「そこに生きた人の記憶」コクリコ坂から かみぃさんの映画レビュー(感想・評価)
そこに生きた人の記憶
拙ブログより抜粋で。
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監督の前作『ゲド戦記』の評で、「宮崎吾朗監督の次回作があるなら、もっと身の丈にあった題材で勝負すべき」と書いたのだが、まさにそれを成し遂げたと言っていいだろう。ジブリお得意のファンタジー要素を排したリアル路線の本作は、とても同じ監督の作品とは思えないくらいずいぶんと好印象を残す快作だった。
いや、正確に言うと『ゲド戦記』同様、限りなくダメダメなんだが、非常に危ういところの奇跡的なバランスでいい方に転がったという気がしないでもないのだが。
映画が始まって早々、海が朝食の用意を始めるシーンで、彼女の動きが硬いなと感じた。しかしそれは、物怖じせず、はきはきものを言うこの時代の少女像を反映してのことと気づき始める。
やたら背筋の伸びた俊や水沼たちも同様で、その姿勢のいいキャラクター造型になんとなく違和感を感じつつも、それらは往年の学園ドラマを思い出させ、そういう狙いなんだろうと納得した。
しかし理屈では理解しても、時代背景相応の懐かしさは、正直筆者には響いてこない。
淡泊な演出ゆえの監督の狙い通りなのか計りかねるのだが、マッチで火を点けるガスコンロにせよ、手回しで洗濯物を絞る洗濯機にせよ、一枚一枚手刷りするガリ版印刷にせよ、それら時代を反映させた小物や情景を知らない自分でもないのだが、どうもさらりと流してしまって琴線に触れてこない。
内面的な恋心にしても、海の心のひだは丁寧に拾われている一方で俊の側はおざなりで、彼の恋心はまるで伝わってこない。
また学生仲間は比較的印象に残るが、コクリコ荘の同居人は影が薄い。特に海の祖母・花(声:竹下景子)や弟・陸(声:小林翼)の存在が後半ほとんど忘れ去られてしまっているのが気になる。
キャラクターの描き込みが中途半端なのは監督の未熟さゆえだろう。そもそも表情に仏教面かニコニコ笑顔ぐらいしかほとんどバリエーションがない。
この欠点を如実に表しているのが、海が自身と俊との逆らいようのない関係を知った重要なシーン。複雑な心境を真っ正面から描くことを避け、雨の中のロングの絵と説明ゼリフに逃げてしまったように思う。
とまあ、作品をダメに思う点を挙げればあれこれ枚挙にいとまがないのだが、それはそれとして、最初に書いたよう案外心象が悪くないのは、主にカルチェラタン取り壊しにまつわるエピソードの描き方がかなりノリノリで、魔窟という表現がぴったりのカルチェラタンの造型を含め、見ていて楽しいから。
異国情緒漂う横浜をイメージしたジャズ・ピアノなどのBGMやストレートに時代を感じさせる昭和歌謡の挿入歌にもかなり助けられていると思う。
『ゲド戦記』では鼻についた言いたいことをそのままセリフにしてしまう悪い癖も、ここでは文字通り“青年の主張”としてシーン設定されているので嫌みがない。
曰く「古いものを壊すことは、過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?新しいものばかりに飛びついて、歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」
俊の口を借りて突きつけられたこの主張こそ、監督の言いたいこの作品のメインテーマだろう。
物語の冒頭、信号旗を揚げる海。
序盤での海と祖母との会話から、てっきりこの映画は彼女が信号旗を揚げなくなって終わるのだと思っていた。それが少女の成長の証となって。
しかし実際の結末は違う。最後もやはり海は信号旗を揚げる。物語の構成上それは、振り出しに戻った結末と言っていい。
おそらく海の内面は成長しているだろう。でも表面的には変わらない。
実はこの繰り返しの構図こそが、この作品の肝だった。
人生に関わるほど辛い現実を知った日の次の朝も、海はいつもと変わらず段取りよく皆の朝食を作った。
昨日と変わらぬ今日、おそらく明日も変わらない。
「今まで通り」その言葉が海に重くのしかかる。
その閉塞感の一方で、古くなったカルチェラタンの取り壊しには反対する。変わらないことを肯定する。
歴史があるから。文化があるから。そこに生きた人の記憶があるから。
丹念に描かれた歴史描写にはピンと来なかった筆者だが、大した事件の起こらぬこの映画の結末には爽やかな感動を覚えた。
閉塞感を感じるほど変わり映えしない毎日に対する明快な答えがそこにはあった。
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全文は『未完の映画評』にて。