ファンなら、どんなことをしても見たい映画だった。それは、この映画が製作された背景によるものだが、一番大きいのは、『ガンダム』がヒットしたこと。そして、テレビアニメが、スポンサーなしに成立しないこと。この二律背反の原則だろう。今とは事情が違うが、熱狂的な人気を得ても、商業ベースに乗らなければ、テレビシリーズは打ち切りになる。残念だったのは、おもちゃの出来が決定的にしょぼかったことだ。いったいどんな低学年が、こんな小難しいSFを見るというのか。対象年齢を上げて、大人でも楽しめるキャラークター商品が開発されていれば、人々に愛されたかもしれないのに。
当時のサンライズは、『ガンダム』の成功をもう一度とばかりに、人気の出ないテレビシリーズを早々と打ち切って、劇場公開での成功を模索する。決定的に違うのは、『ガンダム』は打ち切られながらもテレビシリーズがきちんと完結したのに比して、『イデオン』は文字通り打ち切られたことだ。最終回に用意されていたエピソードが未発表のままお蔵入りになった。内容の暗さはさておき、ファンの渇望感は最大に膨れ上がった。
そして前代未聞の、テレビシリーズ総集編と、完結編の同時公開が為された。
ここに、『発動編』が完成した。
あたりまえの話だが、普通にその一本だけを見ても全く理解できない映画になった。長いテレビシリーズを、追っかけて見ていた人のためだけに用意された、ご褒美ムービーなのだ。ただしそのクオリティは最上級。湖川友謙率いる作画スタッフの情念と、当時から厳しい要求を満たす仕事ぶりのすぎやまこういちの素晴らしい音楽、作家性を追求し始めた富野喜幸という才能がぶつかって、訳の分からない凄みが出来上がった。アニメーション映画として、あり得ないほどの出来栄えとなった。
「わけわかんないけど、なんかすごい」映画が出来上がった。
のちに社会現象となった『エヴァンゲリオン』が、この方式に倣って劇場公開作品を制作したのには、苦笑いだった。