「バッドエンドは嫌だったしハッピーエンドは安っぽかっただろうし最善解としての「オープンエンド」」シン・エヴァンゲリオン劇場版 chochoさんの映画レビュー(感想・評価)
バッドエンドは嫌だったしハッピーエンドは安っぽかっただろうし最善解としての「オープンエンド」
1995年から2021年へ。
「みんな消えちゃえ!」から、「うん、行こう。」まで。
オープンエンドクエスチョンは、あなたならどう考える? という問いの形式を指す言葉だ。
これに対して、イエスかノーかの質問はクローズエンドクエスションという。
「めでたしめでたしハッピー!」と言われるよりも、
「げちょグロスプラッタああ可哀想でしたねはい終わり」と言われるよりも、
「彼らはアニメさえ抜け出て、ここから走り出した。さあ、あなたはどう思う?」と言われた方が、
26年の付き合いの作品の締めくくりとしては、相応しかった。
最高の終わり方だったと思っている。
1995年は、廃墟と、精神世界と、メカニックと、近未来と、散りばめられた憧れをくすぐる贅沢品と、カッコイイセリフが、「エヴァンゲリオン」だった。
普通のアニメなら事件や事故やミッションや冒険がテーマであり、
財宝を手に入れるためにどうするか、というのが会話の中心になる。
だがしかし、エヴァは違う。
人格未形成、情緒不安定な人物に、精神的な葛藤を、
ここまで登場人物に喋らせたアニメ作品が、あっただろうか。
そのどうしようもない鬱々とした承認欲求は、
人類を救うという一大ミッションよりも前面に押し出され、ぐいぐいと迫ってくる。
ミッション以前の前提問題として生存権がぐらついているのだ。
「僕を見て!僕を殺さないで!」
「あたしを見て!あたしを殺さないで!」
しみじみ、シンジもアスカもレイも、みんなかわいそうである。
奴隷制度や残虐な牢獄脱出の物語ではないのに、
生存と存在の承認欲求を叫ばなければやってられない状況に陥っている登場人物が、
かつて、いただろうか。
だが、それが見事に刺さった。現代社会の暗い影を、浮き彫りにするかのように。
SNS全盛期のずっと前に、承認欲求を、斬新なデザインと、盛り上がる音楽で吐露するのが、
格好良かった。新しかった。
人間はどす黒いことを思うものなのだ。
孤独や息苦しさを形にしてもいいんだ。
高度な専門家たちの頭脳ゲーム。
物憂げで悟りつつも、生に苦悶する子供たち。
いつ使徒に襲われて崩壊するか分からないのに、惰性で続けられる学校ごっこ、家族ごっこ、仮初めの日常生活。
斜に構えた物憂げなフランス映画に、原色で彩られた現代アートを混ぜたような作品。
一つの画期的な作品が突破したボーダーラインの先には、後続が続いていく。
セカイ系、病んだ精神の吐露系の、その元祖のようなエヴァンゲリオン。
その本家が、終劇を迎える。
スターウォーズやガンダムは歴史書が書けるほど分厚いが、同様に、
エヴァンゲリオンはオマージュとメタファーと緻密な設計図のミルフィーユが分厚い。
分厚い作品は、類似品のような薄っぺらさにはならない。
薄っぺらくない根拠は、私のような視聴者が、その分厚い橋の上に立って、そこからの眺めをこうして語りたくなっているから。
良い作品とは、それが橋や船や氷山にまで膨れ上がり、無数の人々をその上に乗せ、そこからの眺めを人々に語らせてしまうものだと、定義できると思っている。
その終劇。
その終劇は、昭和ノスタルジー村で、古い家具に囲まれて、田植えをして、粗食をして、風呂に入り、赤ん坊を可愛がり、お母さんが息子に謝るのである。
・・・どう解釈したらいいのだろう?
正直、二通りの感想を持った。
一つ目は、作者の加齢による穏健化。老後ノスタルジー。
だが、それは、あまりにも、創作者の創造性と知性を軽んじる行為だろう。
創作者の趣味に還元できる程度のものは、アマチュアの趣味作品だ。
だからこそ、アマチュアの趣味作品は、薄っぺらい。
もし、薄っぺらいのなら、その上にこれだけの大勢の人間の感想を載せることは出来ないはずだ。
このサイトだけで、もう900人以上が書いている。
それに、ノスタルジーは別に悪いことではない。
作者が作者自身を回復させるために、真実だと思ったことを描き切る。
その真正が、他の人間を触発する。それも作品のメカニズムとして真っ当だと思う。
だが、そう思う反面、それを、エヴァンゲリオンで、認めたくない気持ちも強くある。
自分でも、なぜ、認めたくないのかが分からない。
なぜだろう。戸惑う。
だって、エヴァが田舎のほのぼの生活を肯定しているのだ。
どうしよう。どうしたらいいだろう。
「田舎のほのぼのスローライフこそ人間の本当の生活だよね」ということか?
いやいや、いやいや、そんな。
その日常生活のなかで沈殿してしまう負の感情を解放してくれるのがアニメじゃなかったのか。
その習慣の惰性のなかで圧迫されてしまう個人の心の機微を掬い取ってくれるのがエヴァじゃなかったのか。
ニアセカンドインパクトからの復興。
回復と前進。生命の前向きな肯定。
魂の回復。
地に足を付けた生活。
他人との会話。
その重要性は分かる。
だけど、とんがっているのがエヴァだったのに。
オシャレクール、退廃的な悪い大人と成長痛に苦しむ子供がエヴァだったのに。
いや、だがしかし、とんがり続けて、大人になれず、十五の夜を繰り返し続けているから碇シンジは不毛だったんじゃないか。
「みんな酷いよ」
「もうほっといてよ!」
いや、さすがにそろそろ、ちゃんと生きようよ。
いじけているだけの背中を26年見せられて、こっちはいったいどうしたらいいんだ。
そう思っていたのも事実である。
昔のとんがったエヴァらしさを、最後まで全員が、十字架のように負わされてしまったら良かったというのか?
いや、そうではないはずだ。
そもそも、論点の立て方がおかしいのかもしれない。
「田舎暮らし」にフォーカスを当てるから、もやもやするのだ。
そもそも、第3村は、「田舎暮らし称賛風人生の楽園」ではないはずだ。
誰も選択したわけではない。
災害に追いやられて、あそこに流れ着いたのだ。
あれは、復興途上の避難した人々の希望の灯を絶やさない生活であって。
そのかけがえのない慎ましい生活すらも奪おうとしている対人恐怖症患者が碇ゲンドウなのであって。
誰もあの自給自足生活を選択したわけではないのだ。文明の利器と、人類の叡智の蓄積と、他の共同体との物品交換を、信念で拒否しているわけではない。
いや、村のみんなや、村の暮らしに意識を引き摺られ過ぎているのかもしれない。
それほど、エヴァンゲリオンの中での村暮らしは衝撃的だったのだ。
ほのぼのムービーをエヴァンゲリオンで見るなんて。
だが、あくまでも、登場人物一人一人の精神世界にフォーカスするのが、エヴァンゲリオンの醍醐味のはずだ。
だから、登場人物一人一人を見ていく方が、このもやもやとする感想の核心に近づけるのではないか。
綾波レイ。
一世を風靡した薄幸の美少女。
彼女が、生活を教わった。
それは本当に良かったと思う。
おはよう、おやすみ、ありがとう、さよなら。
他人の幸いを願うおまじない。
おはよう、今日も一緒に生きていくためのおまじない。
おやすみ、安心して眠れるおまじない。
さよなら、また会うためのおまじない。
教えて貰えて良かったね。心からそう思える。
式波・アスカ・ラングレー。
勝気な態度で心を守りながら、懸命に生きる美少女。
現実から逃げないその態度は、クローンのため非現実的で、浮世離れした人形のような綾波レイとは別種の美しさがある。
アスカはいつも頑張っていて、偉かった。
彼女は最後の最後まで、とんがった側に置かれていた。
アスカは、いつも、苦労のし通しである。
むしろ、作者の信頼なのだろうか。アスカなら、どれほどボロボロになっても、折れずに居てくれる。
最終作では食べ物も食べられず、眠ることも出来ず、
クローン人間として、人間の頃には持っていた羞恥心や葛藤や個性を失って生きている。
口に押し込む形ではあったけれど、シンジに食事を食べさせたことは称賛に値する。
前作であれだけ止めたのに無視をして暴走したシンジを見捨てていない。
他人の世話を焼いているのだ。他人を気にかけているのだ。
このエヴァンゲリオンの世界で、他人を配慮する余裕のある人間が、一体、何人いただろうか。
みんな自分でいっぱいいっぱいの、追いつめられた人たちだった。
アスカは、あれほど苦しめられた自分のエゴやプライドを守る必要もなくなって、
妙に清々して見える。
そして、大人になった相田ケンスケという理解者を得られたこと。
心の対話相手である、赤い手作りの人形を、ケンスケが着ていたこと。
苦しみ続けて「気持ち悪い」と言いながらも、いつも最後まで戦っていたアスカに、帰る場所が出来たこと。
それは本当に良かった。
シンジがアスカを真っ先に救い出して、マリに祝福されて、ケンスケのもとへ送り還される。
真希波・マリ・イラストリアス。
テレビからの愛着のある登場人物と比べれば、
ぽっと出で、余所者で、傍観者で、第三者の真希波マリ。
だからこそ、ストーリーテラーとして、進行役としての役割を、外部者として担うことが出来る。
シンジは最後、マリと手を取り合って、マリを先導する形で、自分の意志で、あのシンジが積極的に、走り出すのである。
現代社会の、それも地方都市の、なにげない小さな駅から、二人は生き生きと颯爽と前に向かって走り出す。
彼らはこれから、名もない二人の市民として、生きていくのだろう。
華やかなパリや東京ではなく。勝ち組や出世や富裕層や社会的地位や難解な職務などではなく。
彼らが幸福な人生を暮らすのに必要なものは、外部要因ではない。
自分を幸福にするのは、自分が未来へと前進してもいいのだという、自己肯定感のある自分の認識だ。
所詮、世界とは自己の認識の総体なのだから。
それをかれらは26年掛けて学び尽くした。死線を搔い潜りながら、いやというほどに。
それは、奇しくも。
人類補完計画と同じゴールでさえあると私は思う。
ゲンドウは言った。
「他人との差異が無く、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない。浄化された魂だけの世界。」
それは、自分と大切な人を愛する人生でも、実現できるのである。
貧富や差別や争いや苦痛や悲しみとは、話し合い、毅然として、戦う。
やめてほしい、それはちがうと、言い続ける。
そして、時には、逃げてもいい。
傷つき、血を流しうろたえる子供としてだけではなく。
大人として、向かい合う。
それこそが、ゲンドウが出来なかった、すぐそばの自己補完計画と言えるだろう。
マリの話に戻ろう。
マリは、イスカリオテのマリアと呼ばれる。
イスカリオテのユダは、十二使徒の「裏切り者」の代名詞だが、恐怖に負ける弱くて完璧ではない人間、愛しすぎた果てに憎しみに転化してしまう人間の象徴として、奥が深い存在だ。
マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人。罪深い女。改悛した女。さまざまな解釈が錯綜する存在だ。最後まで、イエスであるシンジ(神児)に付き添う。母でも恋人でもない女。
葛城ミサト。
誰もが大人になったけれど、
彼女は本物の、碇シンジを信じる、碇シンジの保護者になっていた。
彼女に潜む、不安定な影は、すっかり消えていた。
赤木リツコ。
中二還りしたゲンドウ氏に幸せの形が見えていないなどと物凄く余計なお世話なことを言われていたが。
はっきりと言える。
「ゲンドウ君、私が持っていてあなたにはない、信頼された仲間と人生の楽しみと人間としての生活を総称して、幸せと呼ぶのよ。」とでも、言ってやって欲しかったです。
「私があなたと知り合えたことを
私があなたを愛していたことを
死ぬまで死ぬまで
誇りにしたいから」
挿入歌「VOYAGER〜日付のない墓標(林原めぐみ/原作:松任谷由実)」の文句通りに。
文句のつけようのない大団円だったと思います。
すべてのエヴァンゲリオンに夢中になった皆さん、お疲れさまでした。