「夏の終わり」華麗なるギャツビー 小二郎さんの映画レビュー(感想・評価)
夏の終わり
簡単にいえば「ひと夏のアフェア」を描いた作品である。
ひと夏の喧噪と倦怠。
舞台となった1920年代のアメリカも時代的には正に「夏」。
華やかで騒がしくて、発展が続くことを誰もが疑わなかった時代。
ブラックサーズデーが起きアメリカに冬の時代が訪れるのはもう少し先。
夏の真っ直にいる人は、夏はいつか終わる事に気づかない。
夏の日差しのような栄華を、そしていつかは終わる儚さを、バズ・ラーマンの映像は上手く捉えていたと思う。
ギャツビーも「夏」の時代にいる。
無力な子ども時代とは違う。かといって老成した大人でもない。
芽生えの春でも穏やかな秋でもなく、強い光と熱気が支配する夏。
ギャツビーは自分の夏が終わる事を認めない。
この煌めきが続く事を誰よりも一途に信じている。
成熟しきれない男。愚かで切なく、どこか憎めない。
そんなギャツビーは、ディカプリオにぴったりだった。
J・エドガーのような老獪な役には早すぎる…。かといってロミオ+ジュリエットのような若さに任せてただ叫んでいる時代は過ぎた。
夏の終わりの切なさ演じるのは、今のディカプリオこそふさわしい。(74年度版のレッドフォードは本当に本当に素敵だったけれど、格好良すぎた、隙が無さすぎた。)
今回の映画で特に良かったのは、原作とは微妙に違うギャツビーの最期だ。
デイジーからの電話がきたと勘違いしたままギャツビーは死んでいく。現実を知らぬまま、幸せの絶頂で事切れる。
愚かでも必死に生きた男への、せめてもの優しさであり餞だったのかもしれない。
そしてデイジー。
ギャツビーにとっては全てを賭けた恋でも、デイジーにとってはひと夏の倦怠を紛らわすアフェアでしかない。
キャリー・マリガン演じるデイジーは、賢くもなく強くもなく、どこにでも居そうな女、普通の女に見えた。
普通の女は、ひと夏のちょっとした情事は受け入れる事ができても、常識から逸脱した狂おしいまでの愛は受け入れる事ができない。日常の安定を揺るがすものは重た過ぎてしまう。理解出来ない。だからこそ、すんなり残酷な行動もとれてしまう。
74年度版のミア・ファローのデイジーからは苦々しい印象を受けたが、キャリー・マリガンからは苦々しさすら感じない。
ギャツビーが闘うべきもの、原作者のフィッツジェラルドが告発したかったものは、まさにこの全てを飲み込んでしまう日常ではなかったのか。常識から逸脱したものははじき出してしまう世間ではなかったのか。そう考えると、キャリー・マリガンの普通の女っぷりはある意味正解のような気がする。
最後に、ギャツビーの隣人ニックに関して。
ニックは、傍観者としてアフェアの終焉をそして夏の終わりを見届ける。
ブラックサーズデー…世界大恐慌が起きアメリカの栄華も去り冬の時代が訪れる。
人は、ギャツビーのように夏の終わりと供に消えていける訳ではない。その後果てしなく長い季節を歩まなくてはならない。
冬の時代をニックはどう生きていくのか。何を拠り所にするのか。何によって再生していくのか。これは原作には書かれていない部分である。
この原作にはない部分をあえて付け加えたのは、バズ・ラーマンの優しさだろうか。
ニックのその後を描くことで、とうの昔に夏は終わってしまった多くの私たちにも、一縷の希望を与えてくれる映画になったと思う。