劇場公開日 2012年1月28日

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J・エドガー : 映画評論・批評

2012年1月17日更新

2012年1月28日より丸の内ピカデリーほかにてロードショー

アメリカ正義の伝説的な象徴を破壊する“最後の英雄譚”

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なんと豊穣かつ冷徹な映画であることか。半世紀にわたりFBIに君臨したジョン・エドガー・フーバーの生涯を通して映し出される、アメリカの政治、文化、風俗の裏面史。同時にそれは、強いコンプレックスを抱く男が、高潔を装い隠し続けた、彼自身の秘密にまつわる禁断のトピックである。「正義」を裏打ちしていたものの正体に愕然とし、この人物を描くことの意義深さに唸るしかない。

時制を激しく往き来する編集によって、欺瞞に満ちた20世紀が炙り出される。タフとナイーブ。複雑な男の20代から70代までの内面を、メイクの力に依存しすぎることなくディカプリオは見事に表現する。フーバーが信念をもって時代の敵と対峙したことに偽りはなかろう。まるで「許されざる者」において自らを善人と信じ込み、知性的でありながら恐怖政治を敷く保安官ジーン・ハックマンを、巨大化させたかのような人物だ。教養と清潔という鎧と仮面は、屈折した人格の隠れ蓑にすぎなかった。科学的な捜査の導入も全国民の個人情報の収集も、秘密を握ることで優位に立ち、他者を抑圧したいとする密やかな願望の顕われ。フーバーが唱える公安とは、自己愛と妄想癖が入り混じる歪な衝動の代償行為にも等しく、アメリカ正義の伝説的な象徴が、辱められ破壊されていく。

J・エドガー」は“最後の英雄譚”である。しかし、アンチヒーローや巨悪として描いてはいない。権力者の病理を、憐れみをもって見つめている節さえ感じられる。過去の捉え方で針路は修正できる。イーストウッドは、正義を殊更に標榜することの異常さを知らしめ、哀れな倒錯者を葬ることで、アメリカ再生への祈りに代えたのだ。

清水節

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