真昼の惨劇

劇場公開日:

解説

先頃世間を賑わした、娘の父親殺しを素材としたもので、水上伸郎・峰竜太(2)の共同脚本を、新人の野村企鋒が監督、荒牧正が撮影した。出演者は、「つづり方兄妹」の望月優子をはじめ、福原秀雄・青柳寿恵・島田典子・左卜全・中村是好など。

1958年製作/80分/日本
配給:松竹
劇場公開日:1958年8月24日

ストーリー

--東京のほとりのバタヤ村落。平井親子はバタヤの親方吉田をたよってきた。彼の温情でやっと職にありつき、平井は真面目にバタヤ暮しを始めた。が、彼は酒には目のない男だった。吉田をたよってきたのも、元はと言えば、酒のために身を持ちくずしたからだった。小銭が入り始めると、いつか彼はまた酒びたりの生活に戻って行く。彼の妻・あきは嘆じたのである、--酒さえ飲まねば良い夫なのに。長女の君子はもう十六歳になっていた。彼女には母の嘆きがよく判った。妹の芳江や幼い弟・常夫までが父をおそれた、--働きに出ずに寝ころがって酒に溺れる父を。じじつ、平井は酒が入ると狂暴になる。あきが暗いうちから家を出て働いてきた金が、たちまち彼の手で酒に代った。米を買う金もなくなる。母子を飢えが攻めたてた。近所の惣菜屋が見かねて君子を雇ってくれた。やっと急場はしのげたが、平井の行状は改まらない。吉田も怒り出し、追い出すと言った。母子は泣いてすがった--。平井は、それでも、友人が強盗を誘ったとき、きっぱり断るくらいの良心は持っていた。君子がいくばくの食物を持って帰宅し、弟妹に与えていると、平井は悪態をついた。俺に内証で。彼は狂暴になり、わが子に乱暴を働き、あきがとめると、彼女を半殺しの目にあわせたのだ。あきはそのまま家出した。どこで死のう。彼女が子供のために残した、その日のわずかばかりの働貨は、平井がたちまち酒にかえた。酔って寝ころがった父を子どもらは憎悪の目でみつめた。父さえいなければ母子四人で仲良く暮せるのに。--君子の頬から血の気が引いていった。あきは子どもたちを思うと、死にきれなかった。鉄道でも、川でも。道で拾った新聞が「父を殺した娘」を報じていた。わが家のことではないか! あきは警察へ駈けつけ、わが子をひしと抱いた。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

3.5DVを扱った古典作品

2021年2月5日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

冒頭、「松竹」のロゴと「歌舞伎座」プロダクションの文字が出るものの、商業エンタメ映画とは対極にある作品だ。
ストーリーは、本サイトの“ネタバレ”の通り。
尊属殺人という、衝撃的な“実話にもとづいた”時事映画らしいが、“エクスプロイテーション映画”ではなく、直球勝負で切り込んだ社会派の劇映画である。

「バタヤ」という言葉は初めて知ったが、組織化された日雇いの廃品回収労働者のことらしい。
彼らの無許可集落は、映画を観る限りスラムと称しても良いが、貧しさを別とすれば、人間らしい暮らしは営めているようだ。
作品の全体の基調としては、厳しい環境を頑張って明るく生き抜いていくバタヤ集落の人々を描いている。心温まるシーンもあって、暗くて悲劇一辺倒の映画ではない。

ただし作品内容は、始まってほどなく、「バタヤ」そのものからは無関係になる。
映画のテーマは、現在に通じる、貧困とアル中が原因のDV(ドメスティック・バイオレンス)なのだ。
今なら行政に窓口があるので、ここまで追い詰められる前に、(うまくいくとは限らないが)何らかの対応が取られるはずで、幸いこういう展開にはなりづらいと思う。

この作品で良かったのは、俳優の演技である。
働かないで暴力を振るう夫によって、疲労困憊となって家出するしかなくなった妻(望月優子)。
けなげに頑張る娘2人。幼くてまだ状況がつかめない息子。
左卜全をはじめ、住民を演じる俳優も良い。
やや残念なのが、内弁慶のDV夫(福原秀雄)の演技がイマイチなこと。目の色を変えて酒をグビグビ飲むシーンは良いのだが、ある種の“怖さ”がなく、「ちょっと違うなあ」感がある。
DV映画でありながら描写はかなり控えめで、その過酷なリアルは、何らかの制約で描けなかったのかもしれない。

“現代のDV”を扱った古典作品と言えるのかもしれないが、DVDなどメディア化はされておらず、なかなか観る機会もなく、また観たいという人も少ないだろう。
ただ、今の映画と違って、“ひねり”をきかせることなく、真っ直ぐに観客の心に訴えかけてくる良さがあって、ちょっと変わった鑑賞経験ができた。
昔の白黒映画も、いいものである。
<「実話にもとづく・・・」(@ラピュタ阿佐ヶ谷)にて鑑賞>

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Imperator