劇場公開日 2007年3月3日

「君の名は」秒速5センチメートル(2007) R41さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0君の名は

2025年1月4日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

この作品が新海誠監督のものだと知って合点した。
そうでなければ真似でしかないと思っていたが、少しホッとした。
そうであれば、レビューのし甲斐も出てくる。
監督は、この切ない恋というものに対する想いが強いのかもしれない。
高校生の登場人物ではなく、小学生にまで遡ってその純粋さの秘密に迫りたかったのかもしれない。
1時間という非常に短い中に三部作を詰め込みながら… そもそも三部作になっているとも思わなかったが、永い人生と永遠に思われた純粋な思いの変化を描いている。
そうですか~ この作品。
綿密な描写はまさに「君の名は」 あのロケットの逆が隕石か?
ただ、波の描写には課題があった。
実在するモノの名前をモジっているのも面白かったが、「君の名は」ではそれをそのまま忠実に書いていたのもまたよかった。
ひとつの作品を作り出すことで次作への課題が見つかり、挑戦する。
そうしてできた大作の前の作品。
さて、
冒頭の踏切がこの物語の顛末を伝えていた。
アカリとカナエの物語は第一話と第二話で語られているものの、大人になったタカキと水野の物語は描かれていない。
タカキはアカリを追いかけるように東京に出てきたものの、お互い次第に当時の思いが薄くなってしまったのだろう。
それはおそらく大人になってからではなく、挿入された描写から想像するに種子島へ引っ越してからだったのだろう。
彼が相手もないままにメールを打つのは、未だ何も整理がついていない心の問題だが、その一挙手一投足こそが、人の心を描写している。
ここが監督が考えたであろう、純粋さがなぜそのままの形で成長していかないのかという「テーマ」のようなものがあるように思った。
誰もが持った記憶がある純粋さ。
それは何故失われるのだろうというごく自然な問い。
第一話の多くはアカリがナレーションをしていた。
タカキはそのナレーションに呼応するかのように純粋さと、アカリを傷つけた反省を持ち続けたことが描かれていた。
風で飛んでしまった手紙
したためた思いは、キスの前後で変わったこと。
第二話ではタカキを好きになったカナエの純粋な思いが彼女のナレーションに乗せられた。
カナエも純粋であるがゆえに、タカキの視線上に自分がいないことを発見する。
言えなかった思いを山崎まさよしさんの曲に乗せた。
第三話では水野という新しい女性とタカキは3年間付き合ったことが語られた。
しかし、二人の距離はたった1センチしか近づかなかったようだ。
さて、、
タカキは種子島に引っ越す前にアカリとの絆を強くしたのに、なぜ、手紙の交換をしなくなっていったのだろう?
ここがこの物語最大のミステリーとなっている。
ロケットと宇宙探索
ここにかけた時間と距離
これこそが恋愛に対するひとつの真実を捉えているのだろう。
タカキは弓道部に入りそれなりに打ち込んでいるものの、彼には疎遠になってしまったアカリとの純粋で真実だと思っていた「何か」に失望を拭えなかったのだろうか?
何気ない一日をアカリに報告していた中学時代
その行為だけが残ってしまって、純粋に感じた今日一日を、純粋にアカリに報告できなくなってしまっていたのは、会えない時間と距離間という事実
ここは経験者であればわかりやすいのかもしれない。
彼は再び上京した。
そこにあったのは間違いなくアカリだったはずで、でも、疎遠だった期間によって会おうとも思えなくなってしまったのだろうか。
彼は日々Pgrとして生活し、タバコと酒と散らかった部屋が彼の心の荒み具合を表現していた。
運命
冒頭の踏切と最後の踏切
「君の名は」とは真逆のような切なさ
ロケットは、打ちあがってしまえば決して戻ることはない例えなのだろうか?
タカキはロケットのようにアカリとの真実を探しに出かけたいとは思えなかったのだろう。
思考では遥か及ばない久遠を、絶望のように捉えてしまったのかもしれない。
そして、
アカリのナレーションは、疎遠になったころのものになっていたのかなと思った。
だから彼らが中学生だとは思えなかった。
おそらくあれは、もう手紙が途絶えてしまう間際のやり取りだったのだろう。
秒速5センチメートル 桜の花びらが落ちる速度
この単位は、満開の桜という二人の純粋な心が、距離によって始まった崩壊を意味しているのかもしれない。
カナエはロケットが時速5キロメートルで輸送されていく様を言葉にした時、
おそらくその時、
タカキはアカリの言った秒速5センチメートルという言葉の意味が、崩壊だと悟ったのだろう。
その時タカキの頭の中にあったサクラは、もうほとんど花びらがなくなってしまっていたのと思われるし、その事に気づいたのだ。
それ故、中学の時に会いに行った時も雪で、アカリが散る桜を見て何気なく言葉にした「雪みたい」という言葉と踏切での遮断機が、すでに二人の運命を告げていたのだろう。
しかし、
タカキは自分が心から信じていた自分自身の純真さと永遠の思いが、距離と時間によって蝕まれていくという事実を、決して認めたくはなかったのだろう。
それが水野の言葉に現れている。
男は失恋を引きずるものだが、この失恋物語は監督の認識を表現したのだろう。
永遠というものはなく、すべてが無常であり、それこそが人生なのだろう。
タカキは踏切でアカリとすれ違う。
それは、10年越しくらいで訪れた永遠の別れだったのだろう。
そして水野がタカキに伝えなければならないと思ったことは、おそらく彼女が今でも彼を好きだという「純粋な本心」だったのではないかなと感じた。
それはきっと、タカキが踏切で永遠の別れを悟った後、アカリと同じように新しい春の訪れとなるように思った。
多義的ではあるし、相変わらず私の妄想ではあるが、なかなか痺れる作品だった。

R41