「「桐島組」の流血の意味」桐島、部活やめるってよ Yuyujetkeyさんの映画レビュー(感想・評価)
「桐島組」の流血の意味
映画「桐島、部活やめるってよ」を遅まきながら観た。「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を撮った吉田大八監督の演出はやはりおもしろかった。ガス・ヴァン・サントの「エレファント」のように一つの出来事を複数の視点から見せる群像劇で、それぞれの人物の光と影が描かれているのも魅力的だ。まだ原作は読んでいないが、映画作品の描くテーマと映像表現について感じたことを覚え書きしておく。ネタバレ。
<桐島不在の意味>
映画のオープニングは、11月下旬、担任が空白の進路希望書を配る高校2年の教室。生徒たちが卒業後の生き方、自己のアイデンティティについて真剣に考え始める時期だ。このタイミングで起きた「事件」、バレー部キャプテン桐島の突然の不在によって、生徒たちは自己のアイデンティティの一部を削がれる危機に直面してしまう。
桐島が精神的支柱だったバレー部の部員たち、桐島の部活が終わるのを待つことを日課としていた帰宅部たち、桐島の連絡を待つことしかできないガールフレンドの梨紗はそれぞれ、「桐島がいるバレー部」、「桐島を待つ帰宅部」、「桐島の彼女」というアイデンティティに甘んじ、不完全な自分たちの1日を桐島というピースで穴埋めすることで、充実した高校生活を自己演出してきた。
自己を完成させるためのピースを失った彼らの動揺、悲壮感が顕著に映し出されているのが、桐島の代役を課せられたリベロの風助が体育館の練習で激しいサーブの連打を受けるシーンだ。コートに差す強い光は風助の表情に影を落とし空気は重苦しい。マシンガンの弾のように打ち込まれるサーブは、桐島の代役という周囲そしてそれ以上に風助自身が自分に対して課している強いプレッシャーのように厳しく降り注ぐ。
強豪バレー部のベンチに甘んじていた風助は、左右に打ち込まれるサーブに翻弄されるがごとく、代役の重圧を前に自分の立ち位置すら決められずに右往左往し、ついには「何とかしようとしてこの程度なんだよ。この程度なんだよ、俺は!」と根をあげる。その叫びには、桐島という他者を自己のアイデンティティの一部として倒錯するほどに桐島に依存してきた「桐島組」の、自分の身一つでは世間の期待に応えられるか分からないという自己喪失、自信喪失の苦しみと弱さが代弁されている。
<「かっこ悪い」前田が与えた衝撃>
桐島の不在でつぶれそうな生徒たちとは対照的に、その影響を受けず逆に周囲からの期待に反抗し「かっこ悪い」自分を等身大で見据えているのが主人公の前田だ。彼はゾンビ映画の制作を顧問に反対されるが、映画祭に通らなくても自分の撮りたいものを撮ることが大事だと、窮屈な部室で漫画を読んでいた映画部員たちを鼓舞する。
屋上のラストシーンでは、帰宅部の菊地に将来はアカデミー賞かと冗談半分で問われるが、それはないと真面目にきっぱりと答える。前田の言動が示すのは、周囲からの期待や結果はどうあれ、自分に過度のプレッシャーをかけずに、今できることに打ち込むという彼の等身大の姿勢だ。
プロへの希望を失わずにドラフトが終わるまで野球を続ける野球部主将の姿勢とも平行する前田のこの安定感は、「結局できるやつは何でもできるし、できないやつには何もできないっていうだけの話だ」と、ひたむきな努力を切り捨てる発言をした菊地に衝撃を与える。それは菊地こそが誰よりも周囲そして自分自身の自己に対する期待の大きさに怯えるあまり自己を確立できず、プロになる自信のない野球を続けることに不安を感じているからだ。
菊地の迷いは、自分がいい選手であるにも関わらずやりたいはずの部活への参加をぎこちなく断り続け、主将になぜ野球を続けるのか尋ねる消極的な挙動に現れている。そんな菊地は前田に8ミリカメラを向けられると、具合悪そうに後ろを向いてしまう。前田が回すフィルムに映る菊地の後ろ姿は、自分の気持ちとまっすぐ向き合うことから逃げてきた彼の弱い心の姿そのものである。それは、向けられたカメラにまっすぐ向き合っていた前田の姿とは対照的だ。
<流血の意味>
校内の別々の世界で生きていた、桐島の不在に戸惑う「桐島組」と、ゾンビのメイクや女装をしたかっこ悪い映画部が初めて面と向かって対面するのが「近未来的な」屋上でのクライマックスだ。
校舎内の教室や体育館などでは常に教師や同級生たちの目、期待が影を落としていたが、光があふれる屋上で生徒たちの緊張は一時的にほどける。広い街と空、すなわち卒業後の彼らの未来がある世界を背景に、彼らはここで初めて桐島を抜きにした等身大の自分と本音で向き合い始める。
桐島不在に焦燥感を爆発させたバレー部の久保は映画部の小道具を思い切り蹴り飛ばす。久保に謝罪を求める映画部員たちの「謝れ!」という叫びには、日頃「桐島組」に劣等感を味あわされてきたことに対する復讐の念がにじむ。沙奈の他者に干渉する言動に日頃嫌悪を感じてきたかすみは、衝動的に彼女にびんたをくらわす。
吹っ切れた前田は、運動部の生徒たちや想いをよせる彼氏もちのかすみがゾンビに食われておびただしく流血する映画のシーンを妄想をする。この妄想には、日本の鑑賞者を含む「桐島組」に向けて監督吉田大八が自身を前田のキャラクターに重ねることで発したメッセージが込められている。まず、血については、映画部員の武文が顧問に血のりを使うことを禁止をされたことを受けて、血は人間なら誰でも流れているじゃないかと、つぶやく言葉が鍵となっている。
イケてるバレー部も帰宅部も女子たちも、他者不在で身一つになれば、自分の肉体に流れる血、すなわち自分の本来の性質が放出され、傷と血、欠点を隠せない非完璧な自己のアイデンティティと向き合いそれをさらしながら、周囲と自分自身に課される期待の目に耐えて、「この世界で生きていかなくてはいけない」のだ。
ついに最後まで目の前に現れない桐島は、他の誰よりも重いプレッシャーに苦しんでいたかも知れない。学内のヒーロだった彼のアイデンティティこそ、誰よりも学内の同級生たち、他者の存在によって補完されているものだった。彼が彼自身のアイデンティティを保証していた学校という世界から不在であるという事実は、彼が「流血」し、学校の外の広い世界で等身大で生きていく歩みを始めていることを示唆している。
菊池の「できるヤツはなんでもできるし、できないヤツはなんにもできないって、それだけの話だろ」という科白がラストに繋がるシーンは、この映画を鑑賞して最も心に残りました。
菊池の科白は他者を見下しているわけではなく、一般論としてそうだろというように言っているように聞こえるんですよね。そしてその中では無意識にも自分はできるヤツ側だという認識が含まれている。
だからこそ、前田と対峙した時に自分に何もないと気づいてしまうあのシーンが一層深い味わいを持って胸に迫ります。
前田はできないヤツ、でもやりたいことに真摯に向き合い、また自分の身の丈をきちんと認識している(好きなことでプロにはなれないとわかってる)。俺はできる側だと思っていたのに…という。
桐島の不在によって浮かび上がる自身とは何かという問いに対する心の揺らぎが、見事に表現されていたシーンでした。