「長年の純愛の行く末」華麗なるギャツビー いずるさんの映画レビュー(感想・評価)
長年の純愛の行く末
豪奢なドレス、紙ふぶきやシャンパンが舞う華やかなパーティー、1920年当時のセレブたちが乱痴気騒ぎを起こす様子はそれだけでクラクラする。
独特の映像演出で一世を風靡した『ムーラン・ルージュ』の監督、ということだけあって、非常に特徴的です。まあ、いい意味か悪い意味かは好みによるでしょう。
純愛も純愛のストーリー。ギャツビーにはある目的があります。長年想ってきた人、デイジーと幸せになること。その為にギャツビーはデイジーに相応しい自分であるよう、すべてを整え人生をも成功させてきました。
しかし、実際にデイジーの前に登場して、一緒にいられたのはたった一夏。
世は無常。
ギャツビーは彼女が、最後まで自分を選び取ってくれる、と信じていた。
自分の姿を自分で選び取った、という自負があって、彼女も期待に応えてくれるという自信があった。
『自分がした努力の分だけ相手も返してくれる』というのは、恋愛に関しては思い込み。ギャツビーとデイジーの間の温度差にも彼は気が付かないし……恋は盲目というか……
デイジーにとっては、昔燃えた恋の思い出で、うだるような暑さを紛らわせたかっただけ。ただの面白い遊びだったのかもしれません。
建物の遠景からぐっと寄り、人物のアップに移るシーンが多用されています。
空の色、建物のライトアップは色とりどりで、雰囲気はファンタジー。
超遠景から人物像にぐいいっと寄る手法は、CGっぽく映るし、違和感も与える。リスクのある演出だと思います。しかし、それを『現実から遊離させるための演出』と受け取れば、そのファンタジーぷんぷんの香りを肯定できて、物語に一歩近づける。
だってありえないようなストーリーですもんね。
ありえない話は、ありえないなりの演出が必要。
パーティーでの騒ぎは、まるでヨーロッパの中世貴族たちの振る舞いのよう。笑い声をあげて駆け回る。既視感に襲われました。何時の時代も贅沢の仕方って変わらないんですねー。
幻想的なパーティーのシーンから一変した現実的なホテルでの口論の落差は見物です。汗が滴り、パーティーではただ華美なだけだった人物たちに生気が宿ります。
この時、舞台は春から夏へ。うだるような暑さの中でのウンザリする会話が繰り広げられます。「もう我慢できない!!」と何度も口に出されます。暑さのためでもあって、絡まった人間関係のためでもあります。暑さが登場人物たちの頭の働きを鈍らせているのか、堂々巡りの口論にはこっちまでウンザリ。
しかし、この時、暑くなければ、ギャツビーも激昂せず、デイジーもわめかなかった、そして劇的な悲劇にもつながらなかったのではないでしょうか?少なくとももう少しましな討論ができたでしょう。
この口論のシーンは非常に現実的、人生のままならさも、感情の割り切れなさも、現実のもののように描いています。物語調ではありません。もしこのシーンもパーティーのように幻想的では映画のバランスがぐちゃぐちゃだったでしょう。
現実的であるからこそ、映画が引き締まった。
幻想⇔現実の描き分けのおかげで、観客を置いてけぼりな極端なファンタジーにならない。1920年代ってやっぱり隔世の感がありますし、そこ難しいと思うんです。
金で振りまいた人気や神秘や名声は死ねばすべて終わり。死人に口なし。この世は虚飾です。生きている者の都合の良いように片付けられます。
ギャツビーにとって、様々なものが華々しく散った夏の終わり。それでも、秋になっても、友人は残った。それでよかったのでは。
勝手に脳裏に描いていた『貧乏だった自分を大昔に袖にした女へ復讐する話』ではありませんでした。
……が、楽しめました。