劇場公開日 2012年4月7日

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「男の嘘の罪深さ」別離(2011) CRAFT BOXさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0男の嘘の罪深さ

2014年11月5日
PCから投稿

難しい

この作品では2つの家庭を中心にストーリーが展開するが、一つは中流階級で離婚直前の夫婦と中学生の娘、もう一つは貧しい階層の家庭でイスラムの教えを守っていて、とくに妻は敬虔な信者で、幼児がいる。
その二つの家庭が裁判で争う中で、イラク社会の構造的縮図のような問題が浮かび上がってくる。

この作品の胆となるのは「嘘」だ。

イラクのような(そしてそれは、日本でもほんの数十年前まで同じだった)封建的な男尊女卑の社会において、男は嘘や誤摩化しを日常的に使い分けて社会で生きている。
映画の序盤、貧しくも若く敬虔なイスラム教徒であるラジエーは、暴力的で稼ぎのない夫に内緒で、ナデルという中流階級の家庭の家政婦として働こうとする。ナデルは、妻シミンが外国で暮らす事を望んだ結果、今は妻と別居し、認知症の父の面倒を見なくてはならないため、ラジエーを雇う事になった。ところが、ナデルはラジエーに父が認知症である事を隠していたため、ラジエーは1日で仕事を辞めようとする。結局、その後も働く事になるが、それが登場人物達をさらに悲劇へと導く事になる。
この序盤で描かれているのは2つの嘘だ。ラジエーは暴力的な夫に内緒で働きに出て、ナデルはラジエーに父が認知症である事を隠して仕事を依頼する。互いに「嘘」を抱えて物語が始まる。しかし、ラジエーの嘘と、ナダルの嘘は、本質的に全く異なっている。ラジエーは家族の生活と夫の暴力を避けるための身につまされる嘘であり、一方のナダルは自分の目の前の問題を安易に解決するために、明らかに女性に対して軽い気持ちで誤摩化した嘘である。

「嘘」には、良い嘘も悪い嘘もない。
しかし、立場や階級が違えば、その嘘の本質は絶対的に異なってくる。

物語の終盤、ラジエーの夫は妻の流産の真相を知り、確信が持てないままナダルに責任を押し付けるような証言を拒む妻ラジエーに対して「神に対しては俺の罪になるから、コーランに誓え(嘘の証言をしろ)」と妻に迫る。妻ラジエーは、神からの厄を畏れそれを拒否する。

同じく終盤、ナダルは、裁判で嘘の証言をしていた事を娘のテルメーに見破られ、真実を言う事を誓うが、結果的にテルメーに嘘の証言をさせてしまう。その後、テルメーには、ナダルがこれまでにしてきた小さな嘘やほころびが、徐々に見えて来るようになってしまう。

男たちは、見栄や金を優先し、神や家族の気持ちを蔑ろにする。ラストシーン、様々な人が行き交う裁判所で、ナダルが孤独であることが延々と映される。父の病いを憂うナダルは、悪人ではない。本人は強い悪意で嘘や誤魔化しを繰り返したわけではないだろう。しかし、彼は妻や子供を失った。その不条理さが見終わった後に余韻として残る。

中流階級の家族にとっては子どもが、下層階級の家族にとっては宗教が、男たちの嘘の罪深さを浮き彫りのしている。嘘と信頼、男尊女卑、介護問題、夫婦の関係など、普遍的な社会問題を、2組の夫婦を描く事で対比させ、分かりやすく描いているのは素晴らしい。このレビューの冒頭で「2つの家庭を中心に物語が進む」と書いたが、あくまでも主人公は中流階級のナダルだ。カメラの視点(観客の眼差し)は、常にナダルとその家族から見た世界や心情描写である。そのためラジエーやその家族に起きているであろう状況について、観客自身の想像力で補うしかない。その突き放した描写がとても効果的。非常によくできた脚本。

ただ、全体的に重苦しく、最後まで息が詰まる。
この息苦しさは、ある意味でイランという社会の抱えて閉塞感を表しているのかもしれないが、とても疲れた。

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CRAFT BOX