暴力脱獄のレビュー・感想・評価
全42件中、1~20件目を表示
ルークは好きだが、話は冗長。
『ニューシネマ』というカテゴリーが語られるときに、その代表作としてあげられることの多い作品かと思います。いまさらながら、『ニューシネマ』がどういうものか調べてみると、Wikipediaによると、次のようなものでした。 アメリカン・ニューシネマとは、1960年代後半から1970年代半ばにかけてアメリカにおける映画のムーブメントである。多くの場合、社会や政治に対する反体制的なメッセージや批判的な視点を取り入れている。この時代のアメリカは、ベトナム戦争や公民権運動、カウンターカルチャーなど、多くの社会的・政治的変動が起こっていたため、その影響は映画にも反映された。 鑑賞後に定義を読むと、なるほど腹落ちして理解できる気がします。権力に屈しない主人公ルークの生きざまが、反体制・反権力の当時のムーブメントと合致して人気を博したのでしょう。 しかしながら、当時を実体験していない私が、2020年代にこの作品をみても、あまり響いてきませんでした。ストーリーが冗長な感じがするのです。この手の作品は、鑑賞するタイミングで解釈や評価が変わってくることがよくあるので、20年後くらいにもう一度見てみると、まったく違う感想を委託かもしれません。 What we've got here is failure to communicate. これは日常的に聞くこともあるセリフですが、この作品が出典元であることは初めて知りました。ちょっとした豆知識としていつか披露する機会を持ちたいです。
【”アイツはいつでもどんな状況でも笑っていた。”抑えきれない、反権力、反体制の姿勢を貫く男の生き様を描いた作品。】
ー 現代は、「COOL HAND LUKE」であるが、邦題のインパクトが凄い。-
■軍曹迄なりながら、軍を辞めた時には一兵卒だった男ルーク(ポール・ニューマン)は酔っ払ってパーキングメーターを壊して収監される。
彼は牢名主ドラグライン(ジョージ・ケネディ)を筆頭とした癖のある囚人たちの中、ドラグラインとボクシングでフラフラになるまで戦っても、決して根を上げないし、ポーカーではブラフで澄ました顔で勝つし、ゆで卵食いの掛けで50個も食べたりする不思議な魅力で、皆を引き付ける男になっていく。
看守に目を付けられた彼は、彼を愛した母が死んだことを理由に独房に入れられたり過酷な仕打ちを受けるが、彼はそれに抗うように彼は繰り返し脱獄を図る。
◆感想<Caution!内容に触れています。>
・不思議なテイストの映画である。陰惨になりがちなテーマで物語は進むが、何処か明るい雰囲気が漂うのである。
それは、ラストに示されるポール・ニューマン演じる、反権力、反体制の姿勢を貫く男ルークの爽やかな笑顔である事に気付くのである。
・それは、収監されていた囚人たちも同様で、特に牢名主ドラグラインは、彼に一目置くようになる。
囚人たちは、繰り返し脱獄を繰り返すルークに憧れを抱くようになるのである。
嫌がらせで、食事を大盛にされたルークの皿の上の料理に、次々にスプーンを入れて口にする囚人たち。
・ルークが、看守たちの嫌がらせの末、”改心しました。”と言った時の囚人たちのガッカリした顔も印象的である。だが、それはルーク一流のハッタリであり、彼は再び逃亡するのである。
<ラスト、ルークが牢名主ドラグラインと脱獄し、別れ古びた教会で神に語り掛けるシーンも忘れ難い。
そして、ルークはサングラスを何時も掛けて動物をライフルで撃つ看守に撃たれるのであるが、血だらけのルークを乗せた車はその看守のサングラスを踏みつぶしながら、走り去るのである。勿論、瀕死のルークはあの爽やかな笑みを浮かべているのである。
今作は、抑えきれない、反権力、反体制の姿勢を貫く男の生き様を描いた作品なのである。>
鑑賞後の余韻がこの映画の魅力
ルークの不屈の闘志とアイデンティティは パピヨンやショーシャンクに通じますが 作品の雰囲気と「男が男に惚れる」という意味では 網走番外地の健さんの様で、改めてポールニューマンに痺れました! 全編ギターやバンジョーのカントリーブルースが印象的だなぁ♪と思ってたら音楽はラロ.シフリンでしたねっ
理由なき脱獄を繰り返すニヒリズムのアウトローを演じたポール・ニューマンの唯一無二の魅力
結論から言えば主演のポール・ニューマンの魅力だけで語られるアメリカ・ニューシネマ前夜の脱獄映画。刑務所内の権力と暴力の支配下、罪を犯した囚人たちにとって解放と自由の象徴と化し憧憬の対象となるルーカス・ジャクソンという男の反体制の生き辛さが、ユーモアと内省のシリアスの程よいバランスで描かれている。他の多くの脱獄映画のサスペンスやアクションシーンの迫力と爽快感とは対極にあるユニークな作品で、これを成立させたポール・ニューマンの俳優としての貴重な価値は、有名な代表作と並び記憶に留めたい。 原作は1965年に発表されたドン・ピアースの『Cool Hand Luke』で、実際にピアースはフロリダの刑務所に服役した体験から発想を得たようだ。炎天下で道端に生えた雑草を刈らされる過酷な労働、刑務所長の独断で強制される懲罰房、体力の限界まで追い込まれる無意味な穴掘りのパワハラなどが、日常から隔絶された刑務所の実態を見せてくれる。これを視れば、間違っても犯罪を犯すことの愚かさや怖さを思い知るのが普通の人間であろう。それでもルーカスは何度も脱獄を試み、連れ戻されては両足に重い鎖をはめられる。彼はベトナム戦争に従軍し軍曹まで昇進する功績を挙げながら二等兵で除隊している。ここに彼の得体の知れない何かがある。実社会でも軍隊の組織でも満足に生きられず、動機の曖昧な理由なき犯罪を犯して、流れのまま服役している男ルーカス・ジャクソン。このアウトローをポール・ニューマンが、曖昧さをそのままに微笑み、時に涙を流し、偶然のノリの賭けから大量50個のゆで卵を60分で飲み込み、そして最後は神に己の生き辛さを問いかける。 盟友ドラグラインを演じた名脇役のジョージ・ケネディがアカデミー賞の助演男優賞を受賞したのはいいが、その好演を引き立てた主演のポール・ニューマンが主演賞に至らなかったのは、個人的に納得がいかない。そもそもポール・ニューマンは、同時代のマーロン・ブランドやジェームズ・ディーンと比べてデビュー時代作品に恵まれず、1956年の「傷だらけの栄光」もジェームズ・ディーンの突然の死によってキャスティングされ、本格的な出世作「ハスラー」では作品の評価に止まり、ニューマンの演技に栄誉はもたらされ無かった。初期の「長く熱い夜」「熱いトタン屋根の猫」ではアクターズ・スタジオで磨いた演劇演技を見せて、「ハスラー」では映画俳優の個性を確立したニューマンのアカデミー賞ノミネートは、漸く「ハスラー2」で受賞するまで何と7回を数える。アカデミー賞が全てで無いのは理解しても、この弄び振りは稀な事例と言えると思う。ニューマンの演技の魅力を語る上で私的に特筆したい作品は、「ハスラー」「スティング」「評決」と、この「暴力脱獄」である。 ジョージ・ケネディは「大空港」から頭角を現し、彼が登場すると物事が好転する安心感があり、それはジョン・フォード映画などで活躍したワード・ボンドを彷彿とさせる。短い登場シーンで車の荷台に寝たままの病弱な母親役の「エデンの東」のジョー・ヴァン・フリートも存在感がある。若者の抵抗を理由なきと表現したジェームズ・ディーンの「理由なき反抗」から連想すると、この作品は“理由なき脱獄(逃走)”と言える。偶然にも「理由なき反抗」に出演したデニス・ホッパーが台詞の殆ど無い脇役で姿を見せていて、この作品の2年後の「イージー・ライダー」で監督デビューするのは感慨深い。監督は他に「マシンガン・パニック」しか観ていないステュアート・ローゼンバーグ。特別な演出の冴えは無いが、手堅く纏め上げている。それを支えた撮影のコンラッド・レ・ホールの映像が、ロケのカリフォルニアの自然を美しく捉えている。 映画を初期のサイレントから長く細く観て来て、数多くの男優の演技に感動と感銘と共感を得てきたが、実を言うとこの映画のポール・ニューマンが一番のお気に入りである。古くはチャップリン、シュトロハイムから現代のブラッド・ピット、ジョニー・デップまでと果てしないが、演技力と個性の魅力が一体となって役柄を演じる映画男優の好みで言えば、「群衆」のゲイリー・クーパーと「理由なき反抗」のジェームズ・ディーン、そしてこのポール・ニューマンの三名に愛着が募る。作品的には絶賛に値する映画ではないが、ポール・ニューマンの魅力の点では、映画の歴史に痕跡を残すクールなルーク。これはニューマンでしか表現できなかったニヒリズムのヒーロー像である。
ゆで卵50個の栄光
ポールニューマン扮するルーカスジャクソンは、酔っぱらってパーキングメーターを切っていたところ収監され作業にあたっていた。母親が面会に来た。 ゆで卵50個食べりゃ栄光がつかめるのかな。あきれたもんだね。賭け事も自由だし、バンジョー弾いたり結構明るいところだね。
cool hand Paul Newman ✨
囚人達から一目置かれる反骨精神に溢れた元軍人のルーク・ジャクソン( ポール・ニューマン )が、或る日脱獄を試みるが … 。
囚人達のリーダー格ドラグライン( ジョージ・ケネディ )が勝手にルシールと呼んでいる肉感的な女性が、彼らにその肢体を見せつけるように洗車するシーンが艶かしい。
面会に訪れたルークの母親が、別れ際に嗚咽するシーンが切ない。
鎖で繋がれた両足、徐々にエスカレートする看守達による陰湿な懲罰に疲弊し項垂れるルークの姿がやるせない。
男らしいポール・ニューマンに魅了された。
ー懲罰房
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕)
ニューシネマ前夜の過渡期作品に見る“男性”象
基本的にこの作品は、所謂アメリカン・ニューシネマでは無い。 映画の歴史上で「最初のニューシネマ」とされているのは『俺たちに明日はない』と言われている。 この映画の主人公象の設定などの部分にはまだ、旧来のアメリカ映画を踏襲する“反骨精神旺盛”な男性像がはっきりと見て取れる。 これ以降のアメリカン・ニューシネマ作品の主人公に共通している、「ごく普通の優しい、または弱い(或いは情けない)男」では無い。 しかし、それ以前のアメリカ映画に登場して来たヒーロー像的な、「カッコいいタフガイ」的男性ともまた異なっている。(戦争で武勲をあげたという、過去についての言及はある) そうした微妙な立ち位置にあるためか、この作品を初めて観た際には、どのように受け止めたら良いものか、当惑する感情もあった。 勿論、主演のポール・ニューマンが好きだったから、作品自体に不満や否定的な評価を持った訳ではない。 ただ、ストーリー的には「軽犯罪を犯して刑務所に収監された男が、そこでの強圧的な支配に対して1人抵抗を示し、周囲のものを巻き込んで行く」というように言い表すことができるようなもので、極端な見せ場や派手なアクションなどとは縁の無い、基本的に一般社会とは隔てられた閉鎖空間での人間ドラマに終始する。 周りを取り巻く囚人仲間、刑務所関係者の俳優たちが、助演男優賞を受賞のジョージ・ケネディ氏を始めとした、いずれも曲者、つわものの個性派俳優で固められており(下記に詳細)、長編劇映画作品初監督だったとはとても思えない、スチュアート・ローゼンバーグ監督による手堅い演出と、実績のあるコンラッド・ホール氏の撮影による映像がこの作品の存在を確固たるものにしていると思う。 ラロ・シフリン氏の手による哀愁を帯びたメロディも忘れられない。 運良く手に入れてよく良く聴くいた、自慢のLPレコードの一枚だった。 しかしやはり当時の日本では、この作品の取り扱いに手を持て余した(どのように扱うかを考えあぐねた)のか、驚くべき事であるが、大型の劇場での単独拡大ロードショー公開は行われる事なく終わった。 ロードショー公開が見送られたこの作品は、当時で言う“スプラッシュ公開作品”として、都市部でのロードショー公開終了後の『俺たちに明日はない』の地方公開と都市部二番館用の併映上映にて、初めて日の目を見ることとなった作品だった、という経緯を持った作品。 参考までに、アメリカでの公開が1967年11月、日本では丸の内東映パラス等でのスプラッシュ公開により'68年8月であるが、この映画の制作自体は 1966年である。 WB7(ワーナー・ブラザース・セブン・アーツ)という同じ映画製作会社の作品だった、『俺たちに明日はない』のアメリカでの公開が1967年8月、日本での首都圏単独拡大ロードショーが'68年2月、『暴力脱獄』との2本立てスプラッシュ公開が'68年8月という流れになる。 従って、本作と『俺たちに明日はない』のアメリカでの公開と日本での公開の順番が逆になっている。 本国と日本での公開時期の差が『俺たちに明日はない』では約半年なのが、『暴力脱獄』が9ヶ月後と期間が空いており、本作の取り扱いを持て余し、公開タイミングを考えあぐねていた様子が伺える。 しかし、実際には『俺たちに明日はない』についても取り扱いを持て余していた可能性も。 それはこの作品が実際に公開される前には、肝心の本国WB7(ワーナー・ブラザース・セブン・アーツ)社自体から全く期待されていないどころか、むしろ厄介者のような評価を受けていた事が挙げられる。 因みに、近い時代のWB系の当時のヒット作なら、『ブリット』『ワイルドバンチ 』『ダーティハリー』など、アメリカ本国での公開後、日本での公開は僅か2ヶ月後なのである。一般的には殆どは、半年前後くらいでの公開が多かった。 従って『暴力脱獄』は、昭和の時代には「特に名画座での公開回数が多い人気作品」でも無かった。 それ程日の当たるような存在では無かったと言える。 その逆の存在が『俺たちに明日はない』とも言えよう。 名画座のみならず、以降も、リバイバル公開も数回なされている。 今作は“映画ツウ好みな作品”と言える一編であったと思うが、少なくとも制作当時には一般的には得られ難かった正当な評価を得るまでには、更なる年数を要する事となった。 以下、登場バイプレーヤー陣 ストローザー・マーティン: 『動く標的 』(ニューマン主演)『ワイルドバンチ』『砂漠の流れ者』などのベテラン ルーク・アスキュー:『コマンド戦略 』『イージー・ライダー』『荒野の七人・真昼の決闘』などの若手バイ・プレーヤー モーガン・ウッドワード:日本ではTVシリーズ『保安官ワイアット・アープ』のショットガン・ギブス役で知られる ロバート・ドナー :『エル・ドラド』『バニシング・ポイント』『ワイルドトレイル』のバイ・プレーヤー クリフトン・ジェームス :『華麗なる週末 』『007 死ぬのは奴らだ 』&『007 黄金銃を持つ男 』の保安官『スーパーマンII 』などで超有名 ジョン・マクリアム:『華麗なる週末 』『ランボー』等 チャールズ・タイナー:『華麗なる週末 』『オレゴン大森林/わが緑の大地』(ニューマン主演)『北国の帝王 』『大いなる勇者 』 JDキャノン:『ジャワの東』『追跡者』『ロサンゼルス』日本ではTVシリーズ『警部マクロード』のクリフォード部長で知られる ルー・アントニオ :以降は主にTV畑で活躍 リチャード・ダバロス:『エデンの東』以降は『戦略大作戦』『デス・ハント』など ウォーレン・フィナティ :『イージー・ライダー 』(牧場主役)『かわいい女』『ラストムービー 』『マシンガン・パニック』など デニス・ホッパー :『イージー・ライダー 』で言わずと知れた存在だが、それ以前に『理由なき反抗 』『ジャイアンツ 』『OK牧場の決斗 』『エルダー兄弟 』『奴らを高く吊るせ! 』『勇気ある追跡』といった西部劇系が多い(大体、家族内の年少弟など)、フォンダとの『白昼の幻想 』『ラストムービー 』なんかも ウェイン・ロジャース:TVシリーズ『M*A*S*H』のトラッパー・ジョン・マッキンタイア役を3シーズン目まで、その他も出演の殆どがTV系で、日本での知名度低し ハリー・ディーン・スタントン :『エイリアン』以降言わずと知れた存在で、それ以前は『戦略大作戦』『デリンジャー』『ビリー・ザ・キッド/21才の生涯』『ミズーリ・ブレイク』などにも ラルフ・ウェイト :『追跡者』『ファイブ・イージー・ピーセス』『チャトズ・ランド 』『荒野の七人・真昼の決闘』とかに アンソニー・ザーブ:言わずと知れた超ベテランバイプレーヤー、『地球最後の男オメガマン 』『ロイ・ビーン』(ニューマン主演)『パピヨン』『パララックス・ビュー 』『オレゴン魂』『ドッグ・ソルジャー』『007 消されたライセンス』『スタートレック 叛乱』『マトリックス(2・3)』など、気の毒なくらい嫌なヤツ役が多い方だけど、TV畑では『0011ナポレオン・ソロ2 』とか、『追跡者ハリー・O』のトレンチ警部補役や、NHK放送の『ヤングライダーズ 』では若者たちを見守るティースプーン・ハンター役などの好演も。 バック・カルタリアン:『猿の惑星』『アウトロー(1976)』 以上に加えノンクレジットながら確認できるのが、 ジョー・ドン・ベイカー :今作が事実上のデビュー作、以降活躍目覚ましく現在に至る『新・荒野の七人 馬上の決闘』『夕陽の挽歌』『ジュニア・ボナー/華麗なる挑戦』『突破口!』『ウォーキング・トール』(主演)『ナチュラル』『007 リビング・デイライツ』と別役で『ゴールデンアイ』、これとは同役で『トゥモロー・ネバー・ダイ』など、重要な役どころをこなすベテラン。 ジェームズ・ギャモン :日本ではTVシリーズ『刑事ナッシュ・ブリッジス』の父ちゃんニック・ブリッジス役でと超有名(?)、今作以降は『馬と呼ばれた男』『西部番外地』『メジャーリーグ』『ワイアット・アープ』『ハイロー・カントリー』『ザ・セル』など、超長いキャリアのベテラン・バイプレーヤーだった(ねずみ男のような、小狡く立ち回るキャラ多かったか?) そして肝心のジョージ・ケネディだが、『シャレード』『危険な道』『エルダー兄弟』『飛べ!フェニックス』『特攻大作戦』などののち『暴力脱獄』で1967年第40回アカデミー助演男優賞を受賞し、'69年には主演に抜擢された『新・荒野の七人 馬上の決闘』にて、ジョー・ドン・ベイカー と再度共演している。 以降も、'70年の『大空港』を皮切りにパニック・スペクタクル系の作品には欠かせない存在感と、イーストウッド作品への出演や、なんでもこなす器用さで西部劇、アクション、ホラー、サスペンス、コメディなどに加えて、邦画の出演までと重要な役どころで広範囲に活躍した。 といったように、後年の活躍も目覚ましく、互いの接点(その後の作品被り)も有ったりする、結構凄い面々でした.... (ある意味、この顔ぶれ見るだけでも観応え十分) 最後に、同期の『俺たちに明日はない』とは、国内では同作の“スプラッシュ公開併映作品”として甘んじることとなったが、両作は他にも因縁を持っている。 それは、前述のジョージ・ケネディ氏の1967年第40回アカデミー助演男優賞受賞との関わりで、同第40回アカデミー助演男優賞のノミネート者が実は、『俺たちに明日はない』のジーン・ハックマンとマイケル・J・ポラード2人であったと言うこと。 この二人と、更に自身も出演していた『特攻大作戦』で共演のジョン・カサヴェテスまで制して、アカデミー賞ではジョージ・ケネディ氏が勝利していることは見逃せない。 なお参考までに、この年の主演男優賞は『暴力脱獄』と『俺たちに明日はない』を抑えて、強力なライバル作品であった『夜の大捜査線』のロッド・スタイガー氏が手にする事となった。
何故か何度も見てしまう映画
クールなルーク それが彼のあだ名 若者のやり場のない怒りや苦悩は時代のせいなのか 諦めない強い心が見えるようです 常識に疑問を持ち大勢の言いなりにならず人に媚びない、しかしどこへどう進めば良いのかもわからない 最初に見たのは小学生の頃、憧れの兄のような感覚で見ていたように思います 何か薄ぼんやりと彼の生き方に共感していたのでしょうか いつの間にやら私も歳をとり世間のルークに飲み込まれて自分の気持ちにフタをして過ごしているようです 「もう少し若かったら」とか「孤独に生きていたら」とかと自分に都合のいい言い訳をして波風を立てずに生活している今が味気ないような 何をするわけでもないんだけどね
美しきPニューマン。
今更初見。 不良こそ善と無邪気に思えた幸福な時代。 1967年か。 健さん文太にも連なる。 引き立て役はハナ肇と愛川欽也。 何百回も焼き直された下敷き作を一応見とく修行的鑑賞。 ゆえに面白くはない。 美しきPニューマンの笑顔は一見の価値あろうけども。
母無き、父=神無き者がすることは•••。
ルークは、母が生きている間は生きる理由があった。母に会うこと、話すこと。
しかし母無き後、無神教の彼は、生き方を自分で決めなければならなくなった。で、取り組んだのが、脱獄=自由獲得。
母も無く、父も信じない者が自由を獲得するのは困難なのか。
かなり哲学的映画です。
まさに「不屈」そのものをストレートに描いた一作
名作映画の代名詞ともなっている本作タイトルだけど、そこから想像できるような、ポール・ニューマンが肉体にものを言わせて看守達を殴り倒し、脱獄する痛快なバイオレンスアクション大作…、などでは決してなくて、むしろニューマン扮するルークは、同じ牢獄の囚人達や看守達から受ける理不尽な抑圧、暴力にじっと耐えて見せます。彼はただ単に耐え忍ぶだけでなく、自分を押さえつけようとする相手に対して真っ正面から立ち向かいます。何の決めぜりふも巧緻な作戦もなく。強大な敵に無謀にも素手で立ち向かう彼は、当然のことながら痛めつけられ、床に倒れ込みますが、それでも決して弱音も見せず屈服もせず、再び立ち向かいます。その姿を最初嘲笑っていた囚人達も徐々にその姿に畏敬の念すらも抱くようになります。 ルークは「不屈の男」ではありますが、チャールトン・ヘストンのような巌の肉体を備えている訳ではなく、また時には愛する存在に手を差し伸べてもらえない哀しみを感じさせもしますが、ジェームス・ディーンのようにその寂しさ、悲しさを素直に表現することもありません。その表情だけで彼の揺るぎない精神性を表現しているニューマンは、やはり名優であると納得せざるを得ません。 もちろんルークの不屈の物語としても楽しめる本作ですが、作中には明示されているものも暗示されているものも含め、さまざまな宗教的要素がちりばめられており、さらに深い精神性を感じさせます。ルークの囚人仲間を演じた、ドラグライン(ジョージ・ケネディ)がルークとの関係をどのように締めくくったのか、その語り、役どころが実に素晴らしいです。 「なんか恐そうな映画だなぁ。暴力描写はやだなぁ」と躊躇している人にこそお勧めしたい一作です。ただ男性世界ならではの、「無茶をして男を上げる」描写もあるので、そこは注意!
面白かった。
・狭い世界にもルールはあるけれど、それを大口叩いてる姿が滑稽に見えた。リーダーっぽい人が次第に頼りない感じになっていって面白かった。字が読めないのが時代の影響下を感じでやや切なかった。でも、後半はとても楽しそうで良かった。
・監獄なのに皆なんだか楽しそうで、むしろ早く出たがったり、脱獄するほどなのかと思った。ビールやコーラ、タバコもやってるみたいだったし。
・ポールニューマンの母親が、産んだ子供でも愛せるのと愛せないのとがいるというのが何だかじわっときた。
・車を洗ってた女は何だったんだろうと思った。けれど、関わりのない感じも良かった。囚人が皆翻弄されてて、その後トイレへ続々と行くのが面白かった。
・ポールニューマンは、変人で何を考えてるのか全くわからなかった。神様が居たら生きてる意味を教えてみろみたいに言ってたら、ラスト神頼みのような感じで。わからなくはないけれど、側から見ると、そう見えるのだと思った。
・凄く面白かった!っていう手応えはなかったけれど、時折、頭の中にシーンの端々が甦りそうな面白さがあって良かった。真夏に思い出しそう。
・2度目の脱獄が簡単にできすぎて、無理あるなぁと思った。3度目の脱獄の後、一緒に逃げた元リーダー的の男が警察にしっかり捕まってて、説得のために教会へのこのこ現れた感じがとても間抜けに見えた。良い人だったんだけど、とても。
・ポールニューマンが、なぜ偽造の雑誌をわざわざ作って送ったのかが謎だった。自慢したかったのか。どれぐらい脱獄してたのかが気になった。あと、また同じとこの同じベッドに行くんだ、、、と思った。
人生で大切なことはクール・ハンド・ルークが教えてくれた(全部じゃないけど)
母親には会える時に会っておくこと。 打ちのめされても立ち上がること。 どんなことでも手を抜かずに精一杯頑張ること。 つらい時こそ笑顔を。 茹で卵食べすぎないこと。 ポール・ニューマン特集上映。 有り難いけど、一週間で四本同時には厳しい。 一本ずつ四週に分けてくれれば全部観れたのにな。
ルークが看守に従順になると、仲間たちがあっさり離れていくところが印...
ルークが看守に従順になると、仲間たちがあっさり離れていくところが印象的でした。 そもそも刑務所に入った犯行動機が意味不明なのと、2年で刑期が終わるのに脱獄する理由が分かりませんが。
アメリカン・ニューシネマの向こう側
ハリウッド黄金期のアメリカ映画には「世界の正義を牽引する民主主義国家」というアメリカの国家的自意識が反映されており、それゆえに力強くわかりやすい物語を湛えた傑作が数えきれないほど生み出された。しかしベトナム戦争でアメリカの自意識が根底から揺らいだとき、それと軌を一するようにアメリカの文芸にも大きな揺らぎが生じた。 映画の場合、それはアメリカン・ニューシネマというムーブメントとして表出した。そこではもっぱら「苦悩する若者」という表象においてアメリカが掲げる「正義」なるものの暴力性や空虚さが暴き立てられた。 ただその中には、名作と呼ばれているものの、実のところ国家や権力に対する異議申し立て以上の射程を持たない作品が少なからず存在していた。しかしそれだけでは当時のアメリカを覆い尽くしていた不安の本髄に触れたことにはならないのではないかと私は思う。 この不安の正体とはつまるところ何であるのか?そんな疑問に真っ向から対峙したのが本作だ。 主人公のルークはパーキングメーターを破壊した罪でフロリダの刑務所に収監される。ルークはその超然とした佇まいで囚人たちに気に入られ、看守たちともそこそこ円滑な関係を構築していく。 しかし刑期満了目前のある日、彼は突如として刑務所を脱走してしまう。彼は刑務所に連れ戻され、それなりの処罰を受けるが、性懲りもなく二度目の脱走に及ぶ。 彼がなぜ脱走するのか、その理由はまったくといっていいほど語られない。ただ一つわかることは、ルークが「自由」の求道者であるということだけだ。 ルークが去ってからしばらく後、獄中の囚人たちにルークから便りが届く。同封されていた写真には両腕に美女を抱いた彼の姿があった。囚人たちは彼の「自由」な生き様に惜しみない称賛を送る。 直後、ルークが再び刑務所に連れ戻されてくる。彼は看守から度重なる拷問を受け続け、ついに心が折れてしまう。情けなく看守の足に縋りつき「改心します」と泣き喚く彼を見て、つまり「自由」を手放してしまった彼を見て、囚人たちは深く失望する。 しかし彼は作業用トラックで三度目の脱走を果たす。囚人仲間であるドラグラインも一緒だった。意表を突かれた看守たちは総出になって彼らを追い詰める。 逃走ルートを発見したドラグラインはルークに一緒に来るよう持ち掛けるが、ルークは悟りきったような表情で首を横に振る。このとき彼は「内側も外側も同じなんだ」というようなことを言う。 どれだけ「自由」を求め彷徨っても、そんなものはどこにもない。刑務所とシャバという二項対立を仮想し、それぞれを「内側」「外側」と区切ってみたところで意味がない。それは言うなれば「どこへ行っても同じである」という虚無的真実を隠蔽するための言葉遊びに過ぎない。彼は「反権力」「反国家」といったお題目のさらに先にある、絶対無の地平を見てしまったのだ。「諦めんなよ!」としつこく食い下がるドラグラインに「俺だって頑張ってみたさ」と弁明するルークの笑顔はまるで能面のように生気が抜けている。 いよいよ追い詰められたルークが最後に辿り着いたのは田舎の古びた教会の中だった。無神論者であるはずの彼は、最後の望みを賭けるように、そこにいるはずの神に語りかける。この世界が内側も外側も存在しない地続きの虚無であることを知ってしまった彼にとって、宗教は最終最後の拠り所だった。しかし神は何も答えない。そして一発の銃弾が彼の心臓を貫いた。 エピローグで刑務所に送還されたドラグラインがルークの武勇伝を他の囚人に語って聞かせるシーンはことさら印象深い。彼らはルークを権力に対する勝利者であると称えるが、これは冒頭で述べたような「反国家」「反権力」それ自体を目的とした一部のアメリカン・ニューシネマと同等の位相にある。 しかしルークは、あるいは本作はそこが最終地点ではないことを知っている。彼の諦観めいた双眸の先には、国家も権力も戦争も自由も宗教も何もかもが等しく効力を持ちえない絶対無の地平が、ただただ広漠と広がっているばかりだ。
全42件中、1~20件目を表示