「せっかくマット・デイモンを投入しているのだから、本格アクションにすべきでした。」アジャストメント 流山の小地蔵さんの映画レビュー(感想・評価)
せっかくマット・デイモンを投入しているのだから、本格アクションにすべきでした。
フランス生まれの神学者ジャン・カルヴァンは、人間の運命は神によって、定められているという予定説を説きました。
この予定説に従えば、その人が神の救済に与れるかどうかは、予め決定されており、この世で善行を積んだかどうかといったことではそれを変えることはできないとされます。例えば、教会にいくら寄進をしても救済されるかどうかには全く関係がなく、神の意思を個人の意思や行動で左右することはできない、ということなんですね。
なんで冒頭から小難しいことを並べるかというと、本作は予定説を地で行く作品だったからなのです。
人間の運命は絶対者によって定められて、介入することが出来ないものかどうか、皆さんならどう思われるでしょうか?他力信仰では往々にして、運命は変えられないものという考え方が強くなってしまいます。こういう予定論は、仏教から見たら、ちょっと疑問に思ってしまうのですね。仏教では、どんなに凡人でも日々の爪の火を灯すような僅かな精進をコツコツ積みかさねていけば、法輪すらも転じることが出来る、すなわち悪しき運命を変えていき、やがては仏となれるというのが仏教の基本的考え方です。
本作は、一見不動の予定説を描いた作品と見せかけて、最後の最後に実はとばかり、個人の情熱や頑張りが予定説を超えていくというオチをつけたところが、気に入りました。
カルヴァンは、思想を述べるだけだったけれど、本作に登場するアジャストメント(運命調整局)のエージェントたちは、執拗に人の運命があらかじめ決められたとおり調整しよう、要らぬ御節介を焼き続けます。
彼らが執拗なのは、主人公の上院議員を目指しているデヴィッドが本来乗るべきでないバスに乗ってしまったため、世界は修復困難な別の道を歩むことになってしまったから。
ただ、せっかくマッド・デイモンを投入しておきながら、地球規模の危機が、バスでたまたま出会ったエリースと一目惚れするというラブロマンスに原因が矮小されてしまうのがいただけません。ボーンシリーズの脚本家が監督をしているのなら、もっとスリリングなネタを思いつかなかったのでしょうか。
エージェントたちが、必至に地球規模の危機を回避させようと、デヴィッドに介入する姿は、人の恋路を邪魔する小姑のそれと対して変わらない理不尽さばかり感じてしまいました。
定められた人生を書き換えていくラブストーリーにしたかったのなら、『ジュリエットの手紙』のようにもっとロマンチックに徹するべきでしょう。ふたりが恋を成就させようと、「どこでもドア」のような運命の扉をパカパカ開いて、エージェントから逃げ惑う姿は、良くできたドラえもんのストーリーのようです。逃避行のシーンは、中途半端にアクションを取り入れていているものの、冒頭から追っ手の存在をネタバレしたため、スリルな感じがしませんでした。やはり謎の存在、しかもどこからでも現れる神出鬼没なところから得体の知れない集団が襲ってくるからスリリングなんですね。
本作のウリであるマット・デイモンの不思議な疾走感と意外性のあるストーリー展開は、稚拙なネタバレによって、すっかり盛り上がりに欠けるものになってしまいました。それでもマット・デイモンの存在感でギリギリ映画としては成立しているので、見て損はないでしょう。
ともかく、ふたりが恋に落ちると、世界が危機に瀕してしまう。主人公は、恋にうつつを抜かさず、まっすぐに大統領の座に突き進み、世界の危機を救うリーダーにらなくてはいけない。そういう運命の「予定」に沿って、運命調整局の面々は全力で、ふたりの恋の成就を阻止しようとします。
それに対して、エリースを諦めきれないデヴィッドは、持ち前の反骨精神で、逆に運命調整局に乗り込み、調整局のボスに直談判しようとします。さてさてデヴィッドの情熱は、天に通じるのか。ほぼ「神」ともいえる存在の、調整局のボスが下す味な判断にご注目あれ。
最後に、運命の扉は決して唯一無二ではないということを実感できる作品です。いま何かで失敗して失意のどん底にある人でも、本作の最後のメッセージに触れられれば、きっと失敗というドアを開くことが、成功に導くために必要な過程なのだということが実感できると思います。一つの扉は閉まっても、それが縁でもっと大きい成功への扉が開くのですね。D.カーネギーの名言のように、『道は開く』ものなのです。