道(1954)のレビュー・感想・評価
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「日日是好日」のワンシーンから
20~30年ほど前に「道」は一度観ていましたが、ジェルソミーナの演技をわざとらしく感じたり、ザンパノもなんか変な顔のおっさんというイメージが強かったりで、名画の誉れ高い作品らしいけど、私には分からない映画でありました。 そこで 大森立嗣監督の「日日是好日「」のワンシーン。 主人公と従妹が、浜辺で映画の「道」と「お茶」の世界をつなげていく会話シーンがあります。 二人の演技と相俟って、この映画の一番好きなシーンです。 5年位前にこの映画を観て、「道」をもう一度観なければ、と思ってはいたのですが、月日は流れ、やっと先日「道」を見直しました。 そして 自分でも分からないけれど、どうしてもついつい、ザンパノをからかってしまう綱渡りの若者とジェルソミーナ二人のシーン。 彼の台詞が良かった。とても良かった。ああ、これだ!と思った次第。 「この映画で感動できない人生なんてもったいない」(黒木華) とまで感動したわけではないですが。
道化の涙
最初から物哀しかったけど、一瞬か二瞬、楽しい時もあったけど、やっぱり最後まで哀しかった…。
ジェルソミーナ!
道化のように不器用で不美人に生まれついた生来の哀しみのうえに、その純真さゆえ、ザンパノの犯した数々の罪まで小さな肩に背負って逝ってしまった。
ラストの慟哭には、確かに野犬のような男ザンパノの己の罪深さへの自覚がこもっていた。
素直にこれを機に改悛したと思いたい…。(また繰り返すんじゃないかな、って疑っている私がいる…w)
ジェルソミーナの一挙一投足に全部意味があるような演出と演技力だった。
第二次世界大戦後の貧窮の中、人々はこの映画に癒されたのだろうな…。
悲しくも生きる希望を感じられる作品
1954年製作。価値観は時代と共に移り変わっていきますが、この作品で描かれる「孤独」は普遍的なものであり、現代を生きる人にも訴えるものがあります。
ジェルソミーナの孤独、ザンパノの孤独、そして綱渡りの青年の孤独。それぞれが違った孤独を抱え生きて、死んでいく。すごく重く苦しくなるような悲しいお話。しかし、ザンパノの孤独を知ったジェルソミーナには微かな希望が見えていたようでした。それは「愛情」なのか、単なる「同情」なのか、微妙なところですが、相手を理解することで「情」が湧くというのはすごくわかります。観客も後半はザンパノに対する見方が変わったと思います。
しかし、それでも全てを台無しにしてしまうザンパノは、きっと最後まで孤独を感じていたと思います。あまりに不器用で粗暴な性格故、周囲から理解されない苦しみを抱いていたのではないかと。終盤、ザンパノが芸を披露する場面がありますが、最後まで映されておらず、成功したのかが分かりません。どうやら脚本では失敗したことになっていたようです。しかしその後のザンパノが暴れまわっていたシーンが、失敗したことに対する苛立ちからではなく、ジェルソミーナの死に対して彼なりに思うところがあったからだと観客に印象付ける為だと思うと、このカットには納得、感心であります。
ジェルソミーナ、ザンパノ、綱渡りの青年の対比が演技によって強調されていて面白かったです。ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナの表情による表現は本作の大きな魅力でもあります。無表情で乱暴なザンパノがより恐ろしく感じられました。
全体的に重い雰囲気が漂っていますが、綱渡りの青年(イルなんとかっていうらしいですが、作中で名前出てたかな?)の言葉やジェルソミーナの優しさには前向きなメッセージが感じられました。こんな私でも何かの役に立っている。そして、孤独を感じているのは自分だけではない。70年前の映画ですが、普遍的なメッセージに心打たれました。
不器用で粗野な性格が災いして孤独になっていく
ザンパノはとても不器用な男なのだろう。ジェルソミーナに対する想いも表現できない。粗野な性格が災いしてすぐに暴力に走る。理性を働かして抑制できないので、取り返しのつかない事態を招く。その苛立ちからさらに周囲に当たり散らし、益々孤独になっていく。気が付くと周囲に誰もいない。ラストシーンの海辺での彼の表情は、そんな感情を表していて印象的だった。 疑問なのは、ジェルソミーナはなぜ彼のような粗野な男といつまでも一緒にいたのか。巡業する中で多少なり愛情が湧いたのだろうか。
他者には理解されない孤独感と失望
頭木弘樹の「絶望読書」という本の中に、カフカの「生きることは、たえずわき道にそれていくことだ。本当はどこに向かうはずだったのか、振り返ってみることさえ許されない。」という言葉が出てくる。 この作品のタイトルは「道(La Strada)」。 劇中でスポットの当たる、孤独を抱えた旅芸人たちは、カフカの言葉通り、出会いやちょっとした不運をきっかけに、わき道にそれながら、それぞれの道を歩んでいく。 一緒に旅を続けるザンパノとジェルソミーナも、隣には居るものの、互いに深い孤独の中に沈んでいる。 自分が体良く、口減らしされた寂しさも、妹たちや母のことを思って堪え、体罰を受けながら覚えた芸を仕事として飲み込もうとするジェルソミーナ。 頼るべきザンパノは、旅先で亡くなったはずの姉ローラのことを尋ねても何も語らず、客前では彼女を妻と言いながら、気まぐれに他の女とどこかへいって、一晩中彼女を置き去りにする。 ジェルソミーナは、そんなザンパノに嫌気が差し、彼の元を離れ故郷に帰ろうとするが、帰る方角もわからない。 途中、出会った祭りの人の群れに呑まれながら、見知らぬ街を彷徨う彼女。そこで出会うのが、綱渡りの青年だった。 胸に巻いた鎖を引きちぎるザンパノの芸と、言い間違いや振る舞いの可笑しさを笑わせるコントをやり続けている2人に比べ、大観衆を熱狂させる陽気な青年の見事な綱渡りには、ジェルミソーナだけでなく、映画を観ている私も圧倒された。 やがて、ザンパノに連れ戻されたジェルミソーナは、合流することになったサーカス団で彼と再会する。 綱渡りの青年は、ザンパノと古くからの知り合いらしく、ザンパノを気楽にからかうが、それが気に入らないザンパノは、ある日、彼にナイフで襲いかかり、警察に拘束され留置所で一晩過ごすことになってしまう。 激怒したサーカス団の団長は、ザンパノと青年どちらとも契約しないという言葉を残し、次の興行地へ向かう。ジェルソミーナには、サーカスの女たちから一緒においでと誘われるが、一人ザンパノのオート三輪の中に残る。 そこへ、警察の取り調べから、ザンパノより一足早く戻ってきた青年が現れ、ジェルソミーナと2人の語らいが始まるのだが…。 と、ここまで少し長く詳しくあらすじを追ったが、自分はこのジェルソミーナと青年のシーンと出会えただけで、この映画を観た価値があった。 冒頭に触れた「絶望読書」という本のコンセプトは、「絶望している時には、絶望の本が救いになる」だ。 自分はそこまで絶望している訳ではないと思っているのだが、綱渡りの青年の言葉と振る舞いには、涙がこぼれてきた。 綱渡りを生業にしていることでの死への覚悟とプライド。それ故に生まれる、他者には理解されない孤独感。ジェルソミーナをからかう素振りを見せながらも、彼女とザンパノを思う気持ち。そして、自分は仲間として選ばれなかったという深い失望への向き合い方。 彼が語る、何もできなくても「すべての存在には意味がある」という言葉。 「どんな意味?」と問い返されても、具体的な例なんて出せないのだが、そこに自分はぐっと来てしまった。 そこからラストまでの展開は、カフカの言葉通り「たえずわき道にそれていく」を地で行くが、とても切なく、だからこそ沁みる。 鑑賞したのは「日日是好日」で、名前だけ繰り返し登場してきたことに興味を惹かれてだったが、作者の森下典子さんが言うように、何度見ても、その時々に心が動かされることを予想させる作品。名画だと思う。
何とも言えない感情を揺さぶる作品。小石の気持ち
内容は、大道芸人へ親に売られるジェルソミーナと言う知的障害を持つ少女と傲岸不遜な大道芸人の2人のロードムービー。 印象的な台詞は、『この世のものは何かの役に立っている。お前も同じだ。』サーカス一座に席を置いていた気のいい若者からジェルソミーナにかけられる言葉。その時に小石も同じだと言われるシーンは、道という幅広い解釈にも繋がる伝えたい一部分でもあったのかなと感じます。気のいい芸人の若者が別れ際に見せる間と涙ぐむ表情や精神錯乱状態のジェルソミーナの動物の鳴き声にも似た泣き声は、背筋が凍りつく様な恐ろしさがあり感動しました。 印象的な立場は、綱渡りの気のいい芸人の若者と主人公ザンパノの人物対比です。この作品は、様々な対比構造で作られているので観ていて時代性もあり読み解くのに時間がかかります。それ故に何とも言えなく心に深く重くのし掛かる物があります。綱渡りは人生についても同じで、いつ死ぬかは覚悟の上の厭世観が付き纏うし、鋼鉄の肺を持つ男は力のみに頼りきり歳をとり力が無くなると、一気に自信喪失に陥る。修道院での尼さんとの会話もジェルソミーナとの対比で感情的に訴える諦観があり非常に感情を揺さぶられます。 印象的な場面は、何と言っても『ザンパノ彼の様子が変よ!?』と急に発作の様に話出し動物が鳴く様に泣く姿はホントに演技か?と思えるほど引き付けられました。あの場面を見るだけでも十分価値はある様に感じます。 映画の冒頭『ジェルソミーナ!』『ローザ(姉)が死んだ』との海辺の砂浜でジェルソミーナが、落胆する場面から始まます。最後では『・・・』無言で懺悔し自分に落胆するザンパノで終わるところ何回観ても素晴らしい。台詞は一つ一つとっても面白く。暗喩がふんだんに盛り込まれ技術の素晴らしさを感じました。個人的には、気のいい綱渡り芸人の若者が、ザンパノと喧嘩して時計が壊れたって言った後の死に関係する暗喩が分かりやすくて好きです。 終始暗くて気分の楽しくなる様な話では無いですが、当時の時代性や人間の感情描写が非常に上手いので名作と言われる所以かと感じました。『ザンパノ。少しは私の事好き?』って聞くジェルソミーナは心温まる一場面でした。
ヒトは、道の旅芸人
皮肉なもので、ヒトは、捨てたはずのものに、拾われたりして…。 あんまり古い映画、興味ないんですけど、何だろう、今と違うなー、と思いつつ、今も、変わってないなーとも、思うんですよね。 今の世の中、多様性とか、基本的人権とか、いろんなワード増えました。でも、何か足りないんですよ。この映画のスープのように…。 やっぱり、何かの役に立っていると思いたいわけですよ。でもさ、その気持ちが強すぎると、おせっかいな勘違いになったり、あるいは「エヴァンゲリオン」のシンジ君になっちゃったり…。 中道と云う言葉があります。極端な考えを持たない、極端な行いを慎む、バランス感覚。ところがこれまた、難しい。タイトロープの上で、パスタ食うより難しい。何故だろう?。 ずっと昔から、ヒトは在る筈の無い答えが欲しくて、もがいているみたい。その回答のひとつが、この映画なのかな。 ヒトは生涯をかけて、その答え合わせをするのかも。さて、皆様、明日はどんな芸を披露します?。あまねくヒトは、旅の途中、道の途中なのだから。
【怪力の大道芸人のザンパノに売られたジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナの喜怒哀楽を表情に出した演技が絶品の作品。男なんてものは女性無しに入れらない事を描いたラストが圧巻である作品でもる。】
■粗暴な男ザンパノ(アンソニー・クイン)は、純粋無垢な女ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ)を相棒に旅を続ける大道芸人。
ザンパノからは冷たく扱われながらも、ジェルソミーナは次第に彼を愛するようになってゆく。
だがある時、優しい綱渡りの青年に出会ったことから、ふたりの関係に変化が生じる。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・20数年ぶりに鑑賞したが、細部まで覚えていた事に驚いた作品ある。(滅多にない事である。)
・貧しきジェルソミーナが、ザンパノに売られ”ザンパノが来たよ!”と言う台詞をザンパノに”声が小さい!”と言われ、ピシピシと鞭打たれるシーン。
ー 小柄なジュリエッタ・マシーナの姿が、可哀想だが、何だか可愛い。-
・そして、二人は粗末な馬車の中で結ばれるのであるが(多分・・。)、翌朝ジェルソミーナが嬉し涙なのか、何度もザンパノの隣で涙を拭う姿。
・ザンパノは粗野な男であるが、卑ではない事が判る数シーン。
■ご存じの通り、ジェルソミーナを演じたジュリエッタ・マシーナは、フェリーニの奥さんであった。決して超絶美女では無いが、今作 が世界的な名作になったのはジュリエッタ・マシーナの演技であることは、間違いない。
アンソニー・クインも名優であるが、彼の演技を遥かに超えたジュリエッタ・マシーナの姿は、20年振りに見ても素晴らしいの一言である。
<今作はラストも素晴らしい。
ザンパノが決別したジェルソミーナの死を知り、海岸で彼女を亡くした後悔の念に、斬鬼の想いを晒すシーン。
男にとって、今作を観ると、自分にとって一番大切な女性を本当に大切にしているか、後悔無きように接しているかを深く思った作品である。
学生時代に観た時には、そのような感情は湧きあがらなかったのであるが(当たり前である。)妻子を持つ身になってから今作を観ると、深い感慨を感じた作品である。
故に、映画って素晴らしいと思った作品でもある。>
頭ではわかるが好みではない
愚かしくしか生きられないというのもわかる。
後悔先に立たず、本当に大切なものは失って気付く。
世間からいびつに見えても当人同士には愛だという関係。
これらのことは頭ではわかるが。実際に今もいるとは思うが。
正直前時代的に感じてあまり好きではない。
多少知恵が劣っており、でも心根の優しい女性相手に、暴力をふるい、捨てておきながら、まだ女を偲んで泣くという、なんという傲慢でエゴイスティックで都合よく解釈している奴なのか。
この関係性が自分にはマザコンの男の幻想としか感じないのです。
あれだけのことをしておきながら、女性は男を恨むでもなく。男は女の愛だけは俺にあると思っている。
気持ち悪い。
何をしても俺を嫌わない存在で、さらに俺より劣っており、教育してやらねばならない存在だ、というこの関係性を見て、吐き気しか感じません。
愛だと言われたって、相手を自分と同じ人間と見てないとしか思えないのです。
いくら後悔して泣こうが、己の愚かさに泣いていて、やはりジェルソミーナの気持ちを考えての涙ではないのです。どこまでも自分のことしか考えていない。
フェミニストを声高に叫ぶのも嫌いなのですが、名作だ、愛の形だ、ともてはやされると己の中の違和感がぬぐえなくて気色悪い。
これ男女逆転であっても感動を覚えるものでしょうか?
そうだとすんなり思えなければ、やはりそこには愛なんて言葉では誤魔化せないものがあるのではないでしょうか。
昔の作品なので、当時の社会通念的に、これがまかり通った背景があるのも分かります。
だから今の肌感覚になれてしまった自分が、感動出来ないのも、仕方なくも思えます。
品川心中の様に真暗な海の中に入って行って『FINE』
我が親父が『一番好きだ』と曰っていた映画だ。ガキの頃、家族で見せられた。いつだったか、覚えていないが、母も一緒に見たと記憶する。〔その時の母はつまらないと言っていた。ザンパノの性格と親父が似ているとの事)勿論、テレビでの鑑賞。小学一年生(訂正 中二病の14歳でした)の時には白黒テレビがあったから、10歳以前だと思う。コマーシャルが無かったと思うので、旧国営放送だ。
さて、今回は『なんと、なんと』二回目の鑑賞。しかし、実に良く覚えていた。最後、品川心中の様に真暗な海の中に入って行って『FINE』と思っていた。そこが違った様だ。それと、彼らの関係を男女関係とは思っていなかった。男のダンディズムくらいに考えていた様だ。また、キじるしが悪人に見えた。
しかし、この年になって二回目を見て、その印象は大きく変わった。
傍らの愛する女性を助けられない男性の愚かさを見事に描いている。そして、何一つ反省無く、逃げお押してしまう。キリスト教に於ける人間の『贖罪』の様に感じた。キじるしのセリフは、今の社会にも求められている事だと思う。
僕とっては、二度目の鑑賞だが『禁じられた遊び』と同様に歴史に残る名作だと観じた。
追記 『日本では、N○○教育テレビで1971年11月23日の10:30〜12:19』との事。私は14歳のでした。謹んで訂正します。
日本の大監督が『この映画に影響を受けた』とのたまわっているが、全く逆だ。
この映画で『泣ける』と言う印象を持つのと同じだと今の私は思う。私は、泣けもしなけりゃ、笑いも無し。ザンパノに対する怒りがふつふつと湧いてくる。
男と女にある孤独を神の視点から描き魂の救済に至るネオレアリズモ映画の、男の悔恨の涙
初見は18歳の時に東京のテアトルダイヤという名画座で、「第三の男」と二本立ての入場料が300円だった。前年に感銘を受けた「フェリーニのアマルコルド」に続くフェリーニ作品二本目であり、男と女の根源的なテーマのネオレアリズモ映画の神聖さに感心はしたが、内容を深く理解したとは言い難い。それは、その後何度か見直して観るたびに感動を新たにする経験から振り返っての感慨である。本当に良い映画の中には、観る者の人生経験の積み重ねで漸く辿り着くものがある。特にこの映画は、粗野で暴力的な旅芸人ザンパノが持つ男の、愚かでデリカシーの無い精神が強靭な肉体と共存して描かれて、最後は肉体が衰えて漸く自覚する悔恨の念が物語を閉める。女性の愛を受け止められない男の罪、女性の有難さに気付けない幼さ、そして失って初めて思い知る女性の優しさ。男として駄目なザンパノと純粋無垢で汚れの無いジェルソミーナの、このふたりの人生の道が悲劇に終わる教訓劇として、この映画には考えさせるものが多い。大分昔、映画好きなある作家が数十年振りに学生時代の旧友に再会して、お互いの生涯のベスト映画を紙に書いて照らし合わせたところ、この「道」であったと映画雑誌で知って、何て素晴らしいエピソードだろうと思ったことがある。現代ではザンパノのような酒と女と力自慢だけの男は生きて行けないだろうから、これはあくまで男尊女卑の時代背景におけるフェミニズム映画としての価値を見極めなければならないだろう。
この作品の中で特に印象的なシーンは、イル・マット(キ印)と呼ばれる綱渡り芸人とジェルソミーナの会話場面であり、そこで語られる台詞がシンプルに深い。ジェルソミーナが“私はこの世で何をしたらいいの”と生きて行く希望を見失って呟くと、イル・マットが何かの本で知った言葉、“この世の中にあるものは、何かの役に立つんだ”と語りかけ、“こんな小石でも何か役に立っている”と慰める。イル・マットは態とちょっかいを出してザンパノの怒りを買ういたずらっ子のようなお調子者に見えるが、ザンパノは犬同然で吠える事しか出来ないと見抜いて、ジェルソミーナに惚れているのに伝えられない不器用さを可哀そうと憐れむ。フェリーニ監督は、この映画でジェルソミーナの孤独、ザンパノの孤立、そしてイル・マットの虚無感と、三人三様の独りぼっちを、道を行き交う人間の社会の縮図の中で巧みに描いていく。そして、イル・マットが綱渡りの曲芸を披露する時に着るのが翼を付けた天使の衣装で分かるのは、彼が神の使いであること。ローマ・カトリックの精神的支柱を持つフェリーニ監督自身が抱える、魂の救済と神の愛と恵みが、この映画の本質であるのだろう。異教徒の私でも胸を締め付けられるようなシーンがある。それは、修道院のシークエンスで描かれる、ジェルソミーナとひとりの尼僧とのやり取りだ。優しい言葉を掛けて気使うその尼僧は、ジェルソミーナの境遇も純粋さも見通して接してくれる。ザンパノが教会の銀の装飾を盗んだ罪に打ちひしがれて涙をみせるジェルソミーナとのシーンは、別れを惜しむ心配顔の尼僧との対比が何とも切ない。後に盗まれたことを知った尼僧のこころを想像すると居た堪れなくなる。これこそ映画で表現できる人間の感情、そして人の繋がりを感じさせるシーンではないか。この映画のテーマは、人間の孤独と絆について考察した悲しいリアリズムである。ラストシーン、ザンパノは夜空を仰ぎ見、後悔の涙を流す。そこには愚かな自分に漸く気づく自責の念と、神に対する懺悔の感情が入り混じっていると思えた。
ザンパノを演じたアンソニー・クインと、ジェルソミーナのジュリエッタ・マシーナ。映画史に遺る名演だと思います。クィンは特に最後のうらぶれた男の姿を見事に演じ切っている。撮影当時30代前半だったジュリエッタは、厳密に言えば主人公の少女設定からは大分かけ離れてリアリズムタッチに合わないのに、何の違和感もない。これは凄いことである。舞台の演技を映画の空間で魅せるその表現力の豊かさ。ザンパノとイル・マットの事件から精神に異常をきたすところが白眉であり、それでも可愛らしさを失わない女優としてのチャーミングさは、他に例を見ない彼女だけの個性である。ニーノ・ロータの音楽は、フェリーニ映画を更に神聖な映像の世界にして、ジェルソミーナの無垢さに優しく繊細に共鳴していて、これも映画史に刻まれた名曲である。
フェリーニ監督作品では、この「道」と「甘い生活」、「81/2」、そして「フェリーニのアマルコルド」が素晴らしい。淀川長治氏は晩年の選出で洋画ベストテンに「81/2」と「フェリーニのアマルコルド」の二作品を挙げていたものの、「道」の評価について調べても、あまり評論を残していない。日本公開の1957年の2年前に催されたイタリア映画祭の上映で鑑賞されたとある。また、別の記事では、(「道」は映画にへつらった)とあり、特に絶賛ではなかった。同じ年に公開された「カビリアの夜」の方を高く評価されていた。後に映画伝道師として「道」について多く語るようになり、変わっていったのではないかと想像します。個人的に意外に思ったのが、飯島正氏が85歳の時に選出した洋画ベストテンに、「大いなる幻影」「天井桟敷の人々」「野いちご」「夏の嵐」と並んで、この「道」を挙げていたことだった。フェリーニ映画で最も心に感じた作品と述べていた。
追記
この映画に出会って後に、永六輔氏の新書を読んだ時、何故男の身体に乳首があるのか、の疑問の答えの追跡を読んで、思い出したことがあります。それは、母体で受精した時点で人間の身体は誰もが女性の身体であること。その後に男と女に分かれ、生まれる時は完全に性別を特徴とする内容で、そのため男に必要のない乳首があるという事でした。医療が発達する以前は、男児の死亡率が高く、そのため自然の摂理で男の出生率が高いとは聞いていたが、それは生命体として男の身体は脆弱であることを意味して、それが乳首に象徴されているということ。ザンパノは鋼鉄より強い粗鉄製の鎖を身体に巻くが、何故か最も筋力が張り詰めるトップサイズの胸囲にはもっていかない。それは偏にそこに乳首があるから。男の強さを見せびらかし、肺と胸の筋力を誇示するザンパノの芸には、男の弱さも兼ねた姿が窺えて興味深い。
ストーリーも良いが、それよりも演技!
この作品は「日日是好日」で取り上げていて「あぁ観ないとなぁ」と思っていて、ようやく動画配信で鑑賞した。 ジェルソミーナがすごい! 白痴というより小学校高学年程度の知能と純粋さ、人間として間違っていることをとことん嫌い、どんな辛くとも自分が役に立つ人のそばにいることを選択したところ、その演技に感動した。 ザンパノもすごい! 身勝手で、人、特に女性を虫程度にしか思っていない最低なクソヤローが、ジェルソミーナを置き去りにするときに見せる矛盾した優しさ、最後の海辺で泣き崩れるシーン、その演技に感動。 もちろん、マットの演技もすごいです。
2012年8月第三回午前十時の映画祭にて
年齢不詳なジェルソミーナは子供に見えたり年相応にも見えたりで不思議な魅力がある。ちょっとビョークを連想する。 大事なものは無くさないと気づかない。人生は一度きり、何があっても後戻りはできない。自分の選択の結果は自分で受け止めなくてはならない。当たり前だけど、ズシリと感じさせてくれた。
変わらないテーマ
退屈紛れにアマゾンプライム、サーフし何十年ぶりに見ました。 学生時代に新宿の地下で観た時は、感じなかった寂寥感、みたいなものが心に残りました。 モノクロだからかもしれないけど画面から醸し出される荒涼とした風景、… アメリカンニューシネマのラストショーにも通じるような乾ききった大地… 貧しい人々…、世知辛い人間関係… 映画が上映されて何十年たった現代の今日においても根底では、何も変わっていないんだと思う。 ラスト、ザンパノが(一人でいたいんだよ)って台詞、ホントは、その裏返しで一人ぽっちにしないでくれ!って言ってるみたいで切ないです。 ジュリエッタ・マシーナの泣きながら笑う演技とニーノロータの物悲しいメロディが秀逸です。
旅の哀愁と人間のサガ
まず、昔の旅芸人の旅というだけで趣きがある。そしてそれに人間模様も絡んできて、観終ったときには何とも言えない気持ち。 ジェルソミーナは印象的。この女優の演技は凄い!と思った。子どものようなピュアなかわいい笑顔がすてき。修道院を去るときの涙は、こんなに切なくて美しい涙のシーンって今まで見たことがあったかと思うほど感動した。 ザンパノをあまり責める気にはなれない。彼には生活があったのだ。彼の生い立ちにもいろんなことがあったと思う、彼は彼なりに現実的に一生懸命生きているだけなのだから。 心に余裕のないザンパノを、イル•マットはからかった。障害者を巡ってのこの映画のスタンスは、イル•マットの言動に集約され象徴されていると思った。 最後のシーンでザンパノは、もしかしたら海に入っていくのでは、と思ったが、そうはならなかった。 でも、それでいいのだ、とも。彼のその後の人生が変わっていきさえすればいいのだから。
見ていて少しだけしんどかったのは,話の流れが読めなかったからだろう...
見ていて少しだけしんどかったのは,話の流れが読めなかったからだろうか.一言で言うと,旅芸人に売られた女性が売られた先の男性から愛されずに死んでしまう話だろうか.その外部のいくつかの事件があって,それが物語の中でぴったりと活用されることが無く,淡々と進んでいく.出てくる答えに対して与えられている情報が多すぎるような気持ち悪さがあって,でもそれが現実らしさであるという事も言えるのだろうと思った.
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