悪魔の人形

解説

「噫初恋」「古城の妖鬼」のライオネル・バリモアが主演する映画で、エイブラハム・メリット作の小説に基いてトッド・ブラウニングがストーリーを書き、「肉弾鬼中隊(1934)」のギャレット・フォートが「古城の妖鬼」のガイ・エンドア及びエリッヒ・フォン・シュトロハイムと協力して脚色し、「古城の妖鬼」のトッド・ブラウニングが監督に当たり「ターザンの逆襲」のレナード・スミスが撮影した。助演俳優は「ターザンの逆襲」のモリーン・オサリヴァン、「孤児ダビド物語」のフランク・ロートンを始め、「脱線僧正」のロバート・グリーグ、「嵐の三色旗」のヘンリー・B・ウォルソール、ルーシー・ボーモン、グレイス・フォード等である。

1936年製作/アメリカ
原題または英題:The Devil Doll

ストーリー

元銀行頭取ポウル・ラヴォンドは同僚三人に裏切られ、彼らの罪を背負って入牢17年に及んだが、同囚のマルセルと計って脱獄を企て成功した。マルセルは森の中にある彼の秘密の研究所にポウルを伴った。彼は苦心研究の結果、原子を縮小することによって人間と言わず動物と言わず、一寸法師のように小さくする方法を完成していた。彼の入獄中妻のマリタが夫の研究を続行していたが、脳髄だけはどうしても完全に出来ず、一寸法師はただ人間の意志を受けて、その命令通りに行動するのであった。衰弱したマルセルは実験中に死んだので、ポウルはマリタと共にパリに現れ、女装して玩具屋を開き同僚三人クゥルヴェ、マタン、ラダンに復讐する機会を狙った。一寸法師を使ってまず一人を障害者に、一人を狂人にした。警察当局は躍気となってラヴォンドの逮捕に努めたが、ついに最後の一人にも恐ろしい脅迫状が届けられた。ラヴォンドは年老いた母親と娘のロレインに名乗り出る前に、何とかして自分の冤罪をそそごうと思ったが、ついに三人の内で後に残ったマタンは恐怖に堪え切れず、彼らの罪を当局に自白したので、17年前のラヴォンドの罪は晴天白日となった。しかし彼は仇敵二人を障害者と狂人にした罪があるので、娘にも名乗らずさろうと思ったが、マリタはマルセルの意志を継いで研究を続けることを要求し、ラヴォンドが聞き入れないと見るや、爆薬を以て彼を田お産としたが、ラヴォンドは危うく逃れ、マリタ一人は惨死した。ラヴォンドは娘ロレーヌの恋人であるタクシー運転手トトに事実を打ち明け、来合わせた娘にはラヴォンドの友人であると言い、二人に別れると満足の笑を浮かべてあの世の旅へ向かうのであった。

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スタッフ・キャスト

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映画レビュー

3.5壁を伝い、ベッドをよじ登るミニチュア美女の暗殺者! 綺想はじける怪奇SF復讐譚。

2021年8月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

「ミニチュア人間」(ダウンサイズ)ネタには、いくつかのヴァリエイションがある。
『縮みゆく人間』のように、「縮む」こと自体に焦点を当てたもの。
『ミクロの決死圏』のように、「縮むことで可能になるミッション」に挑むもの。
『借りぐらしのアリエッティ』のように、小人の生活ぶり自体を丹念に描写するもの。
『巨人たちの惑星』のように、逆に周囲が巨大化することで相対的にミニチュア化するもの。

しかし、「ミニチュア化の技術」を敢えて「復讐」のために用いようという発想は、かなり珍しいと言わざるを得ない。なぜなら「復讐」という行為は、ミニチュア化のようなオーバーテクノロジーに頼らずとも、より一般的な手段を用いて実現可能な代物だからである。
なぜ、よりによってこんな稀少な技術を、そんなことに??
しかも、なぜそのためにミセス・ダウトみたいな老婆の扮装で、おもちゃ屋をやらないといけない??

そもそも、一緒に脱獄したマッド・サイエンティストがミニチュア化技術を開発した理由が、食糧危機を迎えて全生物を1/6サイズに変換することで、省エネ世界を実現するためだとか、
ミニチュア化した動物・人間は「脳も委縮するため」外から念波で自由に操れるようになるとか、
ピンみたいなミニチュアの剣に塗って刺しただけで一瞬で全身麻痺に陥る強毒が登場するとか、
これらの超技術を使ってやることが、日中人形として相手に買わせて侵入させたミニチュア人間を外から操縦して、形見のエメラルドを取り返したり、相手に毒を盛るといったミステリーテイストの復讐劇だったりとか、
いろいろすべての要素がいい感じに「ぶっ飛んで」いるのだが、なぜかそれらが奇跡的なジョイント具合で組み合わさって、ひとつところに綺麗におさまっている。
しかも、この怪奇SF×復讐譚に、犯罪者の父をもったがゆえに苦労を重ねてきた実娘との交流といった、メロドラマ要素も大幅に加味してなお、全体のバランスを崩していない。
これって、結構すごいことなんじゃないのか??

とにかく、ライオネル・バリモアのおばあちゃん演技が素晴らしい。
ひょいっとカツラかぶって眼鏡をかけただけで、マジでおばあちゃんにしか見えないんだから。
ばってん荒川、青島幸男、木村進、桑原和男、志村けんと、数々のおばあちゃん芸で目を肥やしてきた日本人の視点から見ても、バリモアのおばあちゃん芸は超一流だ。

特殊効果に関しては、最初小汚い犬の置き物をなでながら「まるで生きてるようだ!」とか言い出したときには、どうなることかと思ったし、その後の映像合成シーンもさすがに古臭い印象は否めなかった。ところが……ミニチュア女がクローゼットによじ登り、ベッドによじ登る長回しのシーンが出てきて、心底驚倒した。
なに、これ? まさか巨大セット組んでやってるの? 特撮臭ゼロで「アリエッティ」やってるんですけど、こんなこと可能なのか??
30年代という時代に、夢想した幻想的光景をフィルム上で見事に実現してみせた力技に乾杯!

トッド・ブラウニング特有の「ゆがんだ倫理観」が、映画のある種の「味」になっている点も見逃せない。
主人公は、娘の幸せのために三人の仇への復讐を目論むのだが、人体実験の犠牲になったメイドには一片の同情も示さず、復讐の道具として自在に活用してみせる。復讐が終わるやいなや、これだけのオーバーテクノロジーを平気で葬り去り、相棒を務めていた博士の未亡人を切り捨てようとする変わり身の早さも酷薄だ。主人公が、というか、作り手の物事の価値判断や軽重のつけ方がどこかおかしい。主人公にこれだけのことをさせておきながら、あたかもハッピーエンドであるかのように締めくくる、このケツのこそばゆい感じが、いかにもブラウニング流だ。

なんにせよ、これだけのぶっ飛んだ「綺想」と「幻視」を、ひとつの物語にまとめてみせた手腕は、ただごとではない。脚本に参加しているエリッヒ・フォン・シュトロハイムも、一定の役割を果たしているのかもしれない。

13日の金曜日に、わざわざ渋谷まで足を運ぶにふさわしい一本でした。

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じゃい