげすむ一方で、宇野演じる仲間の田中には八つ当たりの末に「友ちだったらひとりにしないでくれよ」と泣き叫ぶ。主演に抜てきされ「すごい心配でしたよ、お客さん入らなかったらどうしようって。(起用前に大森監督に)芝居も見てもらってないのに、なんて恐ろしいことをする人なんだろうって(笑)」と不安もあるなかで、「脚本のふくらませ方と実際の事件は全部が一緒じゃない。事件の関連書籍を読ませていただいたんですけど、監督にも『水澤は水澤のまま立ってそのまま感じて』と言われていた」と実在の人物をベースにしたキャラクターを演じきった。

撮影は、約1カ月に及ぶ長野合宿をメインに敢行された。水澤は、俳優陣をはじめとしたスタッフと寝食をともにし、カメラが回っていないときでも劇中と同じような関係性が築かれることで自然と役になじんでいった。現場では、俳優と監督の距離が近く「最後の最後まで監督がラストシーンについて考えているときに、意見を聞いてくれたり。話そうと思ったら、風呂場で隣にいたりするので(笑)」。そんな環境での作品づくりは、「僕も同年代で自主映画を作っていたんですけど、監督を含めて頼りがいがある先輩と仕事をさせてもらったのが初めてだったので、印象に残っています。大森監督は、本当に頼りになる兄貴みたいな感じで、役者としては安心して立っていられる。すごく素敵でしたね」と実り多きものとなったようだ。

(C)Apache Inc.
(C)Apache Inc.

大小さまざまな規模の作品を手がけてきた大森監督は、「伝統的な縦社会の文化が残っているんだよね、映画業界って。でも、自主映画はそういうものを取っ払って映画を作るから、そういう力を信じているところがある。今の日本映画が大作と自主映画しかなくなってきているなかで、自主映画から出てくる新人がすごく多いじゃない。瀬々(敬久)さんが『ヘヴンズストーリー』を作ったり、『SR サイタマノラッパー』の入江(悠)、『サウダーヂ』の富田(克也)が自分たちでやっていたり、日本には若松孝二さんがいたじゃない。俺たちは、映画の希望って若松孝二にあるんじゃないかって思っていたよ。自分で映画を作って、配給して、宣伝しちゃう。だから、今回は映画づくりのすごくいい部分をやった」と楽しそうに語る。予算など乗り越えるべき難関は多いが、“信頼関係”という強じんなパワーがあるからこそ、多くの映画人が自主映画にひきつけられる。「お金で付き合う仲じゃなくて、もっと違う部分を信頼してやっている。(水澤は)信頼して現場にいてくれた。オレと水澤は信頼しているから、何をやるかっていうことが言葉がなくてもわかるんだよね」という大森監督の言葉を受け、水澤も「宇野さんと話して、『監督の最高傑作にしよう』という気持ちで現場に乗り込んでいったので、がむしゃらでした」と振り返る。

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取材の最中も互いへの信頼感をにじませていたふたりだが、大森監督は「主役は作品の責任を負うべきだと、オレは思っているんだよね」と主演・水澤の重要性を力説。「(『ゲルマニウムの夜』の)荒戸源次郎という大先輩に『現場に入るまでが3分の1、現場が3分の1、出来上がってから公開するまでが3分の1なんだよ』って、宣伝・配給する仕事も現場と同じですごく大事だということを教えられたんです」と映画人としての心得を明かしてくれた。

大森監督は、これまでに暴力や孤独にまみれた社会のはみ出し者を描いてきた。その眼差(まなざ)しは、どこかいとおしさがにじみ出ている。意図したわけではないと語るが、「映画を見ていても、小説を読んでいても、そういうのに反応しちゃうんですよね。ただ明るいだけのものには全然反応しない。影の部分というと大げさだけど、世の中にある枠からはみ出ちゃう人たちを描きたいと思うんですよね。彼らも、この世の中にちゃんと生きているんだぜっていうことを見せたい」

その思いは、本作にも強く刻まれている。善悪という結論やメッセージを提示するのではなく、見る者に「これからどのように向き合っていくのか」という命題を投げかけ、社会の枠組みだけに頼らない思考を喚起する。「今回、加藤智大をモチーフにしているけれど、『彼は一体何者なんだ。昨日まで同じ風景を見て、同じ空気を吸っていた。俺たちが生みだしたんだよ』っていうことを考えないといけない。だから見て、感じてほしい。考え続けることしか俺たちにはできないと思う」と警鐘を鳴らす。映画という形で、今後も社会との向き合い方を問いかけ続ける強い意志が感じられた。

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