サウダーヂのレビュー・感想・評価
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土方、移民、ヒップホップ
<ヒップホップの越境性とナショナリズム>
ヒップホップと移民問題。この一見して無関係にも思える二項がなぜ違和感なく混じり合っているのか。そこにはヒップホップという音楽ジャンルが根本的に孕むアンビバレンスが深く関係しているように思う。数ある音楽ジャンルの中でも、ヒップホップほど引用(=サンプリング)のカルチャーが盛んなものはないだろう。無論リリックにおける時空超越的な符号も散見されるのだが、やはりビートにおけるサンプリングはよりダイレクトだ。
例を挙げればキリがないのでここは恣意的にいこう。私の好きなLIBROの代表的ナンバー「雨降りの月曜」。これはブラジルのピアニスト、テノーリオ・ジュニオールがリーダーを務めたアルバム「Embalo」所収の「Nebulosa」の冒頭部をほとんどそのままサンプリングしている。テノーリオ・ジュニオールは60年代にアルゼンチン軍事独裁政権の手下に過激活動派と勘違いされ、拷問の果てに殺害されており、したがって本アルバムは呪われたアルバムとしても広く知られている。アルバムを覆う暗澹たる歴史をそのまま引き受け、そこへ鬱屈としたリリックを乗せたLIBROの真摯な文脈性が光る名ナンバーだ。
ここで注目すべきは、サンプリング元となる「ネタ」がヒップホップとの結節点を必ずしも持っておらず、また国や言語の壁をいとも簡単に超越しているという点だ。ヒップホップは遍く全世界の音楽を貪欲に吸収し、自らの血肉にしてしまう。
実際、劇中でもヒップホップグループ「ARMY VILLEGE」のクルーが沖縄民謡と思しき音楽をサンプリングしているシーンがあった。こうした無差別的な越境性がヒップホップという音楽ジャンルを大きく特徴づけていることは疑いようがない。
しかし同時に、ヒップホップは自閉的なベクトルをも有している。ここにはヒップホップの地域性の強さが関係している。以下のデータではヒップホップにおける「レペゼン(=represent)文化」からラッパー(ここではBADHOP)と地域の関係性が考察されている。
”BADHOPはHIPHOPに出会い、自分たちの存在を、自分たち自身で定義した。それは、その場所ならではの表現で、自分の「生き様」をラップすることであり、それこそが紛れもなく、“レペゼン”なのである。「その場所ならではの 表現で、自分の「生き様」をラップすること」=「自分が所属している地域や所属しているグループを誇りに思い、そこを代表する気持ちを持ち発信すること」が等号で結ばれる。 つまり、「自分のアイデンティティーと地域やグループのアイ デンティティーは同一である」のだ。自分と地域は切り離せないし、自分とグループは切り離せない。”
(「HIPHOP における”レペゼン”という行為から 考察する、ラッパーと地域の関係性」)
しかしこの地域性の強さは常に排外主義と表裏一体の関係にある。過熱した「俺たち最高!」は裏を返せば「俺たち以外最低」なのだ。
そもそもヒップホップカルチャーを担ってきたのは、70〜80年代であれば「ヤンキー」とか「暴走族」とか呼ばれていた層である(彼らもまた地域内で「族」を作り、「ヨソ者」と抗争を繰り広げた)。そしてヤンキーや暴走族が反社会組織や右翼団体としばしば蜜月関係にあったように、同じ原脈をもつヒップホップカルチャーもまたそうした勢力と深い関わりがある。
要するに、ヒップホップの根底には二つの相反する系列が潜んでいる。一つは全世界を分け隔てなく接続する越境性、もう一つは過熱した地域愛がもたらす排外主義的ナショナリズムだ。
ARMY VILLEGEの面々は、ヒップホップが宿命的に背負い持つ上記のアンビバレンスに深く葛藤する羽目になる。その契機となるのは、彼らの活動拠点である山梨県甲府市界隈におけるブラジル人ヒップホップコミュニティの台頭だ。彼らは界隈内のハコを定期的に借り上げ、夜な夜なヒップホップイベントを開催していた。しかしもともと甲府を根城にしているARMY VILLEGEにとって彼らの「侵略」は歓迎できたものではない。案の定ARMY VILLEGEとブラジル人コミュニティは衝突を起こし、互いの仲は険悪化する。
クルーの中でリーダー的存在の猛は、外国人労働者の大量流入のせいで自分の仕事のパイが奪われているということもあってか、次第に移民への憎悪を深めていく。一方で他のクルーたちはブラジル人ヒップホップグループ「スモールパーク」の非言語的なパッションを虚心に認め、自らの音楽的モチベーションを高めていく。
言わずもがな、ここではブラジル人たちは「豊穣な音楽的異郷」と「憎むべきヨソ者」を同時に備えた存在としてARMY VILLEGEの前に立ち現れている。それはヒップホップが抱える矛盾性を否応無く露呈させる。ゆえにARMY VILLEGEは正と負の両方に向かって分裂を遂げる。猛は旭日旗はためくミリタリーグッズ店に売られていたナイフでブラジル人クルーを刺し殺す。警察に引き渡されていく猛を見送る他のクルーたちの視線は冷たい。
<言葉を交わしても容易に達成され得ない民族融和>
本作には主人公的な立ち位置の登場人物が二人いる。一人はARMY VILLEGEの猛で、もう一人は現場作業員の精司だ。精司は現場作業員である自分自身に屈辱と誇りを同程度に抱いている。泥にまみれ「土方」と揶揄される職業。しかし一方でどんな時代においても絶対に食いっぱぐれることのない職業。しかし時代の趨勢とともに現場作業員をめぐる処遇も変容していく。
本作の公開は2011年の冬だが、本作の撮影は東日本大震災より前、すなわち2009〜2010年頃に行われた。これは2008年のリーマンショックの直後であり、北京オリンピックの直後でもある。ちなみに日本はリーマンショックの影響が他の先進国よりも色濃かった。また各地で鉄鋼の盗難被害が多発するほどの興隆をみせた北京オリンピック特需も、オリンピックの終了に伴い沈静化していった。そして日本は未だ出口の見えない未曾有の不景気へと突入していくこととなる。
劇中、幾度となく反復される従業員のリストラシーンは、こうした当時の暗澹たる時勢を反映したものであるといえる。日本人だろうがブラジル人だろうが、不景気はお構いなしに人々から労働の権利を剥奪していった。しかし日本人であるならばまだいい。「日本は天国だ」という甘言に踊らされ一家総出で日本に移住してきたブラジル人たちは経済的困窮から故郷への帰投を余儀なくされる。それらを見送る他のブラジル人たちのセリフもまた悲痛この上ない。「俺もすぐ行くよ」。
留まるところを知らぬリストラの連鎖は精司にも波及する。当然、彼の現場作業員としてのプライドは完全に瓦解してしまう。追い討ちをかけるかのように、彼の妻である恵子は資本主義の権化のような政治家に入れ込み、後援会の主要メンバーとなってしまう。
そんな彼の唯一の精神的拠り所となるのがタイ王国の存在だ。彼は現場で出会ったタイ人帰りの保坂にタイパブへ連れて行かれる。精司は「食いっぱぐれない現場作業員」という神話にヒビが入っていく現実から逃避するように、タイパブ嬢のミャオにのめり込んでいく。保坂とミャオを通じて、精司のタイへの憧れは次第に強まっていく。
終盤、精司とミャオは不倫旅行に出かける。ここからの二人のやり取りは民族融和というものがいかに困難であるかを示唆している。納豆を美味しそうに頬張る精司と、嫌がるミャオ。精司が冗談混じりに「日本人なら納豆くらい食えなきゃ」と嘯くと、ミャオは納豆に手をつける。精司が制止すると、ミャオは「私は日本人になりたいの!」と喚く。その後、精司はミャオに「一緒にタイに行こう」と持ちかけるが、ミャオは激しく反対する。彼女は精司のタイへの傾倒ぶりの正体が、無責任なユートピア幻想であることを見抜いていた。楽園などどこにも存在しない。「資本主義は悪」というテーゼは正しいが幼稚である。自分の稼ぎで祖国の家族を養っているミャオにとっては、高尚な思想が何ら自分らの生活に寄与しないことを知っている。だから彼女は決然と言い放つ。「私はお金が欲しい!」
異なる民族と民族の間には、情緒・文化的な溝のみならず経済的な溝もまた横たわっているということ。言葉や所作で前者を埋めることはできても、後者はそうはいかない。しかし前述の通り、「資本主義は悪」と叫ぶことは現実を微塵たりとも好転させない。行き場を失った精司が死ぬ前の走馬灯のような光景を幻視したのちに無人のシャッター街で立ち往生を迎えるのは必然的な帰結だといえる。
<カットとカットの間にのみ顕れる融和の可能性>
とはいえ本作はごく単純な民族断絶というニヒリズムには帰着しない。物語上は決定的な断絶を迎えたにもかかわらず、これは一体どういうことなのだろうか。私が着目するのは、本作における巧みな「編集」だ。
ソ連の映画理論家レフ・クレショフは「クレショフ効果」という有名な説を提唱している。これは「映像群がモンタージュ(編集)され、映像の前後が変化することによって生じる意味や解釈の変化(ウィキペディアより)」のことを指す。例えば「首を縦に振っている男」のカットがあるとする。その直前に「指揮棒を振る指揮者」のカットが挟まれていた場合と「授業をする大学教授」のカットが挟まれていた場合では、男が首を振っている理由に解釈の差異が生じる。前者では男は「リズムに乗っている」ように見え、後者では「納得し頷いている」ように見える。
要するに映画はカットを操作することによってどこまでも壮大な虚構を生み出すことができる。前後に空を仰ぐ群衆のカットがあるがゆえにゴジラは「着ぐるみプロレスラー」ではなく「巨大怪獣」たり得るのだ。
さて、それでは本作の場合は何と何が接合された結果として何が生まれているのか。
最も印象的なのは中盤、精司たちが重機の故障により仕方なくスコップで土脈を手掘りするシーンだ。そこにスモールパークのリリックが重なり、そのまま彼らのカットへと移行する。スモールパークのリリックは異国の地で奮闘するブラジル人たちをエンパワーメントするようなナショナリスティックなものだが、それが掘削作業に勤しむ精司たちと重なり合うと、あたかも普遍的な労働者讃美歌のような響きが生まれる。物語上は一度たりとも接点がない、あるいは敵対しているはずの日本人労働者とブラジル人コミュニティが、巧みなモンタージュによって通じ合い、連帯し合う。
こういったシーンは他にもある。例えば、精司たちがタイパブで飲んだくれているカットと、スモールパークがライブハウスでライブしているカット。おそらく意図的にイマジナリーラインを厳守した二つのカットは、まるで両者が同じ空間に存在しているかのような錯覚を引き起こす。つまり、精司たちがスモールパークのライブを鑑賞しているかのようにみえるのだ。
これらの編集上の重なりがもたらすのは、日本人と移民の民族融和の可能性だ。確かに、本作の物語が何より雄弁に語っている通り、民族融和というものは非常に難しい。本作の物語が安易な「解決」に安住しなかったのは、民族融和の困難性に対する真摯さの表れだといえる。しかし一方で決して「断絶は仕方ない」ということが言いたいわけでもない。
さて、本作はこのアポリアを解消すべく「物語」を離れ「編集」へと目を向けた。一見して全く無関係なカットとカットを繋ぎ合わせることでそこに共振を発生させ、それを僅かな民族融和の可能性として画面上に提示したのだ。ゆえに本作は絶望的な物語でありながらも、巷間に溢れる露悪趣味的な「胸糞映画」とは一線を画しているといえる。
サウダージとはよくつけたタイトル
正直一言で感想を述べるならば、だり〜わぁ。だが
この映画の描き出す世界は実は平和ボケした日本の片田舎で繰り広げられるスリリングなグローバリゼーションの駆け引きが描かれていて相当に面白いのである。
だが、まじ展開がガンジャペースでスローだからだっり〜ぃ。のだ。まあ個人的には思うところが得られたので良しとする映画。今日は余韻に浸りつつ「回るftRITTO&田我流」聴いておやすみしよう🌙⭐政治家が一番のギャングスタw
今はすっかり表面化してる、今こそ見たい!!
念願の空族、サウダージをスクリーンで拝見。短いカット、ぶつ切りのシーンの連続がリアルさを出している。噂通り素晴らしい作品だがわかりにくいところもあり、今回復刻されたというパンフレットを購入。ロカルノ映画祭での会見でも他のインタビューでも、まだあまり移民の問題外国人の問題は表面化されてない、問題として認識されてないというお話があったが、それより前の時代世代のアジアやブラジルからの出稼ぎ(パンフレットにしっかり記載あり、素晴らしい)、コミュニティのことも監督より少し年長の自分はいろいろ思い出し、研修制度という公的機関公認の搾取とか、今では牛久、大村、品川などの入管での非常識、国家による犯罪レベルの日本の難民移民施策、デジタルリマスター版を拝見する2021年はコロナと相まって、本当に醜悪な事態となっている。この映画の背景、時代はリーマンショック、北京オリンピックとのことですが今はすっかり表面化した上でさらに悪い状況。それはそれとして、ブラジルっ子のラップも地元っ子のラップもなかなか突き刺さる。日本は伝統的に私小説のお国柄、ブラジルはカトリックが多いのかな神の慈愛と隣人愛がラップに現れる。故郷となる自国に対する考えも、日本は右が左かなんもなしか、ブレ幅がすごい、軸がないから。
それはそれとして、映画として表現としての勢い、伝えたこと、が映像、役者、台本、音楽全てからガンガン伝わってくる。
東京の人から見ると、地方都市(失礼な言い方だが、、東京大阪以外という意味で)のありよう、暮らし、風景は、私には外国の同じレベルくらいに、違うなあ、と思う、そのことがすごくリアルに伝わってきた。山梨だから、そんなに東京から遠くないんだけど。タイ、ブラジル、フィリピンの人たち、山梨のローカルの人たち、東京行ってやばいことになり壊れちゃった人もいて、この、すごい違和感、差異を改めて認識した。他者、他人との関わり、て、ほんとに土の匂いを知ってる知ってないに関わらず土の匂いがあることをまず知ろうとすること、その土を掘ったら地球の裏側のブラジルよね、タイも近くよね、て思うし、私小説的に自分の周りの小さな半径で生きてる日本の人日本社会は自ら世界を狭くして世間を小さくして、そしてめっちゃその中で迷惑かけて外国の人にまで迷惑かけてるんじゃない?ブラジル人が介護する老人ホームのおばあちゃんの家族がブラジル移民した、貴重なコーヒーを送ってもらった、あなたがたの国によくしてもらった、とお礼を言う場面、このシーンとてもすごい、一言一言に深い意味と思いがある、そして連鎖を強く意識する。
監督さんたちがおっしゃる通り何度も見るべき映画だし何度も見たくなる。
パンフレットは渾身の、というにふさわしい、マストリードだと思う。
納める額より恩恵の方が多いと思います。
山梨県は甲府辺りを舞台に、30代半ば土方仕事一筋の男と、彼の職場にやって来た男達のぶっ飛び話や鬱憤話や町に住む外国人を見せて行く物語。
タイ人パブのお姉ちゃんに入れ込む男や、何でタイに住んでた?な新人さんとの考えの違いにモヤモヤを募らせる若者ラッパーから始まり、それぞれ拗らせていく展開。
登場人物の殆どが、何を言ってるのか良くわからない支離滅裂な感じはある意味秀逸だけど、ちょっとやり過ぎじゃないですかw
そして若者達、君達そんなに右向いてますか!?
鬱屈としたものは伝わってくるけれど、それ要りますか?な短いシーンなども盛り沢山に散りばめられるし、ホントにそれOKテイクですか?なグズグズシーンも多いしで非常に長いしテンポも悪い。まさかラッパー君と同じ様なモヤモヤを募らせる狙いですかね。
言いたいことはわからなくもないところもあったけれど、みんなただの視野狭窄で卑屈なコンプレックス野郎だし、半分の尺で充分かなと。
濁流に飲み込まれた人たち
問答無用、世紀の大傑作。ソフト化されていないのでたまに劇場で上映されまして、俺は今回3回目の鑑賞でした。
本作は地方都市の衰退を、当事者である土方やその妻、ラッパーやブラジル人の群像劇です。
時代に流され、自分自身の力ではどうにもならなくなった人たちの郷愁が、バカらしく無情に、そして何よりも切実に哀しく描かれております。
主人公のひとり、土方のセイジは仕事がどんどん減っており、嫁ともうまくいかない。行きつけのタイパブの女の子・ミャオちゃんにすがるように付き合っている。
セイジの嫁もエステシャンとして生計を立てているが、子どももおらず、どこか満たされない。
ラッパーのアマノは両親が破産し、怒りと不満を抱えて生きており、その矛先がライブでトラブったブラジル人たちに向けられていく。
イベンターで介護士として働くマヒルは、一度東京に逃げたが地元に戻り、絵空事のラブ&ピースを唱えてドラッグに逃げている。
彼らの鬱屈の大きな背景には、地方都市経済の崩壊があると思われます。詳しくわからないけど、以前は地方の小さい商店や職人さんたちは割と保護されていて、その街の中で生計を立てて行けたのです。しかし、自由主義経済がやってきて保護がなくなり、自由入札となると、大手だけが肥えふとり、零細企業はどんどん死んでいくのです。
本作はシャッター商店街やどんどん仕事がなくなっていく土方が描かれてましたが、この辺の事情が影響しており、それゆえ登場人物が安心して地元で生きれないのです。
(直接影響があるのはセイジ夫妻くらいかもしれないけど、間接的には登場人物のほとんどが影響を受けている)
土方は食いっぱぐれない、セイジはその言葉を信じて生きてきました。しかし、現実は違う。時代が変わり、食いっぱぐれ始めたのです。『こうすれば大丈夫』というものがなくなり、どうすればいいかは提示されない。セイジは守るものもなく、タイ人のミャオにすがり、逃避せざるを得なかったのだと思います。
アマノもマヒルも現実がキツすぎる。身も蓋もないですが、安定した社会的地位や収入が約束されやすい、または未来に希望を持ちやすい環境ならば、2人とも(特にアマノは能力もあるし)今とは違う、穏やかな人生を送った可能性が高いです。
濁流。濁流なんですよ、彼らを襲っているものは!とてもじゃないけど抗えないのです。
本作では誰もコミュニケーションを取ることができません。自分のことばっかり。本作での『愛している』という言葉は、『私の不安をごまかすために私の望むような存在でいて』という意味でしかありません。
でも、そんなのしょうがないんですよ!濁流に飲み込まれ、息もできない人が他人なんて思いやれる訳がないのです。本作に出てくる自分中心主義はただただ切実です。もはや、何かにすがるしかない。
愛も夢も空回りで、何ひとつ残っていないのです。
本作の白眉は、クライマックスでセイジが見る幻です。
80年代くらいの商店街。ヤンキーが改造車を走らせ街はお祭り騒ぎ。おそらくセイジが少年時代に見た、そこにはかつて確かにあった風景なのです。
この場面は涙せずにいられなかった!なぜならば俺もその風景を見ていたから。この幻影の場面でかかる曲も、まさにそのとき流れていました。
濁流に飲まれた者は、たとえ生き残ってもその怒りや悲しみは消えないのです。
本作はこれからもたびたび鑑賞せざるを得ない、自分の心の奥底が欲し続けるガーエーなのだの改めて実感しました。
美しい国
ある者は、薬物とタイに夢を見出します。
ある者は、ラブ&ピースに夢を見出します。
ある者は、女との海外移住に夢を見出します。
ある者は、怪しげな水に夢を見出します。
ある者は、日本人という存在に夢を見出します。
私は架空である映画というものを通して、現実を直視しないで蓋をしてきた日本の恐ろしい現実を観てしまったようです。いつの間にか行き場をなくした人で埋め尽くされる日本という美しい国の正体を。
八方塞がり感
ソフト化されていない(監督がしていない)本作。まずはこの作品を観る機会(ワーカーズ2014映画祭)を作ってくれた日本大学藝術学部の学生さんにこの場を借りてお礼申し上げます。
評判通りなんというか強度の高い作品でした。今いる場所に希望を失い、自分が出て行こうとする者と他者を追い出そうとする者の対比が興味深い。その今いる場所というのがなんというか、強いとしか形容できない映像で描かれる実際の地方都市というのも考えさせられる。とにかく登場人物の八方塞がり感が素晴らしい。一番問題なさそうなのが地元で自分たちの世界が完結している、今で言うマイルドヤンキー達というのもありそうな感じで好きです。
インディーズとはとても思えない。
この映画は甲府という一種の閉鎖空間における人々の日常を正しく映した。
ドキュメンタリー映画と言えるのかもしれない。
こんなに切なく苦しく、人が生きるということを観察した映画は少ない。
サウダーヂ=ここではないどこか。
という夢の場所を探し求める人々は一体どこへ行ってしまうのだろうか。
地方都市の持つ矛盾、それに対する葛藤、苛立ち、そういうものが全てこの中に包まれている。
役者も監督も普段からそれだけをやっている人々というわけではなく、本当の意味で自主映画という感じで、しかしながら自主映画という範囲のものではなくもっと一般的な映画会社がつくったのではないかというクオリティの映画で素晴らしかった。
これぞザ・リアルΣd(゚∀゚d)イカス!
2時間40分もある長い映画いだけど・・・
全然長さを感じさせない大傑作(・∀・)
バブル期に日本は公共事業に投資しまくって空前絶後の好景気を成し遂げたものの・・・
そこから先は坂道を転がるような大不況に(;´∀`)
そんな閉塞感たっぷりな社会で、様々な思いが入り混じって見事な群像劇に仕上がってる(゚∀゚)
日本人もタイ人もブラジル人も、みんな同じ人間。
そこはやっぱり同じサウダージ(憧れ)を持ってる。
それが郷愁だったり、家族だったり、ここではないどこかへの憧れだったりする。
タイパブの女の子に入れ込むあまり「俺とタイで一緒に暮らそう」と迫るも「私はお金が欲しい」と正面切ってその憧れを断ち切られる男。
一緒に働いてる同僚は、ラッパー志望で夢を実現しようとするけどなかなか思うようにいかずライバルに水をあけられて、ついにはそいつを刺殺してしまう。
その後輩の女の子は、東京に行くもうまくいかず傷心のうちに帰郷して、良く分からんスピリチュアル的なものにはまって自分の居場所を探そうと必死。
タイ人の子に入れ込む旦那を横目に、奥さんはエステで働いてて怪しげな水を売るスピリチュアル系の商売をする女が客に来てビジネスに誘われて入れ込んでいく。
しかしその女も、財産があって生活には何不自由ないのに実はNo.1のデリヘル嬢。
ブラジル人労働者は仕事を次々となくし、帰郷せざるを得ない状況にまで追い込まれ、その仕事を斡旋してる派遣会社に努めるブラジル人も帰郷してしまう。
現状に満足してるのはマリファナの売人と女の子3人組の美神会のみ( ゚д゚ )
しかしこんなにマリファナが出てくる日本映画今まであったか???Σ(゚Д゚ノ)ノ
さらに美神会のキャラもΣd(゚∀゚d)イカス!
宮台真司さんも怪しげな政治家を熱演してて良かった(゚∀゚)
それぞれの関係性の中でサウダージが連綿と連なってる様子は見事としか言いようがない( ゚∀゚ノノ゙パチパチパチ
有名な役者を誰も使ってない中で、それぞれの演技もキャラも立っててすごくいいと思う。
やーさんの親分も本物の親分をキャスティングしてて、あれは演技じゃなくてまじでびびってるというのもすごくいい(。_。(゚д゚(。_。(゚д゚ )ウンウン
繁華街でフリースタイルラップをするところのかっこ良さはスンゲェ──―Σ(゚∀゚ノ)ノ─―─ッ!
異常なくらいの完成度ですよこれd( ^ω゚ )バッチリ!!
クライマックスからラストに行く怒涛の展開はさすが(・∀・)
最後の田我流の「俺・・・自首するわ!!」って言う時の泣き笑いの表情もすごく(・∀・)イイ!!
台詞や演技テンションだけじゃなく、今の日本の閉塞感をリアルに描ききれてると思う。
観ててとにかく痛々しいし身につまされるし、日本という国の縮図がここに凝縮されてる感じ。
インディペンデント映画でこれだけの重厚さと完成度、さらにテーマ性を持たせてるのは見事としか言いようがない。
さらに監督の映画愛と社会に対する痛烈なメッセージ、そしてこれを作りきった情熱と志は本っっっ当に頭が下がります<(_ _)>
ビッグバジェットでくそ映画、誰得映画を乱発させてる今の日本の映画界にも一石を投じる重要な作品だと思う。
広告代理店やテレビ局、芸能プロ、スポンサーの言いなりになってるだけの有名な監督やプロデューサーはこれを観て映画の原点に戻れ!!!!(`・д・´)9m ビシッ!!
日本映画界の宝ですよこれはワチョ――ヽ(・∀・)ノ――イ♪
リアリティー溢れる映像
薄々TV等の情報で知っていた地方の実態をリアリティー溢れる映像で思い知った。
女性の視点だと、(私の視点だと)ミャオに入れあげる土方の彼の駄目さ加減にイライラしたりしたんですが。。
(男)I hate money → (女)I need money だったかな。当然の話ですよね。
映画の出来とは別に、私が嫌いなキャラばかり出ていたのがイライラの原因かも。イライラさせる力が、この映画にあるって事だけども。
イライラは別として、リアルにありそうなストーリーやキャラは良かった。
私は期待しすぎてガッカリした感は否めないけど、一緒に観に行ったダンナは高評価だった。
男性には好印象なのかな。
登場人物の実在感がすごい
最初見たとき寝てしまったので、新潟での上映でまた見てきた。登場人物の実在感がすごい。本当にそういう人を連れてきてそのまま場面をやってもらったのを撮影したとしか思えない。山梨のその夏の数日間をドキュメントとは違う形で実際の場面を撮影しているんじゃないかと錯覚してしまうほどであった。音楽とドラッグの描写が素晴らしい。
ドラマとしてはなんてことないんだけど、すごい映画だった。
ビンがセイジに「だったら離婚だよ離婚」と土方の仕事現場を歩きながらヘラヘラ語る場面がある。そういってくれる人がいると本当に気が楽になる。どうなるかなんて分からないんだから、適当に好き勝手にやればいいではないか、そんな適当な優しさに満ちた映画であった。
おい、そいつは敵じゃない!刺す相手を間違えんなっ!!
山をつぶし道つくり、ダムつくったり、田畑を潰し高速道路や新幹線通したりと公共の土木事業で金を地方にばらまいてきた昭和イケイケのニッポンは、バブル崩壊、長引く不況、地方はどんどん高齢化して、日系ブラジル人も働き場所がなくて、ヤクザもシノギに困ってますという絶望的な状況を観る側に突付けるディストピアもの。自民党さんとその他の野党さんが一致団結して作ったニッポンがこのザマと痛感。映画見終わって館から出たとき、間違いなく世界が違ってみえる。
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