「虎に投影された少年の心とは」ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日 REXさんの映画レビュー(感想・評価)
虎に投影された少年の心とは
虎と漂流することになった少年のサバイバルを描いた感動の冒険譚、というイメージを根底から覆す後半の展開が物凄い。
生き延びたパイが作家に語る漂流記という形式。
第一の物語はパイの少年期の生活、船に乗る経緯と難破、そして虎とパイがいかにして共に漂流したか。そして、その話を信じなかった日本人保険員に語る第二の物語は「人間たちとの漂流記」。
この話では、漂流したメンバーは、パイ、パイの母親、貨物船でベジタリアンの母親に執拗に肉を出し続けた陰険なコックと、足を負傷した日本人船員の四名。
どちらの話を信じるかは聴き手に委ねられている。しかしこの第二の漂流記が真実であるとする方が、この話は何重にも深い重みを増してくるのである。
興味深いのは、自己犠牲をする船員は仏教徒、ベジタリアンの母は戒律者、本能のまま振舞うコックは無宗教者という点。
前日に肉入りの食事を拒否していたパイ一家は、空腹に空腹をかさねていただろう。 私は、いただける命に差をつける主義に疑問を感じてしまう。とにかく皮肉にも、宗教が命を脅かす枷となったことはたしかだ。
虎の行動をパイに置き換えると、彼もまた人食の禁忌を犯し、ネズミを食べ、魚を食べ、戒律を無視し、母親を殺した憎きコックと同じように外道に堕ちてしまったことになる。
彼の罪悪感や狂暴性が虎の姿を借りて語られていたとすると、最初は生き残ることに必死で(凶暴で勢いのある虎)、そのうち自分の罪や宗教について逡巡し(筏にのったパイは良心/ボートにのった虎は罪悪感)、死を意識し(クリシュナの姿とも言われる謎の島の出現)、辛い現実と罪をおかした自分を受け入れる(衰弱した虎に寄り添うパイ)…と、心の変遷を辿ることができる。
キリスト教、ヒンズー教、イスラム教の3宗派を学問していたパイにとって、果たして生きることに宗教は役に立ったのか?というのがこの映画のテーマなのかもしれない。 私見だが、結局、宗教は枷にもなり生きる依り代になったとも言える。
パイのように深い哲学的思考をすることができなければ、延々に続く時間というのは苦痛でしかない。自分の状況を神が与えた試練と捉えれば、一つ一つ乗り越えるたびに喜びが生まれ、また目的意識も生まれる。雷や鯨は神々しいまでに生き生きと感じられ、恐怖心は遠ざけられる。
虎が雷に怯えたのにパイが怯えなかったのは、彼が恐れや執着を克服する境地に近づいていたことを示していたのかもしれない。
わざわざ非常食を筏に移したことなど、いくつかの謎は残る。
島についても「無人島」説と「心のビジョン」説の二通り考え、結局前者なのかなと。
無人島に到着して食料を調達することができ安堵したパイは、うっかりずっとここにいてもいいかな…と思ってしまった。しかし、同じような漂流者の亡骸を見つけて、もう一度危険な大海原へ出て元の世界へ帰ることを選んだのかなと。
宗教的知見が足りないので、なぜ見つけたのが歯だったのか、酸の海やミーアキャットは何を比喩していたのかなどに頭が回らないが…。
酸の海は子宮の暗喩、という考察を見かけたこともある。
それを飛躍すると、たくさんのミーアキャットは精子で、そのときのパイは恋人のことを思いだしながらマスターベーションをしてしまった…何てことも考えてしまった。危機的状況のなか、そんな煩悩でさえ追い払えない自分の穢れから脱却すべく、島から脱出したのかも、と。 まあこれは飛躍しすぎたと思いますが。
パイと虎との別れですが、パイが罪悪感と決別したとも受け取れるし、家族を失った現実を正面から受け止めることができるようになった、とも受け止れる。
とにもかくにも、パイの話を証明する人間がいないので、どちらが真実かは受け手が決着をつけるしかない。
話を聞きに来た作家も、当時の保険員も、パイの最初の話を信じた(ふりをした)。
嘘はつき続けていれば本物になる。
どちらの話が、皆にとって幸せなのか…真実はパイのみぞ知る。