秒速5センチメートル(2007)のレビュー・感想・評価
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携帯電話って便利だよな
「美しい」
美しい。読み方は「うつくしい」
「偶然会う」「偶然合わない」
「運命的な出会い」「運悪く出会わなかった」
それはもしかしたら数ミリしか違わないのかも知れない
色んな「はやさ」があるんだなあ
やまちゃきまちゃあきが威風堂々としておりました
幼稚園の時は女の先生かな
小学生は片思い、写真を見て心臓が動悸を打つ
倉木麻衣、宇多田ヒカル、ラジオで流れている
世界から[犠牲]が無くなりますように。
これまたやるでしょ😼前の作品を、センスあるよね👍ラピュタ何回もやってた、火垂るの墓、何回もやってた、カリオストロ、何回もやってた、レオン、何回もやってた、ナウシカもセブンも。やっぱ配給する人扇子あるわ👏
桜花賞って馬やろ?
追伸🔋友人はきっと「うんこ」という言葉を使わないような人間なんだと思います、友人だから似た者同士って思う人が大半だと思いますが、僕から言わせれば長く生きた経験から言うと、実は友人と結婚相手は逆に自分と違うタイプの人間を無意識に選んでいるんです、それをフィーリングと呼んでいますが、人間性とフィーリングは別物なんです、僕も知人とは感性が合わないし、嫁は僕が興味あるもの殆どに興味がありません😀
山崎まさよしの歌が本当に良い
気が向いたらまた見るかも。よかった。恋したくなるね!まじつらい!山崎まさよしの歌が凄く良いです。ラブラブな話じゃないです。おすすめです。13.8.12
時間と距離の物語り
「君の名は。」→「言の葉の庭」→「秒速5センチメートル」と新海誠監督作を過去へ。
もうこの作品の頃から背景映像の美しさは確立されていたんだなと。そしてやはり空、光、電車、これは新海監督の演出必須アイテムなのだろう。
物語は、主人公の初恋、その主人公(高校時代)に恋する高校生、大人になった主人公を3部作で描く。
速さ=距離÷時間。秒速5センチメートルというタイトルから、速さをテーマにしていることはわかるが、速さで捉えるのではなくて、距離と時間に分解してみたくなる。
遠く離れていてもすぐ近くに心を感じる初恋の人に電車で会いに行く中学生。中学生の彼には出会うまでの距離は遠く、時間は恐ろしく長く感じる。
毎日会えて直ぐ近くにいる好きな人。時間も距離も近いはずなのに、心の距離はものすごく遠く感じる女子高校生。
時間と距離が離れてもずっと初恋の人を忘れられない大人になった主人公。近くにいた恋人には「近づけなかった」とメールで告げられる。物理的には近くても心理的には大きな距離があった2人。
物語はいい大人が観るとちょっとナイーブでセンチメンタルで感情移入はしづらいが、自分もこんな想いをしたときもあったなあ、と懐かしくなる。
なんとはなしに観ていると、絶妙なタイミングで「One more time, One more chance」が流れてくるので、感情を揺さぶられる。
この映画を作った当時の監督はまだ若く、作品自体にも若さというか、青臭さを感じるのだが、その後の作品で脚本や映像や音楽に磨きがかかっていく原点を感じられるような作品。
(DVDで鑑賞。2024年春に桜前線上映するらしい。)
短い時間なところもありがたい
新海誠のエモエモ映画
引っ越しで離れ離れになりながらも、お互いを思い合う男女の出会いと別れを描いた映画 正直キャラクターはあまり魅力的ではないけど、人物の細かな心理描写が素晴らしく一気に引き込まれ感情移入させられた
また、背景描写やそれを使った大胆なカメラワークがおしゃれで思わずうっとりした 何より、あったかもしれない人生の可能性の残酷さみたいなものが描かれていて、胸が締め付けられると同時に、どこかスッとした清々しい綺麗な気持ちになった
何回も見て初見では拾えなかった演出や感情を拾いたいようないい映画
環境ビデオ
最も野性味に溢れていた頃
「秒速」
「新海監督と言えば、君の名は。よりも秒速」
「でもその映画、秒速の人のやつでしょ…」
「秒速最高だろ」
「秒速みたいなの、また見たい」
「二度と見たくない」
まるで都市伝説ように、時が経っても畏怖と尊敬の間を飛ぶ「秒速5センチメートル」
まあデートムービーだと思って、映画館デートでこれ見たら呪詛も吐きたくなるだろう。
おうちデートで見ることすらおすすめできない、
「想いは想えど一方通行。執着して想い続けても、いいことなんて何もなかったね。運命の人なんて、近くにいた人ってだけだからね。でもそれはそれで生きる力を与えてくれるんだよね」(それが僕達の生きるリアルだよね)
という散文・純文学的な内容をストレートに打ち出した作品。
これを「一周回ってエンタメ」と言うのはかなりこじれた人たちの領域で、少なくともこれから世に出て行く監督が、注目のデビュー期に作るべきものではない。大衆作で十分すぎるほどのファンを獲得した後に、老境となってそのファンから信者を選別するときに作るものだ。
だが、テーマも泣ける恋愛映画のガワに見えるのも、未熟なクリエイターほどやりがちな「逆張り」や「意図的な露悪趣味」ですらなく、「作りたいものを思いきり作ったら、こうなっただけ」と思わせるから本物。
ただ、時代の文脈を語れば、本作公開は2007年だが、0年代前半の主人公が若者男性のエンタメ小説には、本作のような風味があふれていた。もし新海監督が2000年~2005年ぐらいの青春小説を読み漁っていたのなら、「それらの映画化」として問題作の意識や疑惑すらなく完走しただろう。むしろ当時最先端のトレンドに乗っていたつもりだったかもしれない。だが監督、映画と小説は当時にして客層が全然ちがうのだ。
まして結果としてデートムービーのオーラを纏ってしまったなら、ほんのり鬱になれる純文学をカップルで読み続けるようなやばい体験の強制となる。阿鼻叫喚も仕方がないだろう。
前置きが長くなったが、自分は好きである。
後の作品に比べて「必然性はないけど、こういうこともあると思うんだ。行間読んでよ」という若々しい粗さはマイナスだが、天気の子以降のような「とりあえず勝ちパターン」を意識しない豪腕は監督の作家性にあふれている。全編で60分程度なら、ダレずに見れられてむしろこれでいい。
---1話---
美しき東京に対して、地方(栃木。両毛線)をどこまでも絶望の闇の土地として描くのが素晴しい。攻めてる。「すずめの」では地方がどこもかしこも現実の10倍程度キラッキラに描かれているが、その100倍は「監督の、まごころの描写」でいい。
岩舟駅の駅員が地方らしからぬ無責任すぎる雑さ、「そうはならんやろ」と帰路途中で一晩過ごしたという展開も気持ち悪くて突っ込みどころ満載だが、いい。中学1年生男子・タカキが中学1年生女子・アカリを求める気持ちは、それぐらい気持ち悪く馬鹿らしく突き抜けていてほしいような願いがある。
---2話---
親の転勤で鹿児島の離島、種子島っぽい所に行った高校生の貴樹だが、心ここにあらず。というよりも「必ずアカリがいる東京(関東)に戻って再会する」という、ほの暗い情熱に憑かれている。同級生の女子カナエは、島の男子とは明らかに違うと感じるタカキに惚れているが、その理由が上述の通りなので叶うわけもない。タカキはアカリ以外は眼中にないゆえの天然ジゴロぷりを発揮して、知らずのうちにカナエを追い詰めていく。すごい話だ。
カナエがタカキに恋する理由は「達観していて優しくて頑張る、ひと味違う男子だから」なのだが、つまりそれは「タカキがアカリに惚れているから」なので、最初から叶う要素がない袋小路なのだ。
終盤はカナエ自身もそういうことだと気づき、ふっきれる。ここで終われば多少は救いがあるのだが…
---3話---
東京で、社会人・SEとなっているタカキ。それも、モーレツに働き続けて糸が切れ、世に倦んで失職した後。さらにアカリではない女性と3年間付き合っていたらしく、その女性から「どれだけ一緒にいても、心理的な距離が縮まらない」と別れを告げられている。
2話において「大学は東京に行く」と言っていたので、高校卒業後は上京し進学したのだろうが、学生時代に何があったのかは描かれない。
さらにアカリの方は、タカキではない男性と婚約して実家は祝福ムード、幸せの絶頂。
そして桜舞う頃に、二人は思い出の踏切ですれ違う。
タカキ曰く「今、振り向けば、きっとあの人も振り返ると、強く感じた」
足を止めるタカキとアカリ。二人の間を電車が二本すれ違い……間に何もなくなったとき、アカリはいなかった。
タカキは清々しい顔で、アカリとは逆方向に歩き出してエンド。
---つまり---
アカリ以外、誰も幸せになっていないのである。
タカキの最後の笑顔は「吹っ切れた笑顔」だが、その「吹っ切れた」というのはこの場合「世の中こういうものだと納得したことで落ち着きを得た」笑顔であり、「幸せには手が届かないと諦めたことで、ほんのり幸せに近づいた」程度。マイナスからゼロ付近に行ったぐらいの救済。アカリの、思い人と結ばれるという順風満帆な幸せとは雲泥の差がある。
もちろん、タカキはアカリを想って中学のころからずっと頑張り続け、自らの能力を高め、一端の大人になったという側面は第2話から推測できる。その側面は「アカリが、タカキを幸せにした」とも言える……はずなのだが、現時点では「世に倦んで辞職。フリーランスとしてぼんやりとした不安へ」という形なので、すんなりそうとは言えない。
種子島のカナエについては、タカキと自身のことを想って自ら身を引いたわけだが、そのタカキは東京でアカリ以外の女性と付き合っているのだ。じゃあカナエと付き合っとこうよと、フィクションのお約束的に感情をかき立てるが、現実はまあそんなものである。
描かれてはいないが、恐らくタカキは大学生の間にアカリに振られているのだろう。あそこまでアカリのために自己鍛錬できる人間が、メールでも繋がっていて、告白していないとは思えない。
付き合う前に振られたのか、付き合ってから振られたのかは定かではない。タカキの情念なら付き合った後にヘマをすることは無いと思えるので、上京したときにはアカリにすでに彼氏がいたのではないか。
「手紙の中のアカリは、なぜかひとりぼっちに思えた」と1話であるように、アカリは小学生の頃から孤独だ。駅舎のエピソードも、友人がいればあそこまでタカキを待ち続けることは無いだろう。親とも上手く行っていないのかもしれない(結婚式の祝福をしていたのは、親ではなく叔母たちだった)。心に隙間を抱えていて、優しくしてくれる男性に強く依存する女性なのだ。種子島に行った元カレよりも、側で優しくしてくれる相手に心を占められることは、人間としては「当然の選択」だ。
結果、タカキは状況的にアカリを諦めざるを得なくなり、SEとして入った会社で同僚と付き合い始めた。
しかし「この数年間、とにかく前に進みたくて、届かないものに手を触れたくて……ほとんど脅迫的とも思えるその想いが、どこから湧いてくるのかもわからずに」猛烈に頑張ってしまっていたというのは、「アカリに会うために頑張っていた」2話の精神性の悪化だ。
難しいことを言わずとも「いい男になって、アカリを今の彼氏から自分に振り向かせたい」のだ。リビドーであり、防衛機制の昇華であり、男性にはよくあることである。
そして、その糸が切れてしまった。
頑張って頑張って心をすり減らしても、アカリは振り向かないと本能で気付いてしまったからだ。
自分の感じていた「運命の人」は、アカリが小学中学での心の隙間を埋めるための状況的選択でしかなかったのだ。恐らく「アカリが、今の彼を選んだ理由と同じ」なのである。つまり自分がアカリに感じていた運命を、今のアカリの彼氏も感じているだろうし、アカリもタカキに注いだ愛情と同質のものを今の彼氏に注いでいるだろう。これはもう、先着1名の椅子に座るのが後先かという問題でしかなくて、他の要素で覆ることはない。「いい男になって振り向かせようと頑張っても無駄なのだ」ということに気付いてしまった。
踏切でアカリはいったん足を止めている。
しかし、電車が去った後にその姿はない。
決断的に「タカキとはもう話さない」ことを決めて、去ったのだ。
それが今のアカリの、自身が掴んだ幸せを守る手段だからだ。
となると、冒頭の「今、振り向けば、きっとあの人も振り返ると、強く感じた」もタカキの独り相撲であった、つまりタカキの執着というか願望でしかなかったということが判明する。
だから、タカキの最後の笑みは「やっぱり、自分の独り相撲だったか」だ。
少年少女の頃、タカキとアカリは間違いなく運命の人だった。
だが、運命の人なんて「側にいた人」と言い換えてもいいほど、「簡単に生まれるものでしかない」……
そんなことにも気付かないで、少なくとも二人の女性を傷つけて、俺って馬鹿だなぁ……
長い長い少年時代が終わり、タカキは大人になって桜舞う東京に消えていく――
国語の入試問題で出てきそうなぐらいの純文学だ。
よほど捻くれた人しかエンタメとして受け取れないだろう。
私はこのエンタメ、大好きです。
ただ、描き方がもろもろ雑だったり、タイトルやロケットがふんわりモチーフでしかなかったり、かっ飛ばして欲しくないところをかっ飛ばしたり惜しく感じるので、好きな上で星4。
タカキの声演はハマリ役で、その良さで1.2倍ぐらいの好印象になっていると感じる。新海映画は、声優の選択ミスというのがまず無くて、安心して見られる。本人が思っている以上に、「脚本」よりも「音」に特化した才能(執着)を持っていると思う。
天気の子の結末書き換えエピソードなどは、それが悪い方向に作用してしまったようだが。
本作ラスト前のミュービックビデオ風クライマックスは、結末から振り返るとそれはまあ辛い、心に来る内容だ。
映画は娯楽タイプだけではないと言いきれる人には、ぜひ見てほしい作品。
なんだか切ない。。。
娘の影響で新海監督の最近の作品は鑑賞していますが、『すずめの戸締まり』公開直前の地上波放送を録画していたのを思い出し今更ながら観ました。
新海監督が現在のように大ブレークされる前夜の作品であると思いますが、日常を切り取ったような各カットの絵の美しさと、若い時を思い出させてくれて切なくなるストーリーはこの当時からだったんだなあと気付かされます。
静かな話の展開と、最近の新海作品のようにハッピーエンドでは決してない終わり方に、自身の若い時の思い出が重なって胸が痛くなりました。
(年末にその思い出の相手である元カノから久し振りに連絡をもらったせいかも知れませんが…。)
現在のようにみんながスマホを持っていつでもどこからでも連絡が取れる世の中も便利でありがたいのですが、昔のように手紙でお互いの気持ちを伝える不便さも今思えば味があってピュアな気持ちになれたなぁと懐かしく思い出しました。
終わり方が全然スッキリはしませんが、個人的にはこちらの作品の方がより好きです。
桜の落ちる速度
人を好きになるとはどういうことか、 大人になると分からなくなる。 ...
んー!懐かしい苦い思い出が蘇る
まだ携帯電話はおろかポケベルもなかった時代、中学生、高校生の連絡手段は家電か手紙のみだった。家電は親が出て、家の娘になんの用事だ!と怒鳴られ取り次いで貰えない。残る手段は手紙のみである。昔は生徒の住所も全て公開されており、全力で手紙を書き、相手の返事を待った。ポストを覗くが手紙は来ておらずガッカリする事も多かった。反面、相手からの手紙が届いていると嬉しくて手紙を持つ手が震えた。何が書いてあるのだろう?そんな期待を胸に封を開ける。当時の女子は良い香りのする紙を使うのでほんのり女子のいい香りがする。萌える瞬間である。良い返事なら狂喜し、悪い返事なら物凄く落ち込む。こんな時代もあったのだ。今の子供は早ければ小学生からスマホを持つ。この映画を観ても内容は理解し難いであろう。オッサンやオバちゃんらが若かりし頃の青春を思い出すのに丁度よい映画なのである。監督もその世代であろう。
自己満足の世界
これぞ新海誠監督の真骨頂
桜の花びらが落ちるスピード、それが本作のタイトルです。レンタルショップで初めて見つけた時、「変わった名前やなぁ~」と、おもむろに手に取って借りた記憶があります。ただそれだけの理由で観た本作・・・
本気で震えました。
物語は幼馴染の貴樹と明里を中心とした、青春の恋物語。それを3話に分けて描いています。幼馴染から初恋に目覚める1話、貴樹に片思いする女の子が主人公の2話、そして2人の結末を描く3話・・・。端的にいえばこんな感じです。青春の恋愛モンです。
見どころは、“距離”の表現。
それは物理的な距離であったり、心の距離であったりします。わくわく感や心細さ、決意など、多くの心理的な描写を、新海監督の特徴でもある“美しい絵”で見事なまでにぴったりな表現で描かれているんです。震える糸の一本まで感じ見えるかのような繊細さ、どうやったらそんな心を持てるんでしょう。それだけでも凄いと感じてしまうんですが、
クライマックスで山崎まさよしの「One more time, One more chance」が流れた時、体中からゾクゾクしました。
その曲は、この映画の為にあったんやないか?1話、2話と来て、全てを悟った時に流れるこの曲、走馬灯のように流れるクライマックスに完全にリンクしていました。この映画の言いたいこと全てが詰まっているようでした。
そして本編が終わった後、こう思いました、
新海誠監督は天才か!?
こんな映画、他の誰も描くことはできない。飛び抜けた絵の美しさに加え、音楽も、曲も、その使いどころも、全てが素晴らしく、そうなって出来たキャラクターの思いが自分の心に飛び込んできそうな感じがする。ここまで繊細に心を表現するアニメーターなんです。
これを観て、自分は新海監督のファンになりました。もう大好きな映画です。
無菌のロマンポルノ。
舞い落ちる桜の花びら
よくある話
「すずめの戸締り」を観たので幾度目かの観賞。
小学校での初恋、別離、成長。よくある話である。決してドラマチックではない。
ただ、新海誠監督はそういった「よくある話」を今作では徹底的に美しく、儚く描く。
小学校の廊下に反射する鈍色の光。蛇口から垂れる水滴。桜並木。当たり前の日常を、どれだけ美しく切り出すことか!新海監督の真骨頂はこういった描写と、人物に多くを語らせない演出力であると言えるだろう。だから「君の名は。」では本当にラストはハラハラしながら観てました。
タイトルでもある「秒速5センチメートル」は「桜の花びらの落ちるスピード」だと明里は言う。
この作品の本質は「速度」である。
貴樹と明里それぞれの生きる速度。積雪で動かない電車。カブの時速。種子島から打ち上がるロケット。全てが相対的であり、決して遡ることはない。一度通り過ぎたなら、交わることなく引き離されていく。新海監督の哲学がこの作品には詰め込まれている。(「ほしのこえ」でも、地球と外宇宙との速度の乖離を描いていた。「インターステラー」でもモロに。)
前述したが言うなればなんてことのない失恋話である。ただ、紐解いてみるとそんな出来事も、案外に美しい日々だったなと、思いを馳せることのできる稀有な作品であるとも言える。
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