シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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「セカイ系」の脱トートロジー化 セカイの終わりと世界のはじまり
TV版、旧劇場版、そして新劇場版前3作もほとんど断片的にしか観ていないので、ストーリーやキャラクターや伏線に関して語れることはほぼない。しかし、本作だけ観ても論じられることがあると思うので、少し書いてみる。『新世紀エヴァンゲリオン』は、元祖「セカイ系」とも呼ばれるアニメ作品だ。「セカイ系」とは、ミクロな関係性がマクロな世界の命運に短絡するような作品群の呼称である。たとえば、新海誠監督『ほしのこえ』は、地球と宇宙に引き裂かれた恋人の関係が、宇宙規模の異星人との戦闘に影響し、人類の存亡に関わる。
さて、セカイ系としての『エヴァ』は、本作でどうなったか。碇シンジと父親ゲンドウとの戦い、言わば「親子喧嘩」に、世界の存亡が賭けられる。セカイ系そのものだ。マイナス宇宙には人間の認知が及ばない、というプレテクスト(口実)で、シンジとゲンドウの記憶が空間に上書きされるが、エヴァに搭乗して戦っているのに、部屋や学校が背景になる。笑いを誘うギャグだが、ふたりの親子喧嘩ぶりを印象づけている。新海誠監督『天気の子』は、実は新海監督がセカイ系からの離脱を企図した作品だったと思っている。「天気の巫女」である陽菜をシステムの「外」へ連れ出すことで、予定調和の秩序回復を破綻させ、内部からのセカイ系破壊を試みたのだ、と。作品にいったんセカイ系のロジックを採用すると、もはやセカイ系から脱出できなくなることを「『セカイ系』のトートロジー化」と呼ぶとするなら、新海監督は『天気ー』で「セカイ系」の脱トートロジー化を試みたのだ。
さて、『シン・エヴァ』はセカイ系に内閉したまま終わったか。いや、そうではない。ストーリー的にはわりとシンプルなエディプス・コンプレックスの物語で、亡き母、ユイに似た少女レイをめぐって、シンジがゲンドウを象徴的に「殺す」わけだが、しかし、シンジ、レイ、アスカは「承認をめぐる闘争」の中にあるので、各々が互いに受容できない関係性だ。そこに、マリという外部からの来訪者が加わることで、受容の可能性が生じた。ところで、『シン・エヴァ』が取った「セカイ系」の脱トートロジー化の戦略とはどういうものだったか。
マリがシンジの救出に現れるシーンで、画面がラフ画に後退していく。また、マリがシンジの手を取って駅を出て行くラストシーンで映し出されるのは、現実の街並みだろう。そう、古典的ではあるが、「現実に帰れ」との「異化効果」が『シン・エヴァ』のセカイ系の脱トートロジー化だったのだ。
『天気ー』が「内破」なら、『シン・エヴァ』は「破裂」だ。他者に承認を与えられるマリのような存在が、承認不足で右往左往するシンジのような存在を救い、ライナスの毛布的なエヴァが不必要になり、「卑小な」現実が眼前に広がる。そして、観客も現実に帰るのだ。
ずっとエヴァファンだった人のための作品
テレビシリーズからずっと視聴していた君にサービスサービス!って所でしょうか。これがエヴァ初見の人には理解不能な映画なのかも知れません。といっても、私もリアルタイムで見ていた訳じゃ無いので、今から一通り見直せば大丈夫じゃないでしょうか。そんな感じで、これまでのシリーズを彷彿とさせる映像も数多く、特にテレビシリーズ終盤を思わせるような印象的表現の羅列するような作り方もあり、やはり理解が困難な映画であることは前作と変わりないと思います。それでも、初めて碇ゲンドウを少年時代から描かれていて、正に補間計画を起こすべく人格が形成されたのだと納得出来た次第です。正に日本アニメーションの最新型とも云うべきイカツイ映像美、見応え十分でした。それでも、まだ自分は理解出来ていないような気もするので、円盤が発売されたら見返さないといけないようです。そして、良い顔になって女も口説ける大人シンジさんがリアルの世界へ駆け出していく、そのエンディングで私は良かったと想います。
やはりテレビ放送分と旧劇場版の方が完成されていると再認識したのみ
長年のファンとしてやはり完結した事には感謝感激です。
ただ、序、破、Q、と新劇版を見てきましたが、旧作ですべて完成されていると思っている私としては、やはりテレビ放送分と旧劇場版の方が謎の伏線や回収のバランスなども含め、無駄なく完成されていたなと再認識しただけでした。
この新劇版は、やたらごちゃごちゃと新たなキャラや新設定を入れ込んだものの、その多くの新設定が物語の中では説明不足&消化不良で、そこそこ旧作では知識オタだった私ですら解説動画などを見ないとよく分からない内容になっています。
うる星やつら「ビューティフル・ドリーマー」のオマージュ的な街全体が特撮のセットだったりするメタ表現などに至っては、この新劇から入った新規の人(少ないとは思いますが)にとっては意味不明レベルでしょう。結局は「アニメなんか見てないでいい加減現実に戻って大人になれよ」ってテーマ自体は基本的に同じでも、物語としては"語り過ぎ"で逆に説教臭さが強くなっているだけ。
結局、ゲンドウはシンジと精神世界でありきたりな親子対話を果たしたところで、ゲンドウは勝手に自分語りに納得して、あっさり計画を断念して途中下車(笑)。人間やめてまでやってきた計画を今さら止めるの?こんな自己啓発セミナー程度の内面語りで満足しちゃうくらいの人間関係の悩みでウジウジし過ぎでしょ、庵野監督。
また、肝心のシンジの復活がご都合主義。まだレイの成長はほっこりしてて良かったが、シンジは終始いじけてただけ。もっとレイと一緒に第三村のみんなと生活を共にして、他者との関わりの大切さや日常を生きていく事の意味を考えさせ、少しづつ自立していく過程を描くべきだった。それなのに周囲の人間が甘やかしているだけだから、シンジがニアサードの責任やレイの死を受け入れて立ち直る「精神的成長」が唐突で説得力が感じられなくなっています。
また今作ではマリが完全にシンジのお母さん的役割を担わされており、やはり旧作にいなかったキャラでありながら、そこまで重要なキャラとして描かれる事に対して最後まで違和感は拭えませんでした。
まあ、とは言え、ちゃんと庵野監督が作品として決着を付けてくれた事にはファンとして感謝しています。あとはそのうち「空白の14年間」を外伝的な作品として見せてくれたら嬉しいです。
焦らずまくわよ
当時、映画館で観ました🎬
冒頭のパリ復元作戦に始まり、ラストのシンジとゲンドウの親子対決まで、本当に目が離せない展開でした🙂
シンジは全てのエヴァンゲリオンとチルドレン達を解放し、自分はそのまま消えていくかと思いきや…やはりそこはマリが助けましたね。
髪の長いレイさんも素敵でした😀
まさかシンジがエヴァに乗らなくていいように、ずっと初号機に留まっていたとは…❗❗
主に中盤でのシンジが立ち直るまでの過程も割りと丁寧に描かれていて、トウジ・ケンスケ・ヒカリや村の皆との交流。
シンジの「何で皆こんな優しいんだよ❗」という台詞や、黒レイさんとの悲しい別れ…。
終盤ではミサトさんともちゃんと和解し、しっかり漢の顔になり親子対決に向かうシンジ。
そしてミサトさんは、シンジに槍を届けるために…。
途中途中のエピソードも、私はどれも好きですね🙂
加持リョウジ2世に向けた、ミサトさんの最期の言葉は…涙腺が。
ゲンドウの計画通りになりかけてた時は焦りましたが、アスカもきちんと救出出来ましたし😁
相変わらず、ラスト近くでは急に加持さんが「渚司令」とか言ってたりして、難解な部分もありますが、それがエヴァなのでね。
私は中学生の時、友達からTV版のビデオを勧められて、それから観てからすっかりファンなのですが😀
まさか、大人になって劇場版の完結編にしてほぼ大団円で終わるストーリーを観られるとは…思ってもみませんでした。
制作チームの方々には、感謝ですね。
私はこれからも、いちエヴァファンで有り続けます😁
ちなみに私が1番好きなキャラクターは、レイさんですね🙂
皆さんご存知の通り、その後は彼女を模した設定のキャラクターが多数生み出されています。
一例を出すと、私が今でもやっているゲームシリーズ「真・三國無双」の星彩も、彼女を意識していると言えます。
後世の作品に、多大な影響を与えた存在と言えるでしょう🙂
そんな訳で、私はエヴァが今でも大好きですね👍
制作チームの方々、お疲れ様でした❗
虚構からの卒業と冒険のループ
英雄の物語は、父親の世界を知ったあとに、父殺し、それから帰還という流れになる。本作でもその部分が描かれる。なお、「千の顔を持つ英雄」では英雄の冒険は、円環を描いているとされており、タイトルにつけられた「:||」は、その円環を意味していると思われる。
冒頭、ヴィレとネルフの戦いが描かれる。舞台はパリであり、街全体が赤く染まっている。海の色と同じだ。つまりは死滅していることを示しているのだろう。ただ、後半、ゲンドウの言葉によると、死滅ではなく「浄化」ということになる。
なぜパリなのかはわからない。ネルフの生み出した軍隊は、「シトもどき」と呼ばれる。破壊されると、シトと同じように十字の閃光が走る。Qの冒頭での、ネルフとの戦いでは、十字ではなく、十字が傾いた閃光になっていたので、Qの時にヴィレが戦っていたのはシトもどきではないのではないか。ということは、ネルフは進化してシトを作れるようになったということか。今まではシトが第三新東京市を襲ってきていたのだが、ゼーレが消滅して、シトはやってこない。しかし、〇〇インパクトを起こすためにはシトが必要だ。そのために、シトを作っているのだろうか。
戦闘に参加しているのはマリで、ネルフの軍隊を撃破し、パリがふたたび生気を取り戻す。
場面がかわって、シンジとアスカ、アヤナミが第三村にいきつく。村には外敵から守るための防御柱が設置されている。ヴィレが作ったものだという。アスカは村には入れない。これは後半で明らかになるが、アスカがシトだからだ。
先に書いてしまうと、アスカはシトであって、左目に小型の防御柱のようなものをいれて、その力を抑えている。だから眼帯をしている。つまり、破で、エヴァをシトに乗っ取られたとき、アスカ自身もシトに乗っ取られていたのだ。
そして、彼女がシトであることが、アナザーインパクトのトリガーとなる。フォースインパクトで世界を救いにいったカヲルが、トリガーにされたのと同じパターンだ。しかし、単純な繰り返しではない。それについては後で書く。
村での平穏な生活は、農作業をしたり、壊れた部品を修理するような、平穏なものだった。しかし、エヴァパイロットにとっては、終の棲家になるような場所でない。
シンジはQでの衝撃から立ち直れず、ずっとふさぎ込んでいる。アヤナミは畑仕事を手伝うなどして、農村の人々にかわいがられるが、自分はネルフでしか生きられないことは知っている。
彼を取り巻く状況はあまりにもヘビーだ。
サードインパクトを起こしかけて、世界をめちゃくちゃにした。しかも、助けたはずの綾波はいなくて、結局誰も助けていなかった。さらに、フォースインパクトをも起こしかけてしまった。その際に親友のカヲルを失った。さらに悪いことに、カヲルが死んだのは、シンジがつけていたチョーカーを引き受けていたからだ。要するに、シンジがカヲルを殺したようなものなのだ。なお、カヲルの原型はユイではないかと思っていたが、本作を観ていると、もしかするとゲンドウが原型なのではないかと思わされる節がある。
気になるのは、シンジからチョーカーを引き受けたとき、カヲルは「これはそもそもボクがすべきものだ」と言っていたことだ。シンジがチョーカーをつけられたのは、彼がフォースインパクトを起こしかねないからだ。セカンドインパクトを起こしたカヲルが、フォースインパクトのトリガーになる可能性は非常に高かった。そういう意味ではカヲルがチョーカーをつける必然性はあるだろう。しかし、彼は世界を救うつもりでエヴァに乗った。ゲンドウの策略にはまったことを悟るのはそのあとだ。そうすると、別の可能性を考える必要がある。カヲルがゲンドウのコピーであるならば、人類補完計画を実行するために、フォースインパクトをもくろんでいるわけだから、チョーカーをつける必然性が出てくる。
物語に戻ると、シンジが立ち直る。そして、アヤナミのタイムリミットが訪れ、彼女は死ぬ。
シンジはアスカとともにヴィレに戻る。
ヴィレとネルフの最後の戦いはセカンドインパクトが起こった場所で繰り広げられる。
なお、本作ではカジさんが、サードインパクトを止めるために犠牲になった、という話が語られる。カヲルが槍で初号機を貫いたからサードインパクトが止まったのではなかったのか。カジがどうやってサードインパクトを止めたのかは語られない。
最後の戦いのメインになるは13号機を破壊することだ。シンジは13歳、カヲルは13番目のシト。そして、12使途の次の数が13。この13という数字は、エヴァにおいて、重要な数字のようだ。
戦いの途中でゲンドウがヴィレの戦艦に現れる。彼は銃で撃たれるが、形態が破損するだけで死なない。これは、ゲンドウ自身がすでにクローン化しているということだろうか。
観ていて思い出すのは、埴谷雄高の「死霊」だ。日本初の形而上学小説と呼ばれる傑作長編において、延々と語られていたのは「人間は肉体はいらない、魂だけの存在になるのだ」ということだ。その魂だけの存在を小説内では「虚体」と呼んでいた。延々と続く物語の中で、ただそのことしか語られていなかったのは、見事だった。
エヴァが「死霊」を意識していたとすれば、ゲンドウは虚体になっていたのではないか。
人類補完計画は「虚体」かといえば、魂を固体化して、融合するというプロセスのようだから、虚体ではない。このあたりの事情があるので、小生はエヴァと「死霊」とのつながりをあまり強く主張できない。
まず13号機を破壊しに向かったのはアスカだった。彼女が13号機に槍をつきたてようとすると、ATフィールドが発生する。アスカが搭乗している新2号機が発生させているのだ。そこで、アスカは左目から防御柱を引き抜き、シトの力を発生させる。この発想はデビルマンと同じだ。コックピットにいるアスカに、笑い声が近づいてくる。これは破の時と同じ状況だ。しかし、姿を見せたのはアスカの原型だった。アスカは最初からクローンだったのだろうか。もしくは破で一度死んで、クローンとしてよみがえったのか。父も母も知らないというところを考えると、前者なのかもしれないが、今までそういう情報がなかったので判断できない。
そしてアスカが死ぬ。
次に、シンジが初号機に乗って13号機を破壊しにいく。13号機に乗っていたのはゲンドウだった。
アスカが戦っていたときは、アスカの原型が乗っていたようだが、シンジが乗っていたときはゲンドウが乗っている。これは13号機という存在が、相手によって姿を変える要素があるということだろうか。つまり、おかしな言い方になるが、13号機の実体はなくて、セカンドインパクトの爆心地という異空間によっておこる内なる戦いが、実体化したものなのだろうか。
ゲンドウとシンジは戦うが、攻撃によって勝敗がつかないことを悟る。そして、会話がはじまる。電車の中で。あの電車は、シンジの心象風景なのだろうか。
ふたりが話している間に、ヴィレの戦艦が槍を届ける。それによって、ゲンドウは自らが敗北したことを悟る。
そのあと、マリと冬月が会う。冬月はマリを「イスカリオテのマリア」と呼び、死の直前に「ユイくん、これでよかったかね」という。今までゲンドウの分身だった冬月が、ここではじめて自らの意思を見せる。つまり、ユイやゲンドウと同級生だったマリは、彼らが夢見る人類補完計画を阻止する役割を担うところから、「イスカリオテ」と呼んだのだろう。そして、マリの援助をするということは、冬月もまたゲンドウを裏切ったということになる。彼は自らの命を賭して、人類補完計画を止めようとしたのだ。「ユイくん、これでよかったかね」というセリフは、冬月が考えるユイは、人類補完計画を望まないだろうという思いの表れなのではないか。
登場人物たちが次々と自分の立場を説明しながら退場していく。カヲルとカジさんのやりとりも興味深い。カジさんはカヲルを「渚指令」と呼ぶ。その時のカヲルはゲンドウの席に座っている。つまり、カヲルとゲンドウは同一人物なのだろう。そして、カヲルがゲンドウを「お父さん」と呼んでいたことを考えると、原型がゲンドウで、カヲルはクローンなのだろう。カヲルがシンジに無償の愛を注いだのは、カヲルにとって、シンジは息子のようなものだからだ。
やがて戦いはおわり、マリがシンジを迎えにくる。ふたりは田舎の駅にいる。駅のホームには、カヲルやアスカといった人々の姿がある。ただ、みんな他人で、普通の人間になっている。
マリはシンジの首からチョーカーを外す。簡単に外したのは、世界が違うからだろうか。
ふたりは駅から出る。そこは実写になっていて、人物だけがアニメになっている。カメラが空撮になって町の風景が映し出される。不思議なのは、そこには人物が歩いていないことだ。車は走っているのだが、人間がいない。駅周辺にいた人々はアニメだったが、カメラが回転したあとの世界がどうなっているかはわからない。
この、実写の世界に移行するということは、英雄の、すなわちシンジの人生が円環のあらたなターンに入ったことを示している。
こうして一気に観ていると、いろいろなことがつながっていく。槍の名前については、調べなくてはわからないが、今回は基本的に自分の知識や想像だけでレビューしてみた。
人は他者とのコミュニケーションがあるから人なのであって、ひとりでは生きていかれない。コミュニケーションには苦痛がつきものであるが、それでも生きていかなくてはいけない。というのが、エヴァの中核をなすテーマであったと思う。
今作の最後で実写を入れたというのは(旧作でも実写は入っていたが)、アニメ、つまり虚構の世界から現実への移行を表現しているのだろうか。虚構にとじこもっているのではなく、現実を生きろ、と。そうだとすると、あまりにも正論すぎるかと思う。単なる演出上、実写をいれたのだと思いたい。
なお、エヴァを観ていると、ちょくちょく「シリアルエクスペリエンス・レイン」を思い出した。人間の心の闇を描いた傑作で、あの作品にながれていた虚無感が、エヴァからも感じられた。エヴァは最後に救いを持ってきたが、レインはどうだったかな。
すぐれたイマジネーションに触れると、人生が豊かになった気がする。小生の場合は、圧倒的なオリジナリティに触れたい。そういう意味で、大友克洋の「AKIRA」であるとか、デヴィッド・リンチであるとか、埴谷雄高「死霊」などなどたくさんあるが、そういうものは小生の人生を豊かにしてくれたと感じている。
庵野秀明については「エヴァ」のクリエイティブは素晴らしかった。これで完結したから、また新たなオリジナル作品を生み出してくれることを期待している。
呪縛からの解放
こうして皆さんと共に生きてエヴァンゲリオンの
終わりを見届ける事が出来て幸運です。
私の語彙力では上手く表現出来ませんが、
レビューを綴りたいと思います。
今回のシン・エヴァンゲリオンは完璧なる
庵野監督によるエヴァンゲリオンの呪縛から解放。
個人的にあの否定寄りの賛否両論だったQの
登場人物の不満点を全て解消してくれた事だけでも
高評価でした。
みんなシンジ君に対して感謝もあり憎しみもあった。誰しもが割り切れなかった。
冒頭から安否不明だった登場人物と
赤く染まった大地から離れた自然豊かな自然と
人の営みを見せてくるのが流石は庵野監督だと感じました。
アヤナミレイ(仮)の人々との触れ合いにホッコリ。
前作感情移入出来なかったヴィレのクルーや
空中戦艦ヴンダーも本作でようやく愛着湧きました。
庵野監督がやりたかった艦隊戦も楽しめました。
全編に渡る戦闘演出やカメラワーク、
相変わらず頭の整理が追いつかない儀式演出も
庵野監督ならでは。
終盤、シンジ君とミサトさんの最後の会話は泣いてしまいました...
シンジ君が毅然と主人公として覚醒し、
旧劇場版へのケジメとしてレイとアスカを救い、
果てにはカヲル君すらも救済した事に感動。
あらゆる過去への決着を付けて最後は新キャラであるマリと共に駆け出したのも過去との決別なんですね。
暫くはエヴァファンお馴染みの考察があるかと思います。
でもこの先は無いとなるとやはり寂しいです。
最後まで声優が変わらず、エヴァンゲリオンの終焉を見届けられて本作に感謝です。
本当にありがとうございました。
普通に綾波かアスカとくっついてくれシンジ
思った以上に前向きな感じで、宇多田ヒカルの主題歌も相まってちょっと切なくもさわやかに終わったのがあまりにもエヴァンゲリオンらしくなくて驚いた。
シンジとゲンドウの親子関係が決着ついたのもよかったし、「親戚の集まりが嫌いだった」とかいう共感しかないセリフから始まるゲンドウのモノローグもよかった。
だが、しかし…シンジ×マリはないだろう?ほぼ接点ないじゃん…アスカ×ケンケンも……完全に脳が破壊された。
あと戦いで決着ではなく話し合いで和解するという結論はそれはそれで良いと思うけれど、やっぱり覚醒したシンジの初号機はかっこよく戦うとこは見たかった。
まあ、ちゃんと完結したので、監督頑張ったなと……
昔見たの思い出してレビュー
自分の個人的な解釈では
最後の終わりは結局 ループを抜けて別の世界線に移動した現実てことですかね
世界線を大きく移動したことでエヴァのいない世界にきたみたいなことかな
その今までいた世界は夢という形で昇華した
正直ここまで頑張ってみてもあまり意味はないがっかり作品でした
考察も無駄に多すぎてうっとおしいし
綾波レイ推し
映画館でもたしか3回視聴、今回多分6回目の視聴。
何度見てもすごい面白い。
綾波推しからすると厳密には綾波ではないがいろんな言葉を覚えていくシーンや表情が少し豊かになっていくのはめちゃくちゃ良かった。
シンジとゲンドウの戦闘のシーンの対を表しているシーンがめっちゃ好き。
終わり方もすごい良かった。
やっと終わった
中盤までは第三村での昔懐かしい日本の原風景での束の間の生活、メカまみれの仮想都市を描いてきた反動なのかジブリ風に作風が一変。
女性陣が活躍することやB級映画のお約束のようなエロいシーンは相変わらず、この辺は庵野監督の昭和親父ぽさなのか。レイやアスカを振り回して結局はマリとくっつくというのはとんだプレイボーイ、最後になってやっと万年少年から色男風に脱皮しましたね。とはいうものの映画の大半はうじうじしたり拗ねたりで気が滅入ります、狂った親父との骨肉の争いというのも戦国時代じゃあるまいしテーマとしては頂けません。
最終章になってようやくゲンドウの企みが明るみに、人類が単一化すれば諍いも揉め事も無くなるから理想郷というのはどういう思考回路がもたらしたのか短絡的過ぎてどっ白け。
そもそもこの物語SFなのか宗教哲学なのか意味不明、聖書にまつわる逸話まで絡めて神だの人類救済などと如何わしい新興宗教のような権威づけで偽装しているが基本、淋しがり屋の一人好きという矛盾に悩む病んだ男の妄想劇に思えてしまい残念。
まあ、良くも悪くも庵野ワールド、作家性が全てなので好きずきでしょう。本作を観る為に序から一気に見直しましたが感想としては、やっと終わったということくらい・・。
気持ち悪いアニメ ネタバレになります
『ガキに必要なのは恋人じゃない。母親よ』アスカの言葉。
ゲンドウくんのねらいは、すぐに分かった。碇ゲンドウを悪役と決めてから、話の最後まで分かってしまった。(2回も見れば分かるが)
誰もいないのが、辛くなんかないよ。孤独なんて、なれれば普通だし、寧ろ、自由が増えてわずらわしさがなくなる。
兎に角、最後の説明がくどくて長すぎる。最後、30分はいらないね。火曜サ○ペンス並み。
所詮、二代に渡るマザコンでバカ男の破滅の話でしかない。
最後の歌があまり良くない。一時流行った歌手としり、なるほどと思ったが、生臭い場面で『美しいクラシック音楽』使って、ラストに経費かけることはないだろうと思った。まぁ、タイアップなのだろうと思うが。あまり、耳に残らない聞き覚えのある音楽と思った。
庵野秀明先生!こりすぎている!しかし、CG使いすぎて、キャラクターの動きと線が雑で、CG感が消えていない。それなら、いっそフルCGすればと感じた。
劇場で封切られていないが、ディストピアな話なら、少女終末旅行だなぁ。派手なアクションはないが、深刻さの度合いが全く違う。少女終末旅行は芸術的とも、文学的とも言える。やっぱり、芸術作品は、粗野で自己中で傍若無人なくせにモラトリアムなマザコン男よりも、賢明な女性の創造した作品が一番だ。
と言いつつ、そんな男今いないのかなぁ。僕も含めて、僕の時代は沢山いた。
主観です
最後はテレビ版と同じだけど、大して意味を持たせてなかったテレビ版のストーリー背景やら書き割りが人気出すぎたせいで監督の中では終わった作品をここまで作らされたからか、テレビ版の主旨が薄くなって変わりに視聴者や製作関係者に対する恨みつらみを新劇版4作目にしたって感じかな。
特に最後の方の実写背景や稽古場というか撮影スタジオの背景は、テレビ版回帰とテレビ版の終わり方に納得出来なかった人達に対する当てつけかと思いました。
CGは相変わらず綺麗なのですが、シンジとゲンドウが戦うところからしばらくは、それまでのCGと比べて安っぽいというかクオリティが下がります。
まぁ、一番の感想は、アニメなんだからテレビ版も新劇場版も深く考えずに見たままを楽しめばいいと思うよ。
言いたいことはわかった!
うん、言いたいことは分かった!
Qからシンにかけて詰め込んだありとあらゆるメタファー、あなたの主張は良くわかったし尤もだ!
でもさあ……言うのがおせえよ!おせえよ!
これだけの労力と時間を消費して、ファンを待たせて、言いたいことはたったそれだけ?
空から女の子が降ってきました!色々あってその女の子が自分を受け入れてくれたので色々吹っ切って僕達幸せになります!だからお前らも現実を前に進めよ!って…あのさあ…
アニメ好き、所謂オタクという人達、中でもエヴァをTVシリーズから追っている様な歳経たオタクの中には、それを分かっていてもできない人、諦めてる人、目を逸らすためにコンテンツに没頭する人などなどが沢山いると思う。
エヴァをはじめとするオタクに根強く支持されている作品は、そういう現実が上手くいかない人達の受け皿でもあった。
それを作ってきた人が、最後の最後で発したメッセージが「お前らいい加減エヴァは卒業して現実見ろよ」ってのは、余りにも不誠実だと思う。
いや、それは正論にしてもだ、だったらもっと早くに引導を渡してやれよ!TVシリーズから数えて四半世紀だぞ!仮に当時14歳だった奴が今や40手前だぞ?ハシゴ外すにしても遅すぎるだろ、と。
ついにエヴァが完結してしまった
「庵野監督がちゃんとエヴァを完結させた」
それだけで大満足でした。
今回もよく分からない終わり方をして、賛否両論になるんだろうなと思っていたので…笑
綾波派なので、序盤で幸せそうな黒波が見れて嬉しかったです…癒やされた。
そして、今回はゲンドウにフォーカスを当てたところが本当に良かった。最後の結末も含めて、これで本当にエヴァは終わったんだなと思えました。
見終わった後、しばらく余韻に浸ってしまいました。ちゃんと完結させてくれてありがとう。
ひたすら、もやもやする
半年間自分を悩ませ続けるこの映画。
碇シンジは旧劇場版に比べて精神的に退化してると思う。
一度は他者との境界を無くし、人類皆で一つになって楽になろうとした旧劇場版の碇シンジは、最終的にそれらを拒絶し他者の居る世界を選びます。あまりに困難な状況の中でこの様な立派な決断をしたシンジくんを自分は凄いと思ってました。
なので、会って僅かでよくも知らない相手と最後一緒に歩むと言う演出には違和感ばかりを抱きました。
それって結局ネオンジェネシスして、都合の悪い世界とおさらばしたってことじゃね?と…
しかしシンエヴァ公開直後、旧劇=バッドエンド、シンエヴァ=トゥルーエンドなどという意見が多くの場所で見受けられ非常に残念でなりませんでした。
映像も:Qの使い回しで10分近くあり、4年間何をしていたんだ?と。NHKの特集での監督の「思い入れはない」発言は本当だったのだなと実感しました。
舞台挨拶を見るために計4回劇場に足を運びましたが、4回目になる頃には全編通して眠くなってましたので印象に一つ加えさせていただきます。
他の印象は下の欄にはありません。
全視聴者に納得する落とし込みを作ろうとしたのだろう。
良い意味でも悪い意味でも無難に感じたラストであった、という印象。作品自体は素晴らしかったので、見る本人の好き嫌いに依拠するだろう。
ある意味エヴァンゲリオンという作品自体がチートであるのでそこまで高評価はしない。一連のストーリーを小出しにしているため、途中でやろうと思えば視聴者の評判を途中で伺えてしまうからだ。ある種視聴者に妥協している点もあるのかな…とシンエヴァを見て感じた。
ある意味で無難であったが、どの層でも理解に苦しむことはないので良かったとは思う。お子様向けのストーリーまでになっていないので、塩梅は良好。
音楽•作画は流石で、何も言うことはありません。映画館で見る大迫力はすごかったし、何よりリピーターに気づいてもらえるような小ネタ要素が入っていてそれを見るのが楽しみだった。(当方は5回劇場で視聴して、2回アマプラで見ました。)
個人的にポイントの高い点としては、大人シンジの声優変更・謎多きマリの伏線回数、その2点である。
総じて私はこのストーリーのラストはそこまで好きではなく、むしろアニメ版や「まごころを君に」の方が腑に落ちた。ちなみに私はバッドエンド•メリーバッドエンド•気持ち悪い終わり方が好きなので、ある種のハッピーエンドが好きな人は良いのかもしれない。
そもそもエヴァンゲリオンは気持ち悪い終わり方をするのが普通だったので、爽快な終わり方をされて驚いたというのが正解かもしれない。
人類補完計画の答え合わせ
【総評】
旧劇場版を観たときに、人類補完計画は大体こういうことなのかなという程度の理解はあった。ただ、非常にシンプルな話になるので、これでいいのかなというモヤモヤがあった。
だから、今作は人類補完計画について旧作以上に何かが明かされることを期待していた。
結論から言えば、残念ながら今作で新しい説明はなかったように思う。だが、人類補完計画について、非常に丁寧に分かりやすく説明していたので、20年越しに答え合わせを見ているような感じだった。新しい発見はなかったが、ほぼ自分の理解通りと確認できたことは満足だった。
結局、旧作で人類補完計画について必要な情報は全部出揃っていたのだ。ただそれらが断片的に散らばっているのでやや理解し辛かっただけだったのだろう。自分の中では整理がついたが、同じことをもう一度丁寧に描いたとなると、この映画をなぜ作った?という疑問もある。
この映画で何かすごく爽快なシーンや素晴らしいシーンに出会ったとは思わない。人類補完計画についても答え合わせ以上のことはなかった。それなのに不思議で仕方ないが、なぜか映画終了後はすごくスッキリした気持ちになるので、全体としてはいい映画だったと評価したい。
【農村】
好評価に反して、途中退出を考えたレベルでこのパートだけは受け付けなかった。
綾波がQの時と別人になり過ぎていた。Qではシンジがいくらアプローチしてもまったく興味を示さなかった人間が、なぜ今作は様々なことに驚き感心を持つようになったのか全く分からない。単にご都合主義のために性格を書き換えたかのようで気持ち悪かった。村で行われるやり取りも心温まるエピソードのようで実際は稚拙な感じが強く好きになれなかった。
【映画後半部について】
旧劇場版での訳のわからない演出を引き継いだような意味不明の演出は今回もあった。旧作の時は、気持ちの悪い新興宗教セミナーを見させられているように感じて嫌悪感が強かった。だが、今回は、同じような演出が出てきたときに、やっぱエヴァンゲリオンはこうでないとねとワクワクして楽しんでいた自分に笑った。
いろいろ実験するのは構わないが、ストーリーやキャラクター設定がかなり陳腐化した。
実にテレ東版以来の鑑賞だった。
制服やスーツ、エヴァのデザイン等が現代風になり、
描写が写実風になり、CGでの戦闘もあり、単純なアニメーションではない実験が数多くなされていたけれど、私はエヴァにそんなことは求めていなかった。
ストーリーや、キャラクター設定がかなり陳腐化し、わかりやすさが優先された。
訳わからん理屈を並べ計画的で傷つかない大人 v.s. 知らされずに巻き込まれ傷つく子供の反抗
という図式と思っていたのに、子供は逞しくなるし、大人は理屈を述べずに子供に媚びる。
テーマが陳腐化し、結局わかりやすいエンディングで何も残らなかった。
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