華麗なるギャツビーのレビュー・感想・評価
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過去は戻らない。
レッドフォード氏の旧作が懐かしい^^;
当時(それ以前から)華麗なる~っていうタイトルは多かったが、
まさにその華麗をまとった美青年をレッドフォードが体現した。
華麗なお顔立ちというのは、華麗な衣装も良く似合うのねぇ。
さて。話変わって、今回の主役は…あのディカプリオ。
最近では、某局女子アナがやらせた「大物俳優の顔マネ」が
脳裏にこびりついて離れない。だから美青年のイメージが遠い~
けれど、演技はさすがの年季モノで切なさが際立って出てくる。
主役は彼でも、牽引するのは隣人、T・マグワイア。
この人は本当に語りが巧い(爆)
日本でならNHKでナレーションを受け持ってもいいくらい巧い。
彼を語りに起用したのが大正解で、
派手派手な監督B・ラーマンが描く落ち着きのない1920年代が、
何とかそれなりに観られた感じがする。
せっかくのチャールストンにも全く時代性を感じられず、
豪華絢爛さはかなり発揮されていて良かったのだが(3D用?)
ドラマとしての雰囲気やノスタルジックな味わいがほとんどない。
ラップが流れた時にはどうしようかと思った^^;
ただ、物語は原作により近いのだそうだ。
というわけで派手派手世界の中、浮いた存在になるギャツビーが
前半の華麗さと打って変わり、後半は苦しみと孤独を深めていく…
タイトルとは裏腹にかなり切なく空虚な物語である。
原作者フィッツジェラルドの半自伝ともいわれており、当時の彼が
どれほどの贅を尽くし、その後の大恐慌と共に崩れ去っていったか、
彼の若き日の大成功とその後の悲劇が何故かギャツビーと重なる。
まぁ人生…いい時も悪い時もあるとはいえ、
あまりに高い社交界の花を愛してしまった故の悲劇に他ならない。
アメリカンドリームを体現してしまった男には、
退くどころか諦めることもできない、ただただ哀れな姿が残る。
女の私からすると、やはりこれは再燃できない愛だろうな…。
そもそもデイジー(C・マリガン)という女は、上流階級の娘だ。
縁あって若い頃、ギャツビーにのめり込んだが、結局は金持ちの
トムと結婚する。ギャツビーが成り上がるのを待てなかった訳だ。
価値観の違いほど夫婦間の妨げになるものはない。
生きてきた土壌が違う二人は愛に対するベクトルもかなり違う。
後半で、デイジーがとる行動のひとつひとつがギャツビーの哀れを
際立たせるのは、愛人にのめり込んで浮気放題のバカ夫トムが持つ
莫大な財産や地位、世間体、それらが愛なんてものより必要なの♪と
涙を流すデイジーの顔にしっかりと書いてあるからである。
過去は過去。もう取り戻せない。というのは私も本当にあると思う。
結婚しなかった二人には、結婚しなかったなりの理由があるのだ。
それでも一途にデイジーを求め続けるギャツビーの真摯な求愛劇に
(たいへん失礼ながら)
こうして粘着ストーカーが生成されるのかしら?と考えてしまった。
彼らを冷静に見つめるニック(マグワイア)を通して、
バカげた狂騒劇を観せられてきた観客も、後半では彼と同じように
ギャツビーの波乱人生に対する想いがジリジリと胸に迫ってくる。
派手派手から一気に奈落の底へ転落する様は、
考えてみればラーマンだからこそ描き出せた光景なのかもしれない。
決して面白い話ではないが、
ひとりの恋する青年が一途に求めた初恋の相手との結婚。っていう
時と場を変えれば、いつでも成り立ちそうなドラマティックな恋愛。
そこに世相を絡めて一気に書き上げたというフィッツジェラルドの
才能と、お祭り騒ぎのあとはどうなるか、を描き切ったラーマンとの
コラボレーションが142分を飽きさせずに魅せてくれた。華麗で空虚。
(トムもデイジーも責任放棄するとは。人間としてどうよ~と思うけど)
哀しい
なんでも求めすぎると・・・・といいますが
彼の求めていたものは
これまでのふたりの分かれていた間の時間をなかったことにしたいというものでした。
デイジーにはブキャナンとの離婚を求めます。
でも、彼女にはそれは・・・できませんでした。
デイジーの気持ちはわからないでもありません。
ブキャナンのことも決して愛していないわけではなく、
むしろギャッツビーとのことのほうが過去のことだったのでしょうね。
最後も哀しすぎる終わり方。
でも、きっとうれしいと思った瞬間に死ねたのかなとおもうと
それは幸せなことかもしれないなと思いました。
「アメリカ」を象徴する映画(゚Д゚)
アメリカ人なら誰もが知ってる有名な小説『ザ・グレート・ギャツビー』
1974年にロバート・レッドフォード、ミア・ファロー主演で映画化されたのを昔テレビで観たことあるけど、正直面白いとは思わなかった(;^ω^)
これ以外にも何回か映画化されてるけど、どれもそれほど高く評価されてない。
今回は『ムーラン・ルージュ』『ロミオ+ジュリエット』のバズ・ラーマンがメガホンを取って映画化。
1920年代の好景気に沸くアメリカ、特にニューヨークを舞台に、郊外の高級住宅街の豪邸で毎夜パーティを開くジェイ・ギャツビー。
それはギャツビーの昔の恋人のデイジー・ブキャナンの気を引くため。
大富豪の娘のデイジーは、ギャツビーが戦争から帰って来て無一文だったことから別れて、大金持ちのトム・ブキャナンと結婚。
そのトムの家がギャツビーの豪邸から海を挟んで向こう岸にあることから、連日連夜盛大なパーティを開いて、自分の現状を知ってもらおうとしていた。
デイジーのまたいとこで、小説家志望だったが証券会社に勤めているニック・キャラウェイはギャツビーの噂を聞きつけて、パーティに行ってみる。
海の岸から見える緑色のランプをずっと見てる男が。
それがギャツビーで、パーティで会ったことから仲が良くなる。
そのニックの計らいで、ギャツビーとデイジーは再会。
旦那のトムは田舎町の車整備工場の奥さんと不倫していて、さらに金に物を言わせて大勢の女と遊んでた。
もう愛情は冷め切ってたところに昔の男登場で、もうデイジーは止まらない(゚∀゚)アヒャ
ここまでがま~~~~~~~~ど派手。
ディカプリオ扮するギャツビーが"I'm Gatsby!"と自己紹介した途端にシャンパンがシュポーンシュポーンシュポーン!!!
花火がドカーンドカーンドカーン!!!
カメラが向こう岸の方まで空撮でぶんぶん振れまくり(・∀・)イイ!!
ラーマン監督、カメラを振り回し過ぎて頭に当たって大けがして映画の撮影がしばらく休止したとか
ヾ(≧∀≦ )ブハハッ!!ヾ(≧∀≦)ノブハハッ!!( ≧∀≦)ノブハハッ!!
『ロミオ+ジュリエット』でもど派手でロックやらヒップホップやらのBGMを使ってたわけだけど、こういうカメラワークに慣れてるはずなのに(;^ω^)
まあそれはいいとして(つ´∀`)つ
とにかくきらびやかでど派手なパーティ
デイジーが家でくつろいでるところで白いカーテンが何枚も風に揺られててなかなかデイジーの姿が出てこない辺りの外連味とわざとらしい幻想的なシーン
ニックが自分の家でギャツビーとデイジーをこっそり会わせるシーンで、これでもかと言わんばかりの花の量
そしてギャツビーが「この成り上がりもんが!!」と言われて怒るシーンで、SEが蒸気機関車の汽笛
キャハハハハッ!!(≧▽≦)彡☆バンバン
劇団☆新感線が大好きな俺としては、こういう演出大好き(・∀・)ウン!!
ところが、これは原作でもそうだけど、後半は前半の勢いや馬鹿さ加減が急に失速。
ギャツビーはデイジーとの逢瀬を満喫してたけど、旦那のトムだってそれに当然気づくわけだし、そんなの長続きするはずもない。
ギャツビーは旦那を捨てて俺と一緒にどこかに行こうと持ちかけるも、最初はデイジーも勢いでイエスと言うが・・・
ギャツビー調子こき過ぎ(ノ∀`)アチャー
いくら愛情は覚めてるとは言え子供もいるわけだし、そんなの無理に決まってる(*´・д・)*´。_。)ゥミュ
そしてトムに会って、デイジーの口から「もう愛情はない」とはっきり言わせた上で、ちゃんとけじめをつけさせようとするけど・・・
絶対無理だそんなの(;・∀・)
心ではそう思ってても、面と向かってはなかなか言えないのが人情。
つうかデイジーはギャツビーが無一文だから別れて大金持ちのトムに惹かれて行ったんだろ?
そんな女のどこに未練が??
・・・とも思わなくもないけど、中々忘れられないこともあるでしょうよ。
だとしてもだ・・・
このデイジーって女は優柔不断と言うか、結局金に流されると言うか・・・
ギャツビーとトムが大喧嘩して、それを見たデイジーはギャツビーと車に乗って帰る。
その途中産廃処理場みたいな場所を通った時に、そこで女を轢き殺してしまう∑(゚ω゚ノ)ノ
それがトムの愛人で、良く行く車修理工場の奥さん。
あとから来たトムはそれを見るが、当然自分の不倫相手だなんてことは言えない。
苦し紛れに「その車の持ち主はジェイ・ギャツビーという男だ」と言ってしまう。
実は運転してたのはデイジーで、轢き殺したのもデイジーだったことが判明。
トムは仕方なくギャツビーが運転してたことにして、デイジーには何も言わないよう釘を差す。
心配したニックがギャツビーの所に行くも、ギャツビーはもう全て悟ったような穏やかな表情。
最後に一目だけデイジーに会いたいと思いつつも、ニックが家に帰す。
そしてニックは一緒にいてあげたいが仕事があると去る。
そんな中、ギャツビーは1人でプールに入ってるところ、交通事故で死んだ奥さんの敵を取ろうとする旦那がギャツビーの家に来てギャツビーを射殺。
そして自分も拳銃自殺。
悲しいのがこの後。
ギャツビーが死んで、葬式を上げようとしても弔問客はニック以外誰も来ない。
トムとデイジーにも手紙を書くが、2人ともすでに逃亡。
電報を打っても梨のつぶて。
原作ではその後ニックがトムと再会して、この野郎をぶん殴ってやりたいという衝動に駆られるも、我慢して挨拶の握手をするというエピソードがあるけど、映画ではそれはない。
結局ギャツビーは1人の女のために悪に手を染めて大金持ちになりあがって、1度はまた手に入れたかに思えたけど、最終的にはその女のせいで、つまり2回裏切られた結果命まで落とした。
何て悲惨なんだ。・゚・(ノД`)・゚・。
大金持ちの時にはあれだけ色んな人がパーティに来てたにも関わらず、葬式には誰1人来ないというのも、人間の残酷さ、冷淡さを感じる。
ギャツビーもどうしてこんな女のために命を懸けたのか・・・
『市民ケーン』然り、『ソーシャル・ネットワーク』然り、女が元で大金持ちになるっていう話を繰り返すのがアメリカっていう国なのか?
町山智浩さん曰く、このデイジーの行動がアメリカ人の心性を象徴しているとか。
確かにアメリカ人は金のある所に行っては失敗して、さらにまた別の金のある所に行っては・・・を繰り返してるかも知れない。
ギャツビーが死んで間もなく、アメリカでは世界大恐慌が起こって、それまでの華やかな生活やら浮かれた雰囲気は一気にどん底に叩きつけられることになる。
そしてルーズベルト大統領のニューディール政策が始まって、さらに第二次世界大戦に突入していく。
この映画はニックが精神科医の診察を受けているところで、そのギャツビーのエピソードを書いていく形で進むけど、ラストでエピソードが書きあがった所で、タイプした"Gatsby"の上に"The Great"と手書きで書き足す。
ニックのギャツビーに対する粋な手向け(・∀・)ウン!!
1人の女が原因で、人生の天国と地獄を一気に味わいながら痛ましい最後を迎えた哀れな男に「偉大なギャツビー」「華麗なるギャツビー」と付けた。
アメリカ近現代史を学ぶ一級資料と言われる原作小説を、ど派手できらびやかなエンターテインメント映画に仕上げた名作(゚д゚)イーヨイイヨー
いい映画です(・∀・)イイ!!
長年の純愛の行く末
豪奢なドレス、紙ふぶきやシャンパンが舞う華やかなパーティー、1920年当時のセレブたちが乱痴気騒ぎを起こす様子はそれだけでクラクラする。
独特の映像演出で一世を風靡した『ムーラン・ルージュ』の監督、ということだけあって、非常に特徴的です。まあ、いい意味か悪い意味かは好みによるでしょう。
純愛も純愛のストーリー。ギャツビーにはある目的があります。長年想ってきた人、デイジーと幸せになること。その為にギャツビーはデイジーに相応しい自分であるよう、すべてを整え人生をも成功させてきました。
しかし、実際にデイジーの前に登場して、一緒にいられたのはたった一夏。
世は無常。
ギャツビーは彼女が、最後まで自分を選び取ってくれる、と信じていた。
自分の姿を自分で選び取った、という自負があって、彼女も期待に応えてくれるという自信があった。
『自分がした努力の分だけ相手も返してくれる』というのは、恋愛に関しては思い込み。ギャツビーとデイジーの間の温度差にも彼は気が付かないし……恋は盲目というか……
デイジーにとっては、昔燃えた恋の思い出で、うだるような暑さを紛らわせたかっただけ。ただの面白い遊びだったのかもしれません。
建物の遠景からぐっと寄り、人物のアップに移るシーンが多用されています。
空の色、建物のライトアップは色とりどりで、雰囲気はファンタジー。
超遠景から人物像にぐいいっと寄る手法は、CGっぽく映るし、違和感も与える。リスクのある演出だと思います。しかし、それを『現実から遊離させるための演出』と受け取れば、そのファンタジーぷんぷんの香りを肯定できて、物語に一歩近づける。
だってありえないようなストーリーですもんね。
ありえない話は、ありえないなりの演出が必要。
パーティーでの騒ぎは、まるでヨーロッパの中世貴族たちの振る舞いのよう。笑い声をあげて駆け回る。既視感に襲われました。何時の時代も贅沢の仕方って変わらないんですねー。
幻想的なパーティーのシーンから一変した現実的なホテルでの口論の落差は見物です。汗が滴り、パーティーではただ華美なだけだった人物たちに生気が宿ります。
この時、舞台は春から夏へ。うだるような暑さの中でのウンザリする会話が繰り広げられます。「もう我慢できない!!」と何度も口に出されます。暑さのためでもあって、絡まった人間関係のためでもあります。暑さが登場人物たちの頭の働きを鈍らせているのか、堂々巡りの口論にはこっちまでウンザリ。
しかし、この時、暑くなければ、ギャツビーも激昂せず、デイジーもわめかなかった、そして劇的な悲劇にもつながらなかったのではないでしょうか?少なくとももう少しましな討論ができたでしょう。
この口論のシーンは非常に現実的、人生のままならさも、感情の割り切れなさも、現実のもののように描いています。物語調ではありません。もしこのシーンもパーティーのように幻想的では映画のバランスがぐちゃぐちゃだったでしょう。
現実的であるからこそ、映画が引き締まった。
幻想⇔現実の描き分けのおかげで、観客を置いてけぼりな極端なファンタジーにならない。1920年代ってやっぱり隔世の感がありますし、そこ難しいと思うんです。
金で振りまいた人気や神秘や名声は死ねばすべて終わり。死人に口なし。この世は虚飾です。生きている者の都合の良いように片付けられます。
ギャツビーにとって、様々なものが華々しく散った夏の終わり。それでも、秋になっても、友人は残った。それでよかったのでは。
勝手に脳裏に描いていた『貧乏だった自分を大昔に袖にした女へ復讐する話』ではありませんでした。
……が、楽しめました。
夏の終わり
簡単にいえば「ひと夏のアフェア」を描いた作品である。
ひと夏の喧噪と倦怠。
舞台となった1920年代のアメリカも時代的には正に「夏」。
華やかで騒がしくて、発展が続くことを誰もが疑わなかった時代。
ブラックサーズデーが起きアメリカに冬の時代が訪れるのはもう少し先。
夏の真っ直にいる人は、夏はいつか終わる事に気づかない。
夏の日差しのような栄華を、そしていつかは終わる儚さを、バズ・ラーマンの映像は上手く捉えていたと思う。
ギャツビーも「夏」の時代にいる。
無力な子ども時代とは違う。かといって老成した大人でもない。
芽生えの春でも穏やかな秋でもなく、強い光と熱気が支配する夏。
ギャツビーは自分の夏が終わる事を認めない。
この煌めきが続く事を誰よりも一途に信じている。
成熟しきれない男。愚かで切なく、どこか憎めない。
そんなギャツビーは、ディカプリオにぴったりだった。
J・エドガーのような老獪な役には早すぎる…。かといってロミオ+ジュリエットのような若さに任せてただ叫んでいる時代は過ぎた。
夏の終わりの切なさ演じるのは、今のディカプリオこそふさわしい。(74年度版のレッドフォードは本当に本当に素敵だったけれど、格好良すぎた、隙が無さすぎた。)
今回の映画で特に良かったのは、原作とは微妙に違うギャツビーの最期だ。
デイジーからの電話がきたと勘違いしたままギャツビーは死んでいく。現実を知らぬまま、幸せの絶頂で事切れる。
愚かでも必死に生きた男への、せめてもの優しさであり餞だったのかもしれない。
そしてデイジー。
ギャツビーにとっては全てを賭けた恋でも、デイジーにとってはひと夏の倦怠を紛らわすアフェアでしかない。
キャリー・マリガン演じるデイジーは、賢くもなく強くもなく、どこにでも居そうな女、普通の女に見えた。
普通の女は、ひと夏のちょっとした情事は受け入れる事ができても、常識から逸脱した狂おしいまでの愛は受け入れる事ができない。日常の安定を揺るがすものは重た過ぎてしまう。理解出来ない。だからこそ、すんなり残酷な行動もとれてしまう。
74年度版のミア・ファローのデイジーからは苦々しい印象を受けたが、キャリー・マリガンからは苦々しさすら感じない。
ギャツビーが闘うべきもの、原作者のフィッツジェラルドが告発したかったものは、まさにこの全てを飲み込んでしまう日常ではなかったのか。常識から逸脱したものははじき出してしまう世間ではなかったのか。そう考えると、キャリー・マリガンの普通の女っぷりはある意味正解のような気がする。
最後に、ギャツビーの隣人ニックに関して。
ニックは、傍観者としてアフェアの終焉をそして夏の終わりを見届ける。
ブラックサーズデー…世界大恐慌が起きアメリカの栄華も去り冬の時代が訪れる。
人は、ギャツビーのように夏の終わりと供に消えていける訳ではない。その後果てしなく長い季節を歩まなくてはならない。
冬の時代をニックはどう生きていくのか。何を拠り所にするのか。何によって再生していくのか。これは原作には書かれていない部分である。
この原作にはない部分をあえて付け加えたのは、バズ・ラーマンの優しさだろうか。
ニックのその後を描くことで、とうの昔に夏は終わってしまった多くの私たちにも、一縷の希望を与えてくれる映画になったと思う。
自伝だったんですね。
ギャッビ-は何度も映画化されていますが、レオ様が演じる今作品は、危険な香りが満杯です。作者自身の半生が描かれているから、あんなにも愛されている小説なんですね。スラムで育った青年には、お嬢様は豪華絢爛な高値の花に見えるのでしょう。でも、我儘で自分の手を汚さない傲慢な女性に振り回されて,稼いだ莫大な財産を全て失い最期を遂げる作者と重なっています。豪華絢爛なバズらしい作品ですが、やはりもっと主人公の生い立ちにスボットを当ててほしかったです。
良かったです。でも、、、
個人的にはラストシーンのキャリー・マリガンの表情に納得いかず。。。前作のミア・ファローが演じたように、長きに巻かれギャツビーの事など流し去ってしまう お嬢様・デイジーであった方が、そんな女に憧れたギャツビーの悲しみが際立つように思うんだけどなぁ。。。
米国の夢と希望、レオ様久々の超純ラブストーリーは切ないが、それだけでは終わらない!
私の嫌いな映画10本の選定には必ず入れたい「オーストラリア」を撮ったバズ・ラーマンの新作。普通の「華麗なるギャツビー」ではないと思っていたが、やはり新解釈ラーマン作「新・華麗なるギャツビー」だった。
1920年代と言えば、日本では大正後期、1923年に関東大震災は起きた。
一方、アメリカでは1776年7月4日に独立宣言が公布されてから僅か150年足らずの時代だ。アメリカでは、正に夢の新天地で産業革命以降の近代化国家建国の理想を打ち立て、野心に燃える若者はギャツビーの様に、ひたすら自由経済の発展の中で走り抜き、その栄華を手中に収めようともがき苦しんでいた時代だろう。20年代はその栄華も頂点を迎えていた時代だ。大恐慌の嵐が来る前の最後の夢の瞬間だ。
このギャツビーが今なお、アメリカでは有名な古典文学として読み継がれて来ているのは、きっとギャツビーが、教育も無く、裸一貫から1代で財を成したアメリカンドリームを体現したヒーローだからこそ、人々は彼の生き方に魅かれるのだろう。ところで先頃映画化された「リンカーン」、この大統領も、その生い立ちが貧しい家庭でアメリカンドリームを体現した男で有る故に、歴代の人気大統領の一人に彼もその名を連ねているのだろうと思う。
そしてこの時代に生きたデイジーは、上流階級のお嬢様の象徴でもある訳だ。そのゴージャスな生活をも含めて、自分の欲望を満たしてくれる男ブキャナンの家柄と財力が、理想の男と言う解釈でちょっと身勝手な超セレブにありがちなエゴ丸出しの生き方が前面に描かれていたのが、前作の映画。
ラーマンはデイジーの生き方、それを今の女性の価値観感覚に少し近づけて描いたのが本作の見所だろうと思う。
NYのホテルで、ブキャナンは、デイジーに自分が出会う前の話はどうでも良いとギャツビーに語る。
ギャツビーには決して知る事の出来ない、ブキャナンとデイジーとの結婚生活が既に有り、その2人で築いて来た結婚生活の総てが愛の無い、嘘の生活と語れないと言う自信と誇り。
そして、デイジーも迷いも有るが、自分自身の生き方を自分の価値観で選択決定し、歩き始めようと自立する彼女の生き方の芽生えが、このシーンでは見えて来る気がした。
ギャツビーはデイジーを迎えに来る事を決意し、その目標の為に、日々汚れた裏社会との交友をも拒まず、ひたすらデイジーとの夢を一人で築いて行く。彼は約束と言うゴールを信じていたので、2人3脚のつもりでいたのだろう。しかし、待つ立場は、現実の生活に潰されそうになり、20年代の令嬢なら当たり前の選択をしたわけだ。元々切なく哀しい待たされる側と待たす側の人間の思考のベクトルの方向が違っている事に気付けなかった、いえ、気付いても、その事を信じたくなかったギャツビーの純愛の悲劇がここに有るわけだ。
劇中何度となく繰り返される言葉通り、過去は繰り返す事は出来ない。過去った過去を取り戻す事は出来ないと言うフィッツジェラルドの言葉を体現して、74年の作品とは似ていても異なる、現代版「新・ギャツビー」をラーマンは今ここに完成させた理由があるように思う。それ故に、音楽も、当時のジャズの数々を再現するのではなく、今のテイストをミックスさせている。
アメリカ社会も、過去から呪縛を解き放ち、袋小路にハマった今迄のアメリカ社会の価値ではない、新たなアメリカの生き方を模索して行くべき時代を迎えているのではないか?と示唆しているのではないだろうか?正に時代は、温故知新のターニングポイントに差し掛かっているのかも知れないと感じさせる作品だった。
嫌いだったバズ・ラーマンに脱帽!
華麗なるギャツビー
1974年に観た時は大学生でした。それから4半世紀以上経った今、あの時にはなかったfeelingで感動しました。moved so much! 20年代、あのきらびやかでゴージャスなパーティーとは裏腹に最後まで孤独だったギャツビー。虚飾の中の空虚さ。そして一途な愛。悲しすぎるほどの何かを感じました。20代の頃は単純にも、海辺のあんな素敵な家であ暮らしたい・・とか、あのギャツビーに対しても成り上がって毎日ド派手な生活して・・、とか、そんな風にも観てました。が、その後長い年月の様々な苦労も重ね、今思う事は、ギャツビーは当に「グレイト」、何がというと、良家出身でもなく、学歴もなく、ただただ身一つで築きあげて、しかし一途な物を持っている。凄く素敵です!「華麗なる」と訳してますが、私は「偉大なる」と、そんな風にとりました。
キャスティングもディカプリオがナイス。'74のローバート・レッドフォードだと華麗なイメージはありますがインテリ過ぎてなんかミスマッチ。デイジー役の女優さんはワタシ的にはもっと神秘的に美人な人がイイナ。
ジャズがさかんで、チャールストンを踊るフラッパーヘアで膝たけのスカートをはいた女性達、禁酒法とギャング、私達がまだ生まれてなかった20年代の華やかなアメリカを楽しむには、とっても良い映画です。
そしてギャツビーの死と共に、その華やかだった時代は幕を閉じて、大恐慌となり30年代に入っていきます。お楽しみに!
こういう悲しいのは好みじゃない
ディカプリオが演じるギャツビーが、デイジーともう一度巡り合うために綿密な下準備をしていたにもかかわらず、いざ会うとなると怯えたり不安になっている様が可愛くて、微笑ましかったです。
あと、パーティーのシーンは「ロミオ&ジュリエット」でもあったように、騒いでいるみんなの中をこっそり二人で消えて密事をかわすのは、やっぱりワクワクしますね。ただ、ロミジュリほどキュンとしたかは別です。
これはデイジーのキャラクターがよくなかったのかも。
とても綺麗な人なんですが、天然悪女にしか見えなかったです。
計画的な悪女ならまだ可愛げがありますが、天然ってイラっとしますよね。
まるで私は被害者みたいに怯えたり、結局旦那に助けてもらったりしているのをみるとイライライライラ・・・
破滅に向かう映画は嫌いではないですが、こういうのはちょっと後味が悪くて微妙ですね。あと、3Dで観たのですが、はっきりいって3Dの必要なかったとおもいます。
久しぶりの出会い
ディカプリオの映画久しぶりに観ました。
タイタニックに出た時は映画自体の素晴らしさもあり、新天地アメリカに夢を抱く画家志望の
青年ジャックを演じ若さ美しさ、ローズに恋するひたむきさに心躍るほどでした。
今回のディカプリオは何故かギャツビーとしては違和感がありましたね。
これは彼のせいだけではないのかも知れないけれど、期待を持たせた最初の登場シーンもイマイチ。
ギャツビーが過去をどのように生きてきたかと言う、ミステリアスな部分もさらりと解ってしまい、
苦悩もあまり見えてこない。
デイジーに魅かれ、その恋を再び成就させる為、あらゆる手段を使い富豪になって、
若者の様な初々しさで再会するギャツビーは一途な男だけれど、魅力的には映らなかった。
移り気な?女心がなぜ解らないのなんて、じれったくなっちゃった。
過去だけにとらわれるのではなく、時の流れを理解したうえで待つのが、大人の男ではないかしら。
あの時代だからこそのお城の様な家、絢爛豪華なパーティ、その主のギャツビー。
退廃的な雰囲気で末路は見えてくる。そのキュンとくるはずの悲しみも虚しいものに感じてしまった。
こんな話だったのか
世界文学史上に残る大傑作のような原作のイメージがあって以前から読んでみたかったのだが、かなりしょうもない安っぽい話で読まなくてよかったなと思った。
炭鉱のような地域があって、そこでは貧乏な労働者が泥にまみれて仕事している横では好景気で沸くウォール街、その反対側には富裕層のお城が立ち並ぶ居住区があるという立地が生々しかった。また、クラッシックカーでの粗暴運転は見ごたえがあった。
とにかくデイジーがしょうもない女で、そんなのに夢中なギャツビーもトムも、まるで見る目がなく、大した人物ではなかった。ギャツビーはデイジーとしかセックスしてなさそうで、それまで童貞だったようにも見えた。トムに至っては愛人を本妻にひき殺される形となっていた。
ギャツビーはワタミの社長みたいな感じだった。原作では、当時ははるか雲の上の上流階級のパーティの様子が描かれていて庶民はうっとりとその世界を思い描いていて受けたのかな。そのパーティがまるで楽しくなさそうだった。虚飾の空しさがテーマなのだろうけど、そんなに面白いテーマでもなかった。
ギャツビーはその後生きていてもきっとどんどん悲惨な事になりそうなので殺されてむしろよかったのではないだろうか。葬式に誰も来ないというのはいくらなんでも可哀想だった。元サッカー選手の武田と石田純一はきっと来てくれるはずだ。
3Dは苦手なので2Dで見たのだが、特に不満は感じなかった。
ゴージャス!ゴージャス!ゴージャス!
贅沢の見本。金をかけて遊ぶなら、こういうことをしたらいいんじゃないかというショーケース。
NY郊外の大邸宅で毎夜繰り広げられる豪勢なパーティ。華麗に着飾った人々が歌い踊り、見ず知らずの人同士がバカ騒ぎを楽しむ。大なり小なりこういうことをしたいと思っているお金持ちは古今東西少なくないはずだ。
ただ、その目的が一人の女性に成り上がった自分を見せつけるだけのものだったとしたらどうだろう。無一文からの「成功」を賞賛することも、あるいはしょせんは虚飾にすぎないと割り切ることもできるかもしれない。身の程を過ぎた贅沢は、最初から破滅が約束されていたのだと見ることもできるかもしれない。
それでも、ギャツビーをGREATといえるか。
本を読んで、もう一度考えてみよう。
原作の虚栄と虚無を再現するのに3Dが効果をあげている
原作を読んだのが10数年前で、かなりストーリーも忘れつつあ
り、ラストの哀しみだけが印象に残っていた。
本作はあのムーラン・ルージュを撮った監督が手掛けると聞き、
20年代の浮かれたアメリカの豪華絢爛さが画面にこれでもかと
再現されるのかと、期待と不安の相交じった気持ちで鑑賞した。
あの演出は斬新だったが、あまりに多用されると、狂乱の20年
代がひたすらに強調される、古き良きアメリカ礼賛の映像を見せ
られるだけではないかと。
結論としては杞憂であったばかりか、その演出が3D技術と相まっ
て、実に見事な効果をあげていた。
パーティーの乱痴気騒ぎが、様々な角度と遠近感で表現され、観
客がその場にいるように錯覚させるような効果。ギャツビーが対
岸のデイジー宅を眺める、デイジー宅の霧に浮かぶ緑の灯台を映
し出すシーンの、自分を見失った、20年代のロスト・ゼネレ-
ションを体現したともいえる効果。
是非本作は3D版で観て頂きたいと思う。
映像効果だけでなく、衣装も20年代の今思えば奥床しくも、当
時としては大胆極まりないモード再現しているし、一聴して、ジ
ャズ・エイジの先鋭ぶりを表すには、当世のHipHopに偏りすぎと
思える作中音楽も、現代のわれわれから聞くと、レトロ風情に聞
こえてしまいがちな、当時の音楽を再現するのではなく、当世の
Jay-Zを起用することで、当時のジャズ・エイジのとがった感じ
が耳に流れ込んでくる。
俳優陣も見事である。
とくに、本作の肝である、ギャツビーの激昂場面は必見である。
謎の富豪振り余裕の笑みで演じるディカプリオも素晴らしいのだ
が、激昂場面では、ナレーションでも殺人犯のようと述べられる
ほどの豹変した顔が見られる。面目躍如であり、ギャツビーとし
てこれ以上望めないほどの配役である。
無論、脇を固める俳優陣も素晴らしい。ニック役のトビー・マグ
ワイヤの抑えた演技は、一見、浮かれっぱなしに見える、この時
代の背後に潜む虚しさや、ギャツビーの内面の空虚さを映し出し
ているし、デイジー役のキャリー・ミリガンも、体面を尊ぶ、か
弱くもしたたかな当時の女性像にぴったりの演技である。
2013/6/15 ワーナー・マイカルシネマ新百合ヶ丘
豪華絢爛も描きすぎると下品。
過去の理想に捕らわれすぎた男ギャツビーの哀れな運命に悲しくなった。いっそ哀れだ。
パーティーの豪華絢爛さは嫌というほど解ったが、自分にはちょっと下品にうつった。
そしてギャツビーが愛したデイジーの夫トムに嫌悪感を抱いた。自分は愛人がいるくせに妻が浮気をするのは許せないという身勝手さ。
最後、デイジーまでもが全ての罪をギャツビーになすりつけて家族でバカンスですか。有り得ない!!
余りの怒りと悲しみで自分は自分なりにギャツビーを見送った。
哀れすぎて観ていられない作品だった。
ゴージャスでせつない、、、
たまたま時間が合った回が3Dでした。
特にこだわらなかったけど、あの狂乱的なパーティーシーンとか、羽毛だか雪だかが舞っているタイトルバックとか、3Dで見応え(お値段にリンクして)2割増しだったと思う。
レオナルドデカプリオは最近どんな役やっても「デカプリオ」的仕上がりなのは痛感しているのだけど、「強いのに弱い」自滅的役柄は本当にハマっていると思う。「エドガー」とか「ジャンゴ」とか。1920年代のNYって、この極東の2000年代に生きる50女の私には遠すぎる世界なだけに何だか憧れる。「禁酒法」、「ギャング」、「アメリカンドリーム」って、3点セットなんだなあ。虚飾とはいえ、たった一度の人生、目的を持って生きることって美しいなあ、と思わずにはいられない。
しかし、恋だの愛だのに惜しみなく命をかけられるのは30代前半がギリだね。ニックはきっと長生きして戦後のアメリカの繁栄をしっかりと味わいつくし、語り部としての人生を全うするのだろうな。私も当然そっち派の人です。
当時を描いた他の映画も見たくなりました。
華やかなミュージカルを見ているよう
原題:「THE GREAT GATSBY]
原作は、F スコット フィツジェラルドによる1925年作品。ベストセラーになったロマンチックドラマ。アメリカ映画、ワーナーブラザーズ社による3Dフイルムで制作され、第66回カンヌ国際映画祭のオープニング作品として上映された。
ストーリーは
1922年。ニック キャラウェイは、第一次世界大戦に従軍した後、エール大学を卒業しウォールストリートの証券会社に就職した。ニューヨークのロングアイランドに家を借りて過ごすうち、となりの瀟洒な屋敷に住む住人に、興味をもつようになる。そのギャツビーという主人は、夜な夜な派手なパーテイーを開き、有名人や政財界の要人を招待して羽振りが良いが、深夜、桟橋で対岸の蒼い灯りを見つめる男の後ろ姿は、孤独そのものだった。
やがてニックのところにも、ギャツビーからパーテイーの招待状が届く。行ってみると贅を凝らした屋敷のパーテイーに、ニューヨーク中の人々が集まって遊び頬けているが、ギャツビーはまだ若い、物静かな青年だった。ニックとギャツビー、二人はすぐに打ち解けて親しくなる。
やがてギャツビーは ニックに、対岸に住むニックの従妹、デイジーをお茶に誘ってほしいと、頼みこむ。ギャツビーの思いつめたような表情に不審に思いながらも、ニックは自分の家に従妹のデイジーを招待する。溢れるほどの花束をもってギャツビーはデイジーを待つ。それは、デイジーとギャツビーの5年ぶりの再会だったのだ。デイジーとギャツビーは、かつて愛し合っていたが、戦争が二人の間を引き裂き、戦争が終わっても、無一文だったギャツビーは、デイジーのもとに帰って来なかった。デイジーは請われるまま大富豪と結婚して、贅沢な暮らしをしてきた。しかし、今、ギャツビーは、億万長者になってデイジーに前に現れたのだった。5年余りの時の流れなど無かったかのように、デイジーとギャツビーとは 再び愛し合う。それを知った夫のトムは、激しく怒る。
ある午後、ニューヨークのトムの別荘で、午後のお茶の時間を過ごしていて、ギャツビーはデイジーに、愛しているのはギャツビーだけだと 夫にに言うように迫る。遂にトムとギャツビーは、激しく争い合い、その場に耐えられなくなったデイジーは、ギャツビーの車で、逃げ出すようにロングアイランドに向かって運転して帰る途中、車に向かって走ってきた女を撥ね殺してしまう。女はトムの愛人、マートルだった。マートルはガソリンスタンドの主人との貧しい生活が嫌いで、そこから抜け出してくれるトムに、救いを求めていた。それでデイジーの運転する車を、トムが運転しているものと思って、車に走り寄ったのだった。デイジーは女をはねた後、車を止めずに家に帰宅する。
デイジーの後を追ったトムは 自分の愛人が、ギャツビーの車に跳ね殺されたことを知る。最愛の妻を失って嘆き悲しむ夫に、妻マートルを殺したのはギャツビーの車であることを言う。
ギャツビーはデイジーが家を出て、これからは二人で生きていけることを信じて疑わない。自分には、デイジーのいない人生などないからだ。ギャツビーはデイジーからの電話を待っている。電話が鳴った時、プールにいたギャツビーは、受話器を取ろうとしたときに、背後からマートルの夫に銃で撃たれる。
毎晩、ギャツビーの主催する贅沢なパーテイーに集まってきていた何百人もの「友達」は、ギャツビーの葬列に一人として参加しなかった。ギャツビーが自分の短い生涯で一人だけ愛した女、デイジーも、夫のトムも、ギャツビーの葬儀に来なかった。何事もなかったかのようにデイジーは旅行に出かけてしまった。
ニックは、たった一人きりで、ギャツビーを見送ったのだった。
というストーリー。
このラブロマンス物語は、1925年のフイッツジェラルドの代表作。現代アメリカ文学の代表作でもある。村上春樹の「アメリカン」な文体は、彼の影響をもろに受けてる。短くて明確な語り方。古典英国文学のように、風景描写や人物の背景など、グダグダ説明しない。にも関わらず、簡潔で的確な描写で、読み手はより具体的に情景を思い描くことができる。フィッツジェラルドとヘミングウェイとの交流も見逃せない。文体は歯切れが良く、描写が写実的で、カメラの目線で、焦点を絞ったり、緩めたりする。オーストラリアの高校では この「ザ グレイト ギャツビー」をアメリカ文学代表作として授業で読むから、オージーはみんなこの本を読んでいる。この作品は、イギリス文学でいうと、エミリー ブロンテの「嵐が丘」のアメリカ版と言えるだろうか。貧しかった青年が 生涯一人の女を愛し、女が死んだ後になっても、幽霊になっても、愛して求め合うラブロマンスだ。ヒースクリッフのキャシーへ激しい愛を アメリカ版で現代風にしたのが、このギャッビーだ。
アメリカ禁酒法下で、財力にものをいわせて自由奔放に飲み、買い、享楽に身を落とす人々に欲望の空しさを訴えて居る。金持ちのエゴイズムと、人を殺しても良心のひとかけらも見せることのない人としての堕落、あまりにもアメリカ的な文化を描いている。そのなかで、一生にたった一人の女を愛して死んでいった孤独な青年の姿が浮き彫りにされる。
バズ ラーマン監督は、「ロメオとジュリエット」、「ムーラン ルージュ」を監督した人だが、どうして3Dのフイルムで撮ったのか、という質問に答えて、絢爛豪華なパーテイーの様子を奥行きのある立体で表したかった、と言っている。確かに2Dでも3Dでもパーテイーの派手な演出はムーラン ルージュを上回る。着飾った人々が飲んだくれて馬鹿騒ぎする様子と、夜一人岬で対岸を見つめている男の孤絶感が、みごとな対比をみせている。
この映画を観ると どうしても1974年の「華麗なるギャツビー」を思い出す。これは、ロバート レッドフォードとミア ファーロウが主演した。デイジー役では、両者を比較すると、ミア ファーロウのほうが役に合っている。ミア ファーロウの、手足の長い、中性的で永遠の少女のようなたたずまいや、堅い笑顔は、演じて得られるものではない。彼女が本来持って生まれてきた不思議な魅力だ。それがとてもデイジーにマッチしていた。
ギャツビーは、今回のレオナルド デカプリオのほうが演技は巧みだ。デ カプリオは、本当に良い役者になってきた。でも、レッドフォードのほうが、原作のキャラクターに近い。孤独で物思いにふける男の雰囲気が良い。若い時はとてもハンサムだった。彼が真っ白の3つ揃いのスーツで現れるシーンなど、ストーリーもセリフも何も要らない。ただ立っていてくれるだけで絵になって、深い深いため息が出たものだ。
そんなレッドフォードも年を取り、若い映画人を育成する機関を作り、サンダース映画賞を設け、活躍している。そこで止まっていれば立派だ。が、、最新作「THE COMPANY YOU KEEP」をレッドフォードが しわくちゃな顔で主演している。1970年代に学生だった爆弾犯が、40年たって、FBIに逮捕されるストーリーで、スーザン サランドンも レッドフォードも ジュデイー クリステイーも逮捕される。レッドフォードが林を走るシーンがある。本人は走っているつもりだろうが、全然足が上がっていない。年をとったジュデイー クリステイーと、レッドフォードが、ベッドインするシーンまである。やめてくれ。76歳と72歳ですよ。君たち、いまさら何をやっているんですか。人は年をとれば醜くなる。老醜をさらすのは、公害よりも悪質だ。
ともかく、この3D、デ カプリオのギャツビー主演作は、ミュージカルを見ているように画面の移動がスムーズで、豪華でゴージャスだ。アメリカ文学の代表作に触れてみる価値はある
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