アンダーグラウンド(1995)のレビュー・感想・評価
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規格外の熱量で欧州の官製史をも吹き飛ばした、映画史に燦然と輝く伝説の映画!
なんやこれ!ものすごいものを観てしまった!と20年前の自分は驚愕したけれど、当時の驚きに勝る映画に私は未だに出会えていない。それほどに本作は破壊的に規格外であり、ストーリーから登場人物、音楽、映像に至るまですべてが熱量にあふれ、ぶっ飛んでいる。
ただぶっ飛んでいるだけならキワモノ映画として一蹴されるだけだが、主題としているのがナチス・ドイツの侵攻に抵抗する旧ユーゴの破天荒な2人のパルチザンである。祖国を守るためなら盗みでも殺しでも何でもする、それでいて女性に目がない、日本流に言えばルパン三世のような人間臭い一味の冒険活劇のようなのだが、もはや何が善で何が悪なのか分らないまま終戦・冷戦時代を経て、旧ユーゴ紛争(内戦)で一つの国が崩壊するまでの欺瞞に満ちた50年が滑稽かつ皮肉たっぷりに描かれるのだ。
そこでは連合軍も国連保護軍も、すべてが同じ穴のムジナである。私たちが知っている世界史ですら、この映画にかかれば所詮は嘘まみれの滑稽話にすぎず、戦後民主主義が植え付けた善と悪の図式はズタズタに切り裂かれる。
そして、戦後も地下で武器作りに励み、ナチスと戦い続けていると思い込まされていたパルチザンたちがようやく地上に出て目にしたものは、同じ国の仲間同士が殺戮しあうユーゴ紛争だった…。
もはや正義などどこにもありはしない。その計り知れない絶望の中で、人は泣き笑いするしかない、踊り狂うほかないのだということに気づいた時、この映画の冒頭から通底する「底抜けの明るさ」にようやく思いが至るのだ。
昔、ある所に国があった―。
ラストシーンもまた底抜けに明るく、底抜けに悲しい。
昔、あるところに国があった
ある日突然に祖国が消えてしまう。なかなか想像するのも、理解するのも難しいが、旧ユーゴスラビア出身のエミール・クストリッツァ監督にとっては特別な想いのある作品だったのだろう。
とにかく画面を通して伝わってくるエネルギーが凄まじい。
喜劇でもあり、悲劇でもあり、寓意的なブラックファンタジーでもあり、どこか神話のような高尚さもある。
冒頭のマルコとクロが楽隊を引き連れ、どんちゃん騒ぎをしながら馬車で疾走するシーンから、これは人間の滑稽さを描いた作品なのだと思わせる。
三部構成のかなりスケールの大きな物語なのだが、人間の持つ欲求は突き詰めればとてもシンプルなものなのだと分かる。
これは二人の男が一人の女を奪い合う物語であり、人が人をコントロールしようとする物語でもある。
一見、マルコとクロの間には友情があるようだが、実は豪快で直情的なクロをマルコが利用していることが分かる。
クロは強引にナタリアという女優を手に入れようとするが、彼女を想っているのはマルコも同じだった。
やがてクロはドイツ軍に捕らわれ拷問を受ける。
マルコは瀕死のクロを助け出すが、彼はクロをそのまま地下室に閉じ込め、ナタリアを独占しようとする。
戦争が終わり、マルコは巧みに政界に取り入り出世していく。
国民の間ではクロは戦争で命を落とした英雄として崇められていたが、実際はマルコとナタリアの屋敷の地下で武器を製造するレジスタンスのリーダーとして君臨していた。
マルコは彼らに戦争が終わったことを告げずに、外貨を稼ぐために彼らを利用していたのだ。
マルコを愛していたナタリアも、次第に彼の狡猾さに嫌悪感を抱くようになる。
このナタリアもとても弱い人間で、常にステータスの高い人間の側につこうとするようだ。
地下で行われるクロの息子ヨヴァンとエレナの結婚式のシーンは狂気に満ちている。
そしてやがてその狂気は大きな悲劇へと繋がっていく。
全編通して喜劇的な要素が強いからこそ、シビアな現実に打ちのめされる。
第一部のナチスによる空爆のシーンも印象的だ。
犠牲になるのは人間だけではない。破壊された動物園から逃げ出した動物たちが傷つく姿はかなりショッキングだった。
そして悲劇的な第三部。ユーゴスラビアは既になく、実の兄から騙されていたと知ったイヴァンは、マルコを殴り倒し首を吊って自殺する。
そしてマルコとナタリアも銃殺される。その命令を下したのはクロだった。
炎に包まれながらマルコとナタリアを乗せた車椅子が、クロの目の前で走り回るシーンはかなりショッキングだ。
人間とは愚かで滑稽な生き物だ。
イヴァンは三度もマルコに命を救われるが、彼を殺したのもまたマルコだった。
クロの妻ヴェラは命と引き換えにヨヴァンを生むが、そのヨヴァンも何も世界を知らないまま呆気なく命を落としてしまう。
そしてその息子を間接的に殺してしまったクロは、知らぬうちにマルコと愛する女だったナタリアに死刑の命令を下してしまう。
最後まで無垢であり続けたのは、イヴァンの相棒のチンパンジーのソニだけだろう。
ラストのすべてが許される天国のような場所で、どんちゃん騒ぎをしながら海へと流されていく彼らの姿がとても悲しく映った。
崇高にして俗悪。人間の欲と業と愛憎を民族の歴史と直結して描き出す、混沌たる闇鍋映画の傑作!
いやあ、なんともかんとも。
マジでとんでもない映画だな、こりゃ。
どう語れば、この作品の凄みが伝わるものか。
ちょっと途方にくれるくらいだ。
20年ほど前、会社の一年後輩が「自分の人生史上最高の映画」として、猛烈に熱く語っていたのを思い出す。クストリッツァに関しては、『黒猫・白猫』は封切りのときに劇場で観ているのだが、『アンダーグラウンド』のほうは未見。せっかくだし、そんなに面白いのなら映画館で改めてやってくれたらぜひ観に行くんだけど、とずっと思っていた。
そんでもって、昨年、遂に4Kリストア版のリヴァイヴァル上映が開始!
一瞬浮かれ立ったものの、仕事が忙しすぎて、けっきょく足を運べずじまい。
がっかりしていたら、今度、下高井戸でやるというじゃあありませんか。
というわけで、遂に満を持して行ってまいりました!
― ― ―
とにかく、月並な表現だが「凄い」映画ではある。
限界ぎりぎりまで、濃厚で。
崇高でありながら、俗悪で。
徹底的に笑わせながら、悲劇的で。
人間の「業」と「欲」と「浅ましさ」を煮詰めた結果として、
映画に「活力」と「エナジー」と「生命力」が漲っている。
終わらない乱痴気騒ぎは、哀しくも野太くて、
愚かではあっても、誰しも愛さずにはいられない。
国家の大きな物語を、個人の憎悪や嫉みや欲望が動かし、
歴史の大きな転換点を、一匹のチンパンジーが担う。
善意と悪意。卑小と尊大。語りと騙り。
ありとあらゆるちっぽけな人間の感情と表象の総体として、
国家の態様と歴史の概観が立ち現れる。
ここで描かれる物語は、
「人間の営みの物語」であると同時に、
「国家の物語」であり、「歴史の物語」でもある。
実は、その三者に境などないのだ。
― ― ―
『アンダーグラウンド』はカオスな映画だ。
「露悪的」な映画、といっていいかもしれない。
不必要なくらいに面白がらせてはくれるけど、
正体をつかませない、思ったように進まない。
話のあちこちに、意図的な関節外しや不愉快な転調があって、
やけにねちっこくフレンドリーで馴れ馴れしい映画なのに、
すっと腑に落ちるようには作られていない。
キャラに感情移入できそうだな、と思ったら、
すぐにろくでもないことをしでかして裏切られる。
物語が落ち着いてきたのかな、と思ったら、
唐突に不合理かつ非論理的な展開が待ち受ける。
登場人物どうしも常に裏切り合っているのだが、
当の監督のほうも観客を裏切ってはほくそ笑んでいる。
あらゆる要素が雑駁にねじ込まれ、煮立てられ、
得体の知れない「闇鍋」と化しているが、
その背後には冷徹な意志と綿密な計算がひそんでいるようにも思える。
一筋縄ではいかない。見た目通りではない。
笑いをまぶした気安さ、親密さ、陽気さと、
反吐が出るような陰鬱さ、絶望的な陰気さが、
いっしょくたになってぶちこまれている。
過剰に狂騒的で、むやみやたらに駆け足で、
常に「なんだかわからない」熱気を孕んでいる。
描かれているのは、人間の愚かさだが、
同時に、圧倒的な人間愛にもあふれている。
ただキャラに対して全幅の共感をもって
描かれてるかというと、そうでもなく
政治的風刺と歴史の寓意という枷を課せられ、
がんじがらめになっている。
すべての事象が「螺旋」を描きながら迫って来る。
まわる。まわる。まわる。
この映画では、円環の動きがすべてを支配する。
まわる三人組。まわる楽団。まわる戦車。
まわるラジオの取っ手。まわるリヴォルバーのシリンダー。
まわる火の噴いた車いす。
圧倒的な情報量が圧倒的な過剰さで押し寄せて来て、
頭がグルグルして何が何だかわからないままに、
趣味の悪い笑いとグロテスクと狂騒的なタテノリにノックアウトされて、
それでも猛烈に人間味に富んだ「素晴らしい」ものを観た気にさせられる。
どこまでも真摯で、どこまでも不真面目。
ちょっとこの映画体験は、他の何にも形容しがたい。
でも、一生忘れられない映画体験であることは間違いない。
― ― ―
たぶん、すべての「ベース」となるのは、
フェデリコ・フェリーニの世界だ。
幻想的な視覚性とカーニバル的な狂騒感。
濃密な寓意性と象徴性、映画としての強度。
筋が通っているようで通っていない不条理さ。
親近感は湧くのに距離感が縮まらない独特のテイスト。
映画の端々から、フェリーニの臭気が漂ってくる。
強固な思想性を背景にもつ壮大な「歴史絵巻」として、
フォルカー・シュレンドルフの『ブリキの太鼓』や、
ベルナルド・ベルトルッチの『1900年』あたりも、
たぶん全体としての骨格の参考にはしているのだろう。
とくに前者は設定そのものが歴史の寓意を成している点でとてもよく似ているし、後者は男女の愛憎劇がそのまま歴史に直結している点でとてもよく似ている。
そこに、マカロニ・ウエスタンの猥雑さや、
人生と音楽が直結するロマの狂騒的な民族性や、
サイレント映画に由来するスラップスティックの猛毒が加わって来る。
『アンダーグラウンド』の霊感源は、クセの強い映画の歴史そのものだ。
『地獄に堕ちた勇者ども』や『愛の嵐』のような、支配階級の性的倒錯と軍事体制下での風紀の紊乱が描かれ、『M★A★S★H』や『まぼろしの市街戦』のような、戦地でのブラックな笑いと憎めない狂気が描かれる(俺、クストリッツァって絶対『戦略大作戦』のことは大好きだと思う。そもそもあれたしかユーゴスラビアで撮影された映画だし)。舞い上がる札びらのショットは『現金に体を張れ』か。
あるいはテリー・ギリアムやジャン=ピエール・ジュネ&マルク・キャロを彷彿とさせるような「御伽噺のような地下生活」が描かれ、『冒険者たち』や『明日に向って撃て!』『はなればなれに』のような古式ゆかしい女一人男二人の恋のさや当てが描かれる。
クロがいつもブラスバンドを引き連れているのは、もしかしたら『昼下りの情事』のゲイリー・クーパーのパロディかもしれないし、ラストシーンは、もしかしたらテオ・アンゲロプロスの『シテール島への船出』のパロディかもしれない。
有名人のいるニュース映像に架空のキャラが紛れ込むネタは、直前の『フォレスト・ガンプ/一期一会』(94)でもやっていたが、影響関係はあるんだかないんだか。それより前からウッディ・アレンも似たようなことをしてた気もするけど(偽記憶かもしれない)。まあフッテージを使用した民族紛争ものはオタール・イオセリアーニなどもやっているし、僕の知らない元ネタはこれまでにいろいろあったはずだ。「空を飛ぶ花嫁」のモチーフや常在楽団のイメージには、マルク・シャガールあたりの絵画からの影響もあるかもしれない。
とにかく、すべての映画的知識がフェリーニ的な土壌に投下され、混ぜこぜにされて、騒々しいブラス・サウンド風味でいっしょくたに料理されている。
この膨大な質量と濃度のカオスを演出してみせたクストリッツァの胆力は、この作風を好む好まざるというのはあるにせよ、やはりたいしたものだというしかない。
― ― ―
本作のなかでも、中核を成すのが「戦争が終わったことを知らされないで地下生活を送る住人たち」というアイディアだ。
基となったのは映画の20年前に書かれていた戯曲で、クストリッツァはアイディアだけを生かして、戯曲の作家でもあるデュシャン・コヴァチェヴィッチとともに新たな脚本を書き上げたという。はたして横井庄一や小野田寛郎のことは知っていたのだろうか?
なんにせよここで描かれているのは、情報統制下で「ウソを真実と信じて幸福に生きている」社会主義国家の国民――支配階級に良いように使役される被支配階級の戯画である。
ヒットラーを信じナチスを奉じて連合国と戦ったドイツ国民。
ビン・ラディンを崇めてアルカイダに身を投じたテロリストたち。
プーチンに熱狂してウクライナ侵攻を支持するロシア国民。
トランプを神輿に担いで陰謀論にのめりこむQアノンの信奉者。
すべては似たり寄ったりで、それは戦中の日本もあまり変わらない。
「戦争が終わったことも知らないで地下生活を送っている」ときくと「滑稽でユーモラスでおバカ」に思えるかもしれないが、世界中の大半の国民は「大義名分を信じて戦争に加担した」過去があるわけで、実はそのへん似たり寄ったりというか、目くそ鼻くそというか、結局のところ大衆というものは、権力に騙されて搾取された挙句に加害者側に転ずるように「生来的に出来ている」のである。
一方で、クストリッツァは必ずしも「騙されている地下生活者」たちを「単なる無知で蒙昧な不幸な民」としては描いていない。むしろ、小さな地下世界をある種の「ユートピア」として捉え、圧倒的な活力と多幸感をもって生き生きと描きだしている。
時間軸までずれていくという綾辻行人の『●●館の殺人』みたいな話になっていてドギマギさせられるが、ある意味、日本でいうところの「隠れ里」や「マヨイガ」のような「閉じた桃源郷」感がある。
彼らを騙して使役しているマルコ(文民政治家というスタンスはチェコのハヴェルとかフランスのマルローとかいたけど、どのへんをモデルにしてるんだろう? チリのネルーダとか?)ですら、地上で政治家をやっているときよりも、地下に下りてみんなとわいわいやっているときのほうがはるかに愉しそうだ。
要するに、クストリッツァは「騙される国民」の愚かさとともに、考えることを放棄したがゆえの気楽さとかりそめの幸福をも、きわめてフェアに描き出しているわけだ。
近年反米色を強めて、親プーチンの姿勢を打ち出していたというクストリッツァが、ウクライナ侵攻についてどう考えているのかは、ぜひ伺ってみたいところでもある。
― ― ―
『アンダーグラウンド』は結果として、カンヌでパルムドールを受賞するに至ったし、今も多くの人から映画史上に残る傑作ともてはやされている。
僕自身、本作からは大きな感銘をうけた。
ただ、映画を十全に楽しめたかというと、正直理解できない部分やとっつきの悪い部分もたくさんあった。なぜかというと、本作は様々な要素が入り混じるカオスきわまる闇鍋映画とはいえ、本質的には「政治的寓意劇」であって、鑑賞と解釈においては、ユーゴスラビアの政治史と戦争史についての知識と理解が不可欠だと思われるのだが、僕にはこの東欧の戦中・戦後史に関する知識が完全に欠落しているからだ。
実際、『アンダーグラウンド』は一部の層から、猛烈な敵対的批評にされされてきたという。おもにフランスの批評家たちから「大セルビア主義」「民族主義者に迎合」と叩かれて、一時は映画監督廃業を宣言するまでの糾弾を食らったというのだ。
残念ながら、僕にこの件について言及することは難しい。何か書くといろいろウソを書いてしまいそうだ。
第二次大戦中にナチスに襲われて占領されたのは、まあわかった。
ただ、そのあとのパルチザンとソヴィエト共産党との関係、チトーの立ち位置、内戦に至るまでの民族紛争などについての知識が足りな過ぎて、映画が何をどうおちょくって、どんな寓意を秘めているのかがわからない。
一般論として地下世界が「社会主義体制下において囲い込まれて搾取されている民衆」の戯画として描かれているのは理解できる。でもこの映画には、本当はもっとユーゴの個別的な内情がヴィヴィッドに反映されているはずだし、見る人が見れば、セルビア人やクロアチア人などさまざまな人種が入り混じっていることだってわかるはずだ。
その意味では、東欧の文化と歴史、政治状況についてしっかり学んだあとに、もう一度じっくり鑑賞してみたい映画だし、どうもとっつきにくいのは、もともと5時間を超えるTVのミニシリーズとして撮られたものを劇場用に切り詰めたから純粋に筋が追いにくくなっているというのもあるっぽい。ぜひ次回は「完全版」で観てみたいものだ。
最後に……超どうでもいいことですが。
まさか「鹿」を「馬」と見間違えて「馬鹿」ってのは、東アジア圏以外でも通用するレトリックだったんだな(笑)。
実に壮絶だが独特の明るさにより救われる作品
ドイツのユーゴスラビア侵攻から逃れるべく、地下で武器をつくりながら15年もの間、
そこで生活を余儀なくされる人々と、その人々を騙して武器をつくらせつづける武器商人の話が軸だが
ここ最近で鑑賞した『哀れなるものたち』と『悪い子バビー』との共通点を見出してしまった。
地下で子どもが生まれ、ずっと地下で15年もの間過ごし、成長している子どもが
外の世界に出たときのまるで赤ちゃんあるいは幼児のような反応が
実にせつない。
やはり、子どもは育った環境や教育による影響を大きく受けるというのが、
戦術した別の映画との共通点だと思う。
ただ、そこはかとなく明るい雰囲気を周囲漂わせているのが
なんとも救いになっている。
それは音楽だったり、ちょっとした笑いの要素だったりするのだが、
物語の深刻性と相まって、実に良いバランスをとっていて
本作のクオリティを押し上げている要因とも言えると思う。
正直、フェイバリットかと言われると、そうではないのだが、
映画としてのつくりあがりは素晴らしいと思った。
戦争は今も昔も不幸しか生まない。
ラストシーンで全ての合点がいった
ものすごく騒々しく、ありえないほどカオス
こんなにも騒々しく奇妙奇天烈な世界観の映画は、『バベル』以来かも。第二次大戦中のユーゴズラビアで、ナチから身を隠すため20年も地下で生活する人々を描く反戦コメディで、言論統制が厳しい共産主義国家や民族分断なと、監督のエミール・クストリッツァの強烈なアイロニーに圧倒されます。国民を外界からシャットダウンした閉塞社会で管理する国家のメタファーは悪夢のようです。映画の出だしは何が起こっているのかさっぱり分からず結構イライラするけど、地下世界のリーダーが地上に脱出してからがぜん面白くなってきます。敵国だったナチはすでに存在せず、国家は分断されている残酷な玉手箱には呆然とします。役者さんは皆さん馴染みのない人ばかりだけど、旧ユーゴの出身だけに妙な騒擾感がありました。
今見ても良い作品。長いがおすすめ。
今年426本目(合計1,076本目/今月(2023年12月度)27本目)。
(参考)前期214本目(合計865本目/今月(2023年6月度まで))
この映画を楽しみにしていて見に行くことができました。
1920年以降のヨーロッパをメインとする国の歴史のifものですが、史実のほうの歴史の流れをある程度知っていないと展開が詰まってしまうのが一つの難で、しかもインド映画でもないのに180分級(3時間級)なのもきついです(まぁここでに書かれている通り、完全版だと5時間30分あるらしいですが…)。高校世界史程度の知識がないと何がなんだかわからない字幕も出ますのでそこは重要かなというところです。
高校世界史をちゃんと把握していればある程度楽しむこともできますが、いかんせん3時間級なのでお手洗いのことも考えると全て見切るのは「物理的に」難しく、補えなかった分はアマゾンプライム等で(あるのかな?)補うしかないところですが、ifものとはいえ、どこまでの知識を要するかが微妙なのでこの点が厳しいところです。
このように映画は史実を参照していることがあり、それを見ることにより史実に対する知識の上昇もあるので、私はこういった映画の見方はとても好きです。
採点としては特に減点対象まで見当たらないのでフルスコアにしています。
カンヌも平伏した
なるほと!だからアンダーグラウンドなのね!
【11.3✩⃛初回観賞】 評価:3.8
【12.9✩⃛2度目観賞】 評価:3.8➡︎4.2
初回観た時は全く事前情報を入れずに観たけど、結構な衝撃だったのであとからちょいちょい調べたらもう一度観たくなったところでstrangerで上映すると言う情報をGET💕(strangerさんありがとう!)
歴史的背景やユーゴスラビアと衰勢を知った上で観たらとってもためになる作品だと感じた。ここまできたら『完全版』にもチャレンジしたいなー。長いけど💦
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昨日の『悪い子バビー』に続き、これもまた“知らないこと”の悪夢映画だった。
・戦争が終わったことを知らないこと
・自分たちが騙されてると知らないこと
・国がなくなったことを知らずに生きてること
でも知ってたら幸せかというとそうでもない。
戦争っていうとトンデモナイ大きなものと感じるけど、実際には兄弟喧嘩とか友達や恋人同士のいざこざがエスカレートしたものの集合体なのかも。
結婚式が滞りなく催しできる平和な世の中がこの上ない幸せに思える。今ある平和に感謝💕どんな理由があっても戦争だけは絶対に起こしてはダメだよね🕊✌️
“クロ”役の役者さん、ロビン・ウィリアムズに見えた。“ナタリア”役の女優さん、檀れいみたい。チンパンジーって長生きなのねー。
チンパンジーが癒やし。
時間と空間の操り方が巧みである。それぞれの関係が見えないうちは混乱...
狂乱とファンタジー
えらいものを観た。
観終わってすぐの感想はそうだった。
とはいえ万人に受けるタイプの作品ではない。長いし。
シュールな笑い(実際には笑えないけど)に満ちている。
ナチス政権下での設定の映画は多数あるが
このような狂乱とファンタジーの味付けのされてるものは
少ないだろう。
チャップリンをも彷彿とするブラックコメディ、
そして地下生活でも逞しく生活を続ける人々。
ここでは長年ゲリラ生活で耐えたベトナムの人々をも
思い出した。
しかしそれだけで話は終わらない。
ナチスが終わってからも彼らの人生は続く。
愚かしいまでの欲望にまみれたり
時代遅れともいえる信念に殉じるのは
滑稽でさえある。
大変で辛いようなことも度を越えてしまうと
笑えてくる、そんな世界を観ているようで
ともかく突き抜けた一本だ。
一つ戦争が終わった、解放されたと
思っても次々と火種があり
ほとほと人間というものは
愚かで救いがないと思わせるのだが
ラストが本当はこうありたかったと思わせる
世界で胸が切なくなる。
国は消えてしまった。
漂流していく彼らは止まるところがあるのだろうか。
正直冒頭からこの映画のノリになかなか
ついて行くのが大変なのだが
果たしてこんな映画を
そうそう作れるものだろうか?
めったにお目にかかれるものではないと思う。
ストーリーも映像も音楽も、とにかく独特な作品
思った内容と全然違った。独特なパーティー音楽に乗せた乱痴気騒ぎ、そしてブラックな笑い満載の破天荒なストーリーと登場人物。上映時間170分も結構観入ってしまったためさほど長さは感じなかったものの、観終えた時は良くも悪くもお腹いっぱい。気に入ったシーンをダイジェストで繰り返し観る元気ももはや無し。
一般的には評価の高い作品だが、独特過ぎて好き嫌いは分かれそう。個人的にはもう一度ぜひ観たい、というほどではなかったのが正直なところ。
あれっ、これってどういうことっ、て不意をつかれるラストシーンは余韻を残す。どう解釈すべきか。
観終えた時、どういうわけか「どつかれてアンダルシア(仮)」を思い出した。
クストリッツァとアンゲロプロス
テオ・アンゲロプロスが張り詰めた氷のような静謐の中で厳粛に歴史を辿る映像作家だとすれば、エミール・クストリッツァはパッショネイトな喧騒の中で酔っ払って転げながら歴史を駆け抜ける映像作家だといえる。巨大な歴史遊覧船がボスニア・ヘルツェゴビナ紛争という暗礁に乗り上げるという顛末まで含めてアンゲロプロスの『ユリシーズの瞳』と本作は酷似している。思えばフェリーニ的祝祭に興じる人々が川にせり出した島ごと切り離されて沖合に流れていくラストシーンなんかはもうそのまんま『シテール島への船出』のラストシーンと同じだ。
民族も国家も喪失した彼らが行き着く場所はもうどこにもないのかもしれない。たとえどれだけ酔っ払おうが騒ごうが個人的な人間関係の再生手続きを行おうが、歴史のダイナミズムはそれとは関係なしに人々を引っ張り回し続ける。それゆえに「この物語に終わりはない」。スタイル的には陰陽真逆な二人の作家が歴史的彷徨の果てに全く同じ問題圏に座礁してしまったあたりに、フィクションに対する現実の途方もない巨大さを感じた。そうとわかっていながらなおかつそれをフィクションの中に、しかもきわめてアレゴリカルな形で落とし込もうと試みる二人の気概にはただただ感服するばかりだ。
本作の全編を貫くカオスな様相は、クストリッツァなりの歴史に対するオネスティの表れなのではないかと思った。途方もなく巨大な歴史の波濤を、できる限り腕を大きく広げて、できる限り抱き止め、できる限り映像に刻印する。それゆえ展開されるカオス。丹念に執拗にある一点を見つめ続けることで歴史のほうにその暗部を吐き出させるアンゲロプロスのやり方とはこれまた対照的だ。スマートさでいえばアンゲロプロスに軍配が上がるんだろうけど、私としてはアレもコレもと手当たり次第荒唐無稽にひっ捕まえていくクストリッツァの焦りにも似た作劇も愛おしいし尊敬できる。というかそもそも、どれだけ無茶苦茶やってもどっかで一本芯が通ってればそれで全部オッケーなのがフィクションなのだし。
『白猫・黒猫』でも思ったことだが、クストリッツァは本当に動物に演じさせるのが上手い。動物たちにそんな気は毛頭ないんだろうけど、たとえばイヴァンが飼っていたサルなんかはもはや立派なキャストの一人だ。あと動物の羽や毛を雑巾代わりに使うシーンがもう一度拝めるとは思わなかった。『白猫・黒猫』では肥溜めに落ちた半グレのオッサンがその辺にいたアヒルで体を拭いていたシーンが、そして本作ではクロが猫で自分の靴をゴシゴシ磨くシーンが。不謹慎といえば不謹慎だけど単純に映像として面白すぎるから困る。
『真実は肉体にやどり、芸術は嘘だ。』 正に! えっ!パルム・ドール??こんな映画だから、パルム・ドール何だね。
似ている映画を思い出した。『まぼろしの市街戦』今一、ピンと来なかったって覚えている。まぁ、この映画は、
『酔っ払った奴らががなり立てる宴会を見続けるって感じ』かなぁ。
要は不条理なドタバタ映画。但し、ハリウッドのパイ合戦ポルカが出るような陽気なところは何一つ無い。
『かつて国があった』と言うが、それをどう思っているのか?それが分からない。勿論、立場によって違う訳だが、この監督がどの民族なのかわからないので、どうとらえて良いのか?分からない。彼はロマ族なのだろうか?そうならば、支配する国がどこであれ、そんなことはあまり意味が無い。そう考えるとこの監督のこの映画は、ロマ族を利用して、面白おかしく作った映画に見える。
ユーゴスラビアの社会主義はソ連の影響が薄い社会主義国であったことは、当時(昔)から有名で、チトーが率いる社会主義をルーマニアのチェウセスク(勿論、独裁者だろうが)と並んで、新しい社会主義ともてはやしていたと記憶する。何故なら、チトーは連合国側の援助で、パルチザン運動をやって、戦後いち早く、スターリンと決別している。さて、チトーが独裁者であって、大戦後の混乱が、チトーの責任だと単純に断定して良いのだろうか?
この映画では、共産主義の名の元、『そうだ』と語られている。僕は当事者ではないのでわからないが、イデオロギー(共産主義)まで、ここで論ずるのは些か勇み足だと思う。ましてや、幾人もの尊い命が奪われた内戦である。こんな面白くもないコメディで語ってもらいたくないと思った。やはり、男目線な争いの総括に見える。
やっぱり、この監督はセルビア人。つまり、旧ユーゴスラビアを良しとする側。そして、チトーはハンガリー人って記載されている。兎も角、セルビア人を今のロシア人見たく、言っていた時代もあったことは忘れるべきではない。
『共産主義は地下のようなものだ』と言ったセリフが出てくるが、ソ連もユーゴスラビアも共産主義ではない。この映画は、巧妙に作られたプロパガンダ映画の様な気がする。
あの差別映画(ジプシーの時)の監督ですか? なるほど、旧ユーゴスラビアの復活を望むセルビア人が、ロマ族やユダヤ人を擁護したり、理解を示す訳がない。
バルカン半島のスカパラ?
紛争という狂気
ドイツ占領下の映画の撮影シーン以降、一気に引き込まれた。
シャガールの絵画の花嫁のように舞う白いドレスの娘、初めて地上の世界に触れたヨヴァンの無垢な表情、炎に包まれて回る車椅子、陽気な音楽と共に踊り続ける人々…。
幻想の中にのみ楽園は存在し得るのだろうか。
ー 昔、或るところに国があったと
NHK-BSを録画にて鑑賞 (字幕版)
寺山修司
ユーゴスラビアの歴史に思いを馳せ、心打たれるラストシーン!
1996年の劇場公開の後には
なかなか再鑑賞することは叶わなかったが、
NHKBSで放映され、
ようやく観ることが出来た。
3時間近い長尺で、主人公3人の三角関係の
描写が長過ぎたきらいがあるが、
「フィールド・オブ・ドリームス」を
観たばかりと言うこともあり、
これこそが、本物の寓話・ファンタジー映画
との意味合いで
「フィールド…」に感動された方々にも
感動出来なかった方々にも、
本作をお薦めしたいと思った。
評論家の解説によると、クストリッツァ監督は
フェリーニが好きだとか、
社会風刺性をルビッチ監督の
「生きるべきか死ぬべきか」に
重ね合わせたとあり、
冒頭等のバンドの行進場面にフェリーニを、
地上に出たクロが撮影隊を
本当のドイツ軍と勘違いする設定等には
ルビッチを感じた。
ユーゴスラビアについては、
映画「最後の橋」「ネレトバの戦い」
等からの情報で、
ドイツ軍等へのパルチザン抵抗と
その後のチトー大統領による
社会主義連邦国家への経緯を、
また90年代には、
昨日までは仲の良い付き合いだった
近隣同士の殺し合いという悲劇が
毎日のようにテレビで伝えられた内戦を
目の当たりにして、何かと
戦火に翻弄された国家とのイメージだった。
それだけにマルコを歴史の登場人物として
重ね合わせた実写フィルムは、
ドラマの大事な進行要素であると共に
真実のユーゴスラビア史を
再確認させてくれて秀逸だった。
そんなイメージの中でのラストシーンは、
本土から離れていく小島上での
陽気で明るい酒宴の場面だ。
あたかもユーゴスラビアの数々の困難を
笑い飛ばしてしまえ、
との描写のようにも見える。
しかし、私は涙が止まらなかった。
ユーゴスラビアに外国勢力の侵入が無く、
血で血を洗う内戦も無く、
この楽園のように、
共に飲んで歌って踊り合えることが出来る、
誰にも邪魔されない国だったらとの
製作陣の切なる想いだったのではないかと
想像して胸打たれるばかりだった。
昔、あるところに国があった
軽快なブラスバンドにコメディタッチに進んでゆくが後半のユーゴ内戦の部分はとても重くてショッキングだった。
そんな最後に今まで死んでいったキャラたちが集まって明るく何かパーティを開いて仲直りして語り合っている場面は救いがあった。
そのうちの一人が「昔、あるところに国があった」と伝える場面
亡くなってしまった祖国に思いをはせ、辛い内戦を嘆いているのだなと感じた。
昔を美化しているという意見もあるけれどやはり生まれた者にはそこが美しく感じるのでなかろうか、婆さんも満州生まれでそこの思い出をたまに語ることがあるけれどこの映画を見ていたらそのことを思い出した。
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