秒速5センチメートル(2007)のレビュー・感想・評価
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あまりにも鮮烈な経験を引きずる主人公(遠野貴樹)
2007年。新海誠の監督・脚本・撮影・編集・絵コンテ・演出を担当した。
63分の短編アニメーション映画。
題名の「秒速5センチメートル」は桜の花びらが舞い落ちる速度。
「桜花抄」
「コスモナウト」
「秒速5センチメートル」
の3編からなっている。
3編とも男性主人公は遠野貴樹。
貴樹は「桜花抄」では小学生から中1にかけて・・。
「コスモナウト」では種子島の高校生。
「秒速5センチメートル」では、社会人になっている。
私はやはり「桜花抄」が強烈に心に響きました。
東京の小学校で病弱で図書館好きだった遠野貴樹と篠原明里。
自然と親しくなります。
小学校卒業して栃木に親の転勤で行ってしまった明里。
半年後、明里から手紙が届いて2人は文通をするようになります。
中1の終わり。
今度は貴樹が親の転勤で鹿児島へ行くことになる。
「一生、会えなくなる!!」
そう思った貴樹は、3月4日、明里の住む栃木県岩舟駅まで向かい会う約束をするのでした。
ところが、3月4日。
その日は途中から雪降りになります。
雪は止むことなく降り積り、何度も何度も汽車は停車。
ジリジリした時間が過ぎます。
なんど乗り換えを繰り返して、なんど停車したことでしょう。
焦り・・不安・・空腹・・疲労。
やっと岩舟駅に貴樹が着いたのは真夜中の22時半ば。
明里は待っていてくれました。
ストーブの温もり、明里の笑顔、そして作ってくれたお弁当。
「もう閉めるよ!」
駅員さんの声に、待合所を出た2人は、人気のないホームでファーストキスを交わします。
13歳の明里。
13歳の貴樹。
農家の納屋で話しながら寝込み、まどろみ、翌朝一番列車で帰る貴樹。
「どうしたら俺は明里を守れるのだろう?」
未来は果てしなく遠かった。
そして2話と3話。
貴樹は「桜花抄」のあまりに鮮烈な記憶から抜け出せません。
明里以外の女性と交際しても、心を開けないのです。
3話の「秒速5センチメートル」はわずか5、6分の短編。
山崎まさよしの「ONE MORE TIME ONE MORE CHANCE 」の流れる5分間に
貴樹の現在が語られます。
鮮烈な初恋から抜け出せず、深い喪失感を引きずる貴樹。
チャンスはもう一度、来るのだろうか?
山崎まさよしの曲は、「ワン モア チャンス」と唄っている。
過去鑑賞
繊細な描写だが、くさい背景が気になる
第一話は若者の純粋で繊細な心の動きがよく描かれていて感動しました。
が、一話から三話まで常に夕焼けや満点の星空などカレンダーに描かれるような多彩な色づかいのキラキラ背景が現実ばなれというか、、、くさすぎて。。。
やりすぎな気がして終始気になりました。
ロマンチストさんにはオススメです。
生かしつつ殺すという革新的映画
この映画において、雨や雪のなかでも月が描かれており月がとても重要視されていることがみてとれた。
子供の遠野にとっては、月はとてもきれいだが、とても遠くにあるもの、つまり明里としてみていると感じた。だから、ロケットで月にいったのかは知らないが、ロケットで宇宙に行った後に遠野は飛行機で明里の近くである東京に行ったのではないかと考えた。
また、澄田が第1章の遠野を表しているため、澄田の未来は遠野の未来ともとれるのではないかと考えた。
その結果、小説にて、澄田は遠野との恋を過去の恋であったと消化し、それを夢として表現しているため、遠野も明里との恋を完全に忘れて未来へ踏み出したのではないかと考えた。
しかしここで重要視されるのがこの映画のテーマでもある、女は過去の恋愛を重要視せず、男は過去の恋愛を大事にするということだ。
つまり、1章の主人公である遠野と2章の主人公である澄田は、どちらも転校生を好きになり、乗り物が動かなくなって、その後に同じ物を味わって最後は離ればなれになる叶わぬ恋をしているなどの共通点はたくさんある。しかし、決定的に違う事象がある、それは性別だ。
つまり、遠野は男であるために、澄田のように忘れることができたのかを疑問視することができる。
2章の始めに唐突にきれいな映像が流れる。とても映像がきれいで気がつきずらいが、ここでは月と日と里を野原から明里と遠野がみている映像だ。その後、遠野と澄田が一緒にその野原に座ってみる景色は真っ暗な景色だ。つまり、遠野にとって、明里とみる景色、世界はとても美しいことを示していると感じた。
小説には振り返った時に明里がいても気にせずにいることを決心したと書かれているが、おそらくそれは嘘であろう。なぜなら、踏切が上がるのを待っているということは、会いたいという心の表れだからだ。ただ、もし明里がそこにいて、話しかけても上手くはいかなかったであろう。なぜなら、2章において遠野の分身である澄田が示しているように、思い人がいる人との恋愛は上手くいかないからだ。
あと、主人公を表す道具として電車が使われていたが、新海誠と電車で思い出したのが天気の子において、主人公が中央線を走るところだ。新海誠は電車が主人公において重要な役割を果たしていることに気がついてもらえないことを揶揄して、天気の子の主人公に中央線沿いを走らせたのかなと勝手に想像した。
そして、この映画の一番素晴らしい部分は、ヒロインを生かしながらにして殺しているのである。
通常の恋愛映画ではオチを作るために難病をもってきたり、すごくモテる人をもってきたりファンタジー的側面があったりするがこの映画にはそのようなことは無い。つまり、世間からみて大きな事件が起こっている訳ではない普通の人の人生を切り取り、映画にできてしまっているのだ。この映画では、人間は会わないのならば死んでいることと変わらないということを利用し、ヒロインをはじめにある意味半殺しにしている。これにより、恋を100%成就できないという状況でなく、99%成就できないという状況を作っているのだ。この1%が主人公の遠野を苦しめている気持を理解できるのかできないのかで、この映画の捉え方は異なるだろう。
列車、線路、駅、踏切に雪、桜、それらのあまりにも美しい映像、それに被さる情感的な音楽。
切なすぎる、、
最高!!!!こういう恋愛映画大好き!!!!!
初めてこの作品を見た時、それはそれは絶大な虚無感と絶望感に襲われました。
当時高校生だったピュアな私はあかりが結婚することを知りつつも、踏切で振り返るだろうと信じて疑わなかったからです。(プロポーズ大作戦の影響もあるかもしれません)現実は悲しいものですが、幻影を追うことを辞められた主人公は幸せだったのだろうと思います。
非常に淡々と物語が進むのでちゃんと観てないと眠くなります(笑)目をかっぴらいて観てると、それまで積み重なった淡々とした事物の全てがラストシーンで昇華されてとても感動します。眠いなと思った人はぜひ頑張ってもう一回観てみてください(笑)
話としては、「桜花抄」が特に好きです。転校なんてしたくないけど子供は親に従うしかない。中学生にとっては東京と栃木なんて日本とアメリカ以上に遠いし、携帯が無ければ連絡も簡単には取れない。世界は大きく、自分は無力に感じる。そんな中で一世一代の大冒険として栃木に向かうも、慣れない電車と大雪による遅延。着くのかも分からず相手が待っているのかも分からない。もう帰っていて欲しいけど、待っていてほしい。そんな不安感と焦燥感がひしひしと伝わってきます。スマホがあれば乗り換えアプリで調べられるし相手に連絡だってできるけどそんなものはないのが時代ですね。
小さい頃に抱いていた感情を掘り起こされたように感じました。子供の時どう感じてたのかって大人になったら普通は忘れてしまうものなのだと思うのですが、新海監督はこういった感情を覚えていて、かつ鮮明に蘇らせることが出来るのですね。無くしたものを懐かしんでしまいました。
秒速5センチメートル
この話は受け取る人の子供の頃からの育ちで様々な感情を芽生えさせるものだ
ネット等でかつてよく言われていた「子供の頃は目立っていた」「子供の頃は勉強も運動も良くできていた」そんなかつての人気者が成長するにつれ埋没し、いずれ凡百以下な存在になる、かつて2ちゃんなどでそういった書き込みをよく見た、私もそのような(そういう思いで補正が多分に掛かったw)成長をしてきた為に、何故か最後の章の主人公の男の退職やカップラーメン放置やコンビニ徘徊の所に妙にシンパシーを覚えた、もう戻らない輝いた日々、恐らく種子島に戻ってもサーファーのあの子も見向きもしてくれないだろうな、スカしているつもりはないのに、そう見られてしまうからいつのまにかそういう態度を飼いならしてしまったから28にもなってまだ童〇だよ、そんな主人公の生のつぶやきすら勝手に想像してしまう、まさにこれはヒューマンドラマだ、一方女性の方はそれはまあソツなく「自分は不器用だ」などと男側とは逆な気持ちで過ごしていたものの、並み以上の頭と並み以上の容姿がある為に年収1000万オーバーの男と婚約、タイミングで「このまま平凡な幸せを掴んでいいのかしら?」いいんです!そういうものなんです!と自らの中の慈英が食い気味に叫ぶ、まあアレですわな「マリッジブルー」しかしそこからなんだ、映画の卒業みたいな王子なんて居ないのは分かってるし、今の相手が自己ベスト、ってのも承知の上だから、「あら???」と踏切で思った影がある少しだけいい男、しかし特に振り返ったもののクソ長い(と言っても2分だ)東京の踏切を待つまでもない、その程度の価値なんだよね、男可哀想w、でもね世の男よ、これが現実だ、ここで主人公の儚さや一途さや心弱さに必要以上にシンパシーを覚えてはいけない、何故なら彼もまた我々と同じく〇貞なのだから
岩舟駅が異次元に見える新海マジック
短編ではもったいなく、個人的には90分くらいでハッピーエンドにして欲しかったけど、なんとも切ないが、実に綺麗で心が癒される作品だ。でも、どうして1話であんなに好きだった二人なのに、別れてしまったのだろう?その辺の説明がないのが、やや消化不良気味だ。
1話と2話と短編が続き、短編のオムニバス映画かと思って見ていたら、3話で全てが繋がっていた話だったと気がついた。1話と2話で主人公の男性の名前が同じだと気づかなかったのと、2話の舞台が種子島だったので、1話で主人公が鹿児島に転校することになっていたが、かってに種子島以外の鹿児島県への転校だと思ってしまっていた(1話で、種子島に転校というセリフだったらすぐに気がついていたかもしれない)。ただ、その結果、3話になって、個人的には想定外の盛り上がり感じた。
3話のエンディングで流れる山崎まさよしの「one more time,one more chance」が、主人公の切ない気持ちを一層高めて泣きたくなるほどだ。踏切ですれ違った女性が、初恋の彼女(1話の彼女)のような気がして振り返るシーンだ。まさに、その時の主人公の気持ちを歌にしたみたいな歌詞だ。以下はその歌詞。
いつでも捜してしまう
どっかに君の笑顔を
急行待ちの踏切あたり
こんなとこにいるはずもないのに
命が繰り返すならば何度も君のもとへ
欲しいものなどもう何もない
君のほかに大切なものなど
【平均では計れないもの】
秒速5センチメートルと言ったって、条件を一定に録った平均のはずだ。
外では、風に吹かれたり、雨の重さを感じたりして、桜の花びらの落ちる速度は様々だ。
それに、そもそも、桜の花びらは、ひらひら揺れて、捕まえるのは難しかしかったり。
この作品は、子どもの頃、心に誓ったことや、願ったことが、どんどん遠くに離れてしまっていく様子を、かなり切なく伝えている。
なぜ、あの時、きちんと向き合えなかったのだろうか。
なぜ、あの時、きちんと伝えられなかったのだろうか。
なぜ、あの時、勇気を持って行動に移せなかったのだろうか。
考えると、そんなことだらけだ。
だが、それも愛おしい自分の一部であることは間違いない。
桜の散る速度は、状況によって様々だ。
森山直太朗の「さくら」にもあるように、舞い上がるものだってあるはずだ。
僕達の、喪失感や悲しい思い出も、それぞれ異なるはずだ。
平均では表すことが出来ない、それぞれに大切なものなのだ。
最後が全て。秒で泣ける。
十代の時にしか抱けない気持ちがここにはある。
それぞれ立場は違うけれど、相手を一途に思ったり、諦めたり、傷つけたり、一人傷ついたり。波に乗れたとか変なジンクスで告白するかどうか決めたり。メールを打っては消して。
自分にも似たような感情を抱いていた若き日があったことを思い出した。
時系列で、3作品がシンクロして、やがて全て繋がっていく。
2人が交互に語るモノローグから始まり、数々の思い出の絵のフラッシュと山崎まさよしの曲のカットインからのタイトルバックが素晴らしくかっこいい。
泣ける!
ここに来ると秒で泣ける。
近くにいて1000通メールしても1センチも近づけなかった関係と、遠くにいても秒速5メートルで近づこうとする関係と。
物理的距離と心の距離は正比例しない。
未熟故に実らなかった恋は永遠に桜の花びらのように散り続ける。
実らなかったから存在し続けるし、思い出す度に幸せなんだな。
テーマがわからない
本作では小学中学時代の初恋を忘れられず引きずったまま大人になっていく一人の男性の人生が断片的に語られています。良くも悪くもそれだけの映画です。
「物語」は「出来事」と「テーマ」が揃って初めて「物語」として成立すると思っています。この映画は「出来事」の描写があるのみで、映画全体を通じて何を訴えたいのか全くわかりません。アクションもののように何が言いたいとかじゃなく単に「かっこいい映像/ストーリー」であるなら話は別ですが、本作は別にそういう映画ではないと思います。
大人になってから初恋の人と踏切ですれ違い、振り向いたところで電車がやってくるも電車が通り過ぎるとそこに彼女はいない、という切ないラストで終わりますが、それを踏まえて主人公が一歩踏み出すわけでもなく、成長するわけでもありません。この映画を通じて監督が伝えたかったことは一体なんでしょうか。「初恋って忘れらんないよね。一人の女性をいつまでも心に刻んで忘れないのって素敵でしょ?」って言いたいだけな気がしますが、だとしたら普通に結ばれて終わりでよかったのでは?最後の最後に現実を突きつける必要はないのでは?と思ってしまいます。
一方でただの娯楽映画として見ても全体的に雰囲気が暗く、過去の恋愛に囚われて現実の女の子をないがしろにする主人公を見て楽しめるわけでもありませんでした。最後に結ばれて終われば「まあそういう恋愛もあるよね」となるのに当然のように彼女に立ち去られてしまう主人公。一体この1時間何を見せられていたのかと思いました。
加えて、映画全体を通してモノローグによる語りが多いです。「〜と思った。」「〜であった。」のように登場人物にセリフを通して説明をさせるのですが、ぶっちゃけこれは映像作品としてやってはいけない手法なのではないかと思いました。映像クリエイターはこういった繊細な心理描写等を映像で観客に伝えるのが仕事じゃないでしょうか。全て言葉で説明するならオーディオブックでいいです。
秒速五センチメートル
第一話は本当にせつなかった。 中1の少年が転校前に女友達に会いに行...
年甲斐もなく胸キュン。
主人公たちのように、小学校卒業とともに遠く離れた町に引っ越した実体験も重なり、憧れたヒトに会いたい話したい気持ちはよく分かる。そして、ラストシーンのように、今となっては、きっとすれ違っても気づかないだろう。
ただね、確かなのは、純粋で淡い記憶は忘れられないということ。そういう記憶は、何かをきっかけに懐かしく思い出す。そんな自分だけの秘密を掘り起こす思いになる作品。
それにしても、小学生なのに、二人でバーガーショップかい? 今風の街の子だねえ。
【桜の花びらがゆっくりと舞い落ちるように、成長していく少年の姿を軸に、幾つかの繊細な恋愛模様を山崎まさよしの「One more time, One more chance」に乗せて描き出した作品。】
ー 今作は、「君の名は。」を鑑賞し、日本のアニメーターにこんな凄い人がいたのかと驚き、慌てて近隣のビデオレンタル店に駆け込んだが、長らく借りられず(ずっと、貸し出し中であった)漸く観て、その世界観と繊細な感情の機微を表現した作風に、彼の作品の原点を見た気がした作品。-
第1話「桜花抄」
小学6年生だった貴樹と明里の仄かなお互いへの恋心。
そして、中学生になった貴樹が、栃木に引っ越しした明里を、雪が降る中訪ねて行く心の不安と、久しぶりに再会した二人の雪が舞う中の接吻と、朝日が差し込む中での二人の姿が、二人の未来を暗示するようなシーンが印象的。
第2話「コスモナウト」
貴樹も中学の半ばで東京から引越し、遠く離れた鹿児島で高校生生活を送っていた。
同級生の花苗は、中学生のころから貴樹をずっと思い続けていたが、彼の心は別のところにあると知っていた・・。
ー 花苗自身の心中を自ら語るモノローグの言葉が、切ない・・。-
種子島から発射されたロケットが、”二人のそれぞれの将来に祝福あれ・・”と言うことを暗示していたシーンが印象的。ー
第3話「秒速5センチメートル」)
社会人になり、東京で働く貴樹。だが、明里の事が忘れられず、付き合っていた理沙から”心が私に向かっていない‥””と指摘され、別れ、やがて会社も辞める。
だが、春が訪れると、貴樹は昔から歩きなれた道の踏切で"ある女性"とすれ違い・・。
<絵は、未だ粗いが、その後の新海ワールドがこの時点で、既にほぼ出来上がっていたことが分かる短編連作集。醸し出す魅力は十分な作品群である。>
<2016年 DVDにて鑑賞>
<2020年10月11日 別媒体にて再鑑賞>
何か自分の感じているものと近しいものを感じました。
よく親の仕事で引っ越す自分と照らし合わせたのか、何か自分の感じているものと近しいものを感じました。ニューヨークでは孤立している私には恋愛なんぞ程遠いもので、作り物をみて満たされない感情をコントロールしているのですが、最近は非現実的なストーリーに流石に飽きがきていました。このような映画を一番求めていました。
この映画はエンディングからも、途中のメールを書く場面も、遠距離の恋の「遠さ」をうまく描けているなと思いました。だらだらとした今年の夏休みの終わりに見たせいか、高校の最後の年だという現実に引き戻されたように感じます。自分は主人公のように今できることが果たして全力でできているのか、再び考えさせられました。新型コロナでもう5ヶ月近く家族以外の知っている人に会っていない状況で、昨年末の失敗を繰り返さないようまもなく始まる新学期を気合を入れて向き合わないといけないですね…
普通の人にこの映画はどのように映っているのでしょうか?
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