アンチクライスト : 映画評論・批評
2011年2月22日更新
2011年2月26日より新宿武蔵野館、シアターN渋谷、ヒューマントラストシネマ有楽町ほかにてロードショー
鬼才トリアーによる自己チュー分析エンターテインメント
忘却の彼方の感もあるドグマ95の誓い。提唱された自律のルールはいっそ不自由という自縛の術の獲得法ともみえて、そんな自虐的束縛を創造の原点とするラース・フォン・トリアーの映画作りの神髄を示唆してはいなかったか。自虐の要素を除去することが最も苛酷な自身の痛めつけ方(最大の快楽の取得法)と心得た監督の新作「アンチクライスト」の、ドグマお構いなしの(黒白、スローモーション、ヘンデルの調べ……)プロローグ! 迷いなくそれを差し出して映画は鏡張りの球の中の自我宇宙へと観客を導く。
「ドッグヴィル」「マンダレイ」に続く一作が頓挫し陥った鬱状態を脱するためのセラピー映画。そう告白して改めて自縛装置を完備する監督は心療セッションそのままの問答で台詞を紡ぐ。子供(=新作)の死と対峙するセラピスト/夫(=トリアー)と患者/妻(=同)。ふたりでひとりの“私”を恐怖のピラミッドの頂点と認めるまでに通過する頭の中の景色。自問自答が画面の内(物語)と外(セラピー)とで微かにずれつつ響く。男と女、理性と直観、文明と自然の壮絶な格闘。心理劇、ホラー、寓話。ベルイマン「鏡の中にある如く」→聖書コリント人への第一の手紙13章→愛と信仰と希望→本作の悲嘆、苦痛、絶望。と、幾通りにも解釈可能の世界。だがトリアー界に在るのはトリアーだけ。ヒロイン(“私”のひとり)を葬っても顔のない無数の私(ヒロインたち)がまた湧き出でて地獄絵を完遂するだけだ。そこに創造源たる無間を確認し閉幕する自己チュー分析エンターテインメント。それは苦しさを喜々と楽しむ監督/神/悪魔の手の内をさらりと開示し、そのあっけなさでこそ興味深い怪作となっている。
(川口敦子)