ザ・マスター : 映画評論・批評
2013年3月21日更新
2013年3月22日よりTOHOシネマズシャンテ、新宿バルト9ほかにてロードショー
観客の共感を求めない映画。だが、残像は脳裡から消えない
PTA(ポール・トーマス・アンダーソン)は、テレンス・マリックに接近したのだろうか。映画を見ているさなか、一瞬、そんな感想が頭をよぎった。
いや、いくらなんでもせっかちすぎる反応だろう。まず、人間関係の設定がいつものPTA流だ。外界と調和できない青年が擬似的な父親と出会い、親交と離反を繰り返す設定。これは、いままでにも何度か出てきた。「ハードエイト」や「ブギーナイツ」などは、最もわかりやすいサンプルだ。
「ザ・マスター」でも、出発点ではこの関係が踏襲されている。苦しむ獣のような青年フレディ(ホアキン・フェニックス)が、新興宗教の教祖ランカスター(フィリップ・シーモア・ホフマン)と出会い、親密な交流をはじめるという設定。
が、「ザ・マスター」には際立った特徴がある。プロット不在はPTA映画の常なのだが、この作品は、ストーリーまでもが捨てられているかのような印象を与える。それを補うのは鮮烈な映像と俳優の磁力の強さだ。この2点で、PTAは映画を引っ張る。わけても後者。フェニックスとホフマンのしつこい組み打ちは相当に凄い。
どこが凄いかというと、両者は弁証法に頼らない。誤解と理解を重ねてたがいに成長するという紋切型などには眼もくれず、ふたりは徹底して一方通行の関係を貫く。
そう、これはきわめて特殊な化学反応だ。蜜月は短く離反は長い、という常套句ではなく、延々とつづく無理解のはざまにときおり親密さが紛れ込む状況を想像していただきたい。その気配が珍しい。PTAは、観客に共感を求めない。観客も、感情的には映画にリンクしづらい。にもかかわらず、映画の残像は脳裡から消えない。主人公ふたりの摩擦も、眼と耳に残りつづける。PTAは「俳優の監督」という特性を維持したまま難関に挑んでいる。マリックとは、ここが決定的に異なる。
(芝山幹郎)