「尾を引く重い映画」少年は残酷な弓を射る アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)
尾を引く重い映画
原作は 2003 年に英国で出版された小説 “We Need to Talk About Kevin” で、2011 年に公開された英国映画の原題も小説と同じであるが、この邦題を付けた奴は無神経にも程があると思う。最近の洋画はハリウッド製ばかりになってしまい、サービス満点のエンターテインメントに徹した作りに観客も慣れてしまったため、時系列を並べ替えて事件の進行を敢えて分かりにくくしたこの映画の進行は、非常に異質に感じられた。
世界を巡る冒険家として生きて来た女性が、妊娠出産を境に一家の主婦として生きて行こうとするのだが、生まれた長男は異常に母親を嫌い、3歳まで喋るのを拒否し、6歳までオムツを履き続けるという成長過程を見せる。母親の旅の記録などは憎悪の対象であり、悪戯を装って徹底的に破壊するところなど、その執拗さは見る者に異常としか見えず、何故なのだろうと疑問を持ち続けることを強いられる。
色へのこだわりの強さは映画の冒頭から感じられる。レースのカーテンの白、トマトの赤、嫌がらせのペンキの赤、車の黄色、本の背表紙のダークブラウンなど、それぞれ意味を感じさせる。主人公や子供たちの服装なども意味が込められているのだろう。それに対して夫の服装にはあまりメッセージ性が感じられなかった。この夫は何を職業にしていたのだろうか。かなりの高収入だったようだが。
時系列の変化は、主人公の髪の長さで示してあった。現在の暮らしの中で、何故彼女が住民からあのような最悪の対応を受けるのか、その原因は最後になってやっと明かされるのだが、国民性の違いというのだろうか、日本人なら遠くから冷たい目線を送る程度で済ませるような気がするのに、やはり肉食の民族は意志の発現に遠慮がないのだと思わせられた。
最も印象的なシーンは、妹の怪我の直後にケヴィンがライチーを食べるシーンである。あまりに生々しすぎる比喩であり、この少年の不気味さと底知れぬ悪意の大きさにゾッとさせられた。彼が家族に対して持っている価値観の実体が察せられるようでもあり、のちのシーンを予感させるものでもあったと思う。少年は自分のストレスを発散させることにしか思いが至っておらず、被害者やその周囲の人々の思いを全く考慮していない。幼稚の極みという他はない。
最後まで、彼の行動原理は不明のままのようにも思えるのだが、唯一、風邪をひいたときに、父親を遠ざけて母親に甘える姿は本当だったのではないかと思う。一時的なものだったということも描かれているが、これをヒントと考えれば、彼の行動の原因は、母親から注がれた愛情に不満を持っていたということなのだろうと思う。彼が誰を生き残らせたのかを考えれば、単なる復讐といったものでなかったのは明らかではあるまいか。素直に母親に可愛がられる妹も、自分のストレスを何も察しない父親も、彼には憎悪の対象でしかなかったに違いない。
家族の関係が泥沼化してしまうと解決には長い時間と尋常でない努力を要するというのは、多くの文学作品が示している通りである。残された家族はこの後どのような人生を歩むのかとか、彼が自分のしでかしたことに真剣に向き合った時に、彼は耐えられるのだろうかとか、たとえ彼が更正したとしても、被害者には何の意味もないのではないだろうかとか、止めどない思いがグルグルと頭を駆け巡った。原因の描き方が明確でないのは、観客に自分で考えろという態度なのだろう。とにかく尾を引く映画であった。アメリカではまずウケないだろうと思うが、イーストウッド監督作に通じる作風のような気もした。
(映像5+脚本4+役者5+音楽3+演出5)×4= 88 点