わたしを離さないでのレビュー・感想・評価
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魂の有無と愛の証明ですか
原作は未読。古典SFかと思えば、最近の小説なんだってね。
原作の雰囲気というのものを守ろう、守ろうという作りがすっごい感じ、序盤はいい雰囲気だなあ、と観てた。
だけれど主人公3人の年少時代、青年時代の取り巻く環境がどう考えてもおかしく、こりゃいかんなあ、と思いだした。
なぜ彼らに教育を行う?なぜ彼らにカフェでの注文の仕方を教える?なぜコテージで生活できる?なぜエロ本が手に入る?なぜセックスできる?なぜオリジナルに会いに行こうと出来る?なぜ彼ら自身が介護人になれる?なぜ運転できる?なぜ逃げない?
後半一部その理由が説明される。
そもそも施設は「クローンの味方」であり、「施設」はクローンに魂があることを実証する場であることが分かる。
ところがそれを実証する施設も要らないだろう、となり閉鎖されたのであろう。
映画ではありがちの「クローンの魂」より「オリジナルの命」。
結果的には、養豚場のような施設であるべきだったのに、モラルが引き起こした悲劇が生まれる。
後半、魂の有無と愛の証明ができれば提供延長できるという、うわさを信じその懇願をするが、それは噂でしかないことがわかる。
しかし主人公たちは提供延期できないことを意外と素直に受け止める。
彼らのそんな反応は施設の強制教育によるもの、というよりも、そもそも本能的に逆らうという意識をもっていないのかもしれない。
このシーンはそれを絵画などで証明できると考えている彼らがなんとも悲しくみえるのと同時に「彼らは普通ではない」ことを表している。
魂の有無と愛の証明かよ~~。クローンでなくても出来んな。
彼らが逃げ出さないのも、「リスト」があるため、とか施設の教育で「逃げると言う選択肢」を失われているということよりも、あれほど生活に自由度がありすぎるので、やはり彼らは基本「逆らわない存在」と考えるのが普通であろう。
彼らは死を恐れたわけでもない。
ましてや存在意義を示したかったわけでもないし、なにかになりたかった訳では全く無い。
彼らはただ「全うすることが目的」だった。
人間だとそうするであろうことが出来ない「逆らわない存在」。
キャシーはそこに気づき、普通の人間といったい何が違うのか、自問することになる。
ラストのトミーが「オチ」たと瞬時に手術に入る手際のよさがなんとも言いがたい余韻を残す。
3人の主人公いいね。個人的にはナイトレイ。
蛇足
でもやっぱりオリジナルを見に行こうとしたり、クローンがエロ本読めたり、セックスできるのはまずいんじゃ?
何故 抗う者を描かなかったのだろう
どうしても そこが気になる。
抵抗したり、逃げようとしたり。
手首に入ったチップで追跡されるならば、壊そうと試みたり切断まで考える若者が何故か出てこない。
命の終わりを他人から操作される原作は読んでいない。
運命として受け入れるか?自身の芸術的価値で延命を試みるか?は一部賛同出来るが、主要人物でもっともっと生に執着する人物が出て来て欲しかった。
それは原作がそうだからだろう。
仕方ない。
就職して社会に貢献している姿を見せるなら尚更そう思う。
鑑賞動機:どうやらSFらしいと聞いて10割
原作未読。すぐ連想したのは、新井素子の某作。結局はどういう視点でどう書くかであろう。そしてなんか「愛はさだめ、さだめは死」の匂いもする(こじつけ)。SF脳も大概である。
サリー・ホーキンスにアンドレア・ライズボローとドーナル・グリーソンいるのね。キャリー・マリガン(と子役)の幸薄くて絶妙に鈍臭い感じ好き。
“Never let me go”が妙に官能的に聞こえる。
終わりから始まって一周して終わる構成好き。ゆるりゆるりとその状況がわかってくるやり方好き。物語を作るなら、現実と同じ感覚でこの仕組みに抗うような話になるのだろうし、そんな話はいくらだってある。だってそっちの方が面白いお話になりそうだもの。でもここではそうはならない。この世界の中での愛や夢や希望や挫折を描き、私たちの感覚がどうであろうと、彼女らにとっては普通の人生を映し出す。
ああ、やっぱり「愛はさだめ、さだめは死」だった。私の認識している世界ではそれが当たり前の結論なのだった。
イシグロ氏がノーベル賞を受賞する前に、日本のドラマで見ていた。ドラマ(日本の)を見た限りでは、可哀想!ヒューマンドラマだと思ってしまった。
何年か前に原作は読んでいた。面白かったが、特別な印象は残らなかった。『ドラマ見たことあるな。』位だと思う。暫くして、DVDを図書館で借りて見て見た。前述の様に、カズオ・イシグロって知る前、つまり、ノーベル賞を受賞される前に、日本のドラマで見ていた。ドラマ(日本の)を見た限りでは、可哀想!ヒューマンドラマだと思ってしまった。誰でもそう感じるとは思う。しかし、あらためて、この映画を見て(二回目)全くの出鱈目な話だと思った。淡々と死を受け入れるなんて、出来る訳がない。何かをデフォルメしていると感じた。『何故逃げない』そう誰でも思う。それが、この映画や原作の矛盾点だと感じた。
職場の仲間がこの原作を3ヶ月掛けて読んだ。同じように、何故逃げない。と言う疑問に行き付いたそうだ。僕は『日本の特攻兵見たいなもの』と答えた。しかし、彼は『人間の運命見たい』と返してきた。社会の体制に縛られる個人。と僕は見たわけだが、あらためて再考すると、彼の言う事が正解だと確信した。淡々と死を受け入れる。つまり、人間の一生なんて、そんなもの。誰でも必ず死ぬ。だから、可哀想とかヒューマンとか過酷な運命ではない。この映画は日本のそれ(ドラマ)よりも淡々と描いていると僕は感じた。職場の同僚は3ヶ月で読破したが、僕は面白かったので、三日間で読んでしまった。しかし、面白い対象が違っていたようだ。まぁ、映画見たから、本はもう読まなくて良いが。単純な青春群像劇としてとらえたとすれば、そのへんのライトノベル作家でも書けそうな話。やっばり、ノーベル賞作家なのだから、感情に訴えるだけのデタラメ話を書く訳がない。
置き換えてみれば
カズオ・イシグロの作品は、けっこう残酷なところがある。作品ごとに世界観が違い、日本、執事、探偵、騎士、など、バラエティに富んでいる。この作品はざっくり言えばSF? イシグロのインタビューか何かで、作品の構想中、生きる時間が定められた若者を思いつき、そこからふくらませた物語だそうだ。
映画は原作のエピソードを取捨選択しているが、割と物語を忠実に追っている。ただ、文章を読んで想像するより、可視化されて生々しくなったところもある。栄養管理、健康管理の徹底ぶりや、学校にやってくる「プレゼント」のがらくたぶりなど、なるほどと思った。ダークチョコレートも食べられないし。甘党には悲しいよ。もし、成長途中で治らない病気になったら、やはり強制終了なのだろうか…。
題材が暗いが、他のものに置き換えれば、日常的にあることだ。人間が食べるために育てられる動物、新薬の効果を試される動物、住む土地や文化を奪われた民族など、一方が犠牲を強いられることはたくさんある。それが当たり前になっていることを確認させられる。キャシー達5人がカフェに行った時、店内の年配の客が、眉をひそめながら彼らを見る。「提供者」が臓器を移植してくれるから、その人達は無事に年を重ねられたのに、それを当然と認識している。「提供者」にも感情や知性があることは想像もせず、下等な存在として見下すのだ。映画ではそれを描写するまでだったが、TBSのドラマでは「提供者」の人権に踏み込んでいた(トミーにあたる役を三浦春馬が演じていて、熱演だった)。
タイトルにもなっている曲「Never Let Me Go」は、古臭い印象だったが、よく考えたら元の持ち主が飽きていらなくなったから、ヘールシャムに渡ってきたってことか。外部と遮断された中で、自分の好みの音楽が何かも知らず出会ったテープ。辛い時もキャシーの救いになっていた。トミーもしゃれたものを贈り物に選ぶよね。ちなみにドラマの曲の方はおしゃれだった。
おしゃれと言えば、タイトルや年、場所が変わる時に挿入される、無地バックに文字だけ、というのはかっこ良かった。海辺の難破船を見ながら3人が佇むシーンや、キャシーが柵に引っかかかったごみを見つめるラストシーンも美しかった。
臓器提供の話かと思ってたら・・・
死生観の講義を受けていてこの映画を紹介されていた。その前から気になっていたものの見逃していたのでいい機会なので視聴することに。
臓器提供するために寄宿舎で集団生活をする子どもたち。そのことをちゃんと知らされず、知った時にはすでに提供する目前の状態。恋心や感情もマダムから見たら籠の中の鳥がバタバタ騒いでいるだけでどうすることもできないことを悟る。
原作は全く知らずに見た。オリジナルという言葉が出て来た時点で、あっクローンということね、ということが分かった。ということは地球上のどこかで自分と同じ人物がいるということ。そのクローンと知っても、人のことを好きになる感情、嫉妬する感情、人間としての魂があるかどうかは調べるまでもない。その魂と現実しての臓器提供という狭間で葛藤するのがよく伝わってくる。
臓器提供を何回するか、というのがドライに●回で終了という表現になるのは冷酷なもので、怖さすら感じた。
生のを理解せずに命尽きていく。
このことを知っただけでもクローンとして臓器提供するためだけに生きていることを受けとめた言葉なのだ。
提供と享受
『人間は人間以外のものに対して、魂が無いとでも思っているのか?』
キャシーから投げかけられたこの問いかけが、人間のエゴを的確に表す言葉として、鑑賞後も私の頭からずっと離れませんでした。劇中のキャシー、ルース、トミーは、まるで言葉を持たない生命の代弁者、普段私達が気にもとめない生命の象徴(家畜、養殖用の魚、植物、実験動物、ペット用の動物)の様に感じました。
作品はキャシーからの視点で描かれていましたが、逆に人間社会の視点から観ると、臓器移植がシステム化されたことにより、人間がこのシステムの恩恵を受けて、社会が上手く回っている様にみえました。クローンの『終了』に立ち会う病院関係者も、ヘイルシャム寄宿学校の教員もシステム化された中で職務を全うしているにすぎません。たまには感傷的になって退職する教員がいますが、ほとんどの人はシステム化された臓器移植について深く知ることも真剣に考えることもないままなのかもしれません。あるいは、システム上、仕方がないことと捉えているのかもしれません。このシステムに対する人間の振る舞いや考え方は、見覚えがある方も多いと思います。
今作は、人間がクローンに臓器を『提供』させている話ですが、では人間は、人間以外の生命に対してだけ『提供』を強いているのでしょうか。過去に人類は、人間を使って人体実験をしていた歴史があります。昨今で有名なのは、ナチス(アウシュビッツ)や731部隊(満州)でしょうか。また、第2次世界大戦中に日本軍が神風特攻隊に出した突撃命令の思想も、根本は人体実験と同じです。つまり、人間は人間に対しても『提供』を強いてきたのです。
劇中、クローンは自らの運命を受け入れて抵抗をしませんでしたが、アウシュビッツでのゾンダーコマンドや神風特攻隊もクローンと同じく、ほとんどの人が自分が殺される事を承知の上で、職務というシステムに従い抵抗をしませんでした。今作の介護人システムをみていると、アウシュビッツで死体処理係という職務のあとに数ヶ月で抹殺されたゾンダーコマンドシステムをみている様でした。
クローンとは一体何者なのか?を考えた時に、利益を『享受』する側に、己の利益を『提供』し続ける全ての生命の事なのだということに気がつきました。そして、人間とは一体何者なのか?を考えた時に、利益を『享受』する側でもあり、利益を『提供』する側でもある存在だということです。
私達は、無慈悲な『提供』を受け続けるのか。クローンの様に『提供』し『終了』するのか。あるいは、無批判に受け入れられている社会システムを変えるのか。そう問われた気がします。
『私は自分に問う。私と私達が救った人に違いが?
皆、終了する。生を理解することなく、命は尽きるのだ。』
つらいしかない。
ノーベル賞のイシグロのベストセラー。
淡々と描かれていますが、あかされる事実が重くて、消化不良を起こしそうな作品ですね。。。
医療用ドナーとしてクローンとして生まれ、隔離施設で育てられ、やがて切り刻まれていく運命。辛すぎる。
Never Let Me Go
長い科学の歴史において、羊や牛などを筆頭に人工的な動物個体のクローン作成は多数成功例があるが、ヒトのクローン作成の成功例はいまだないとされる。日本ではクローン技術規制法によってヒトのクローンを作成することは禁じられており、その理由の一つとして「クローン人間に普通の人間と同等の人権が認められなくなる」ことが挙げられる。私自身、本作を観ていて一番懐疑的になった点である。原作はカズオ・イシグロ氏の同名SF小説であるが、現実では成功例のないクローン人間の葛藤を題材にした作品であることを踏まえると、ある意味ディストピア的で、それに対する警鐘を鳴らしている物語であるといえるだろう。
「臓器提供の倫理を実践する最後の場所」であるヘールシャム。一見、よくあるイギリスの寮生活の風景なのであるが、実際は外界との接触がなく閉鎖的で、食事や習慣は恐ろしいほど皆同一化され、校歌の歌詞には洗脳まがいのフレーズが登場する。しかしながらそのような環境をもってしても、生徒たちの「魂」に介入したり抑圧できない領域があったのではないだろうか。ルーシー先生は、中年になるまでに「終了」してしまうかもしれない自分自身の「生」に意味を持たせなさいと警鐘する。それからコテージで多感な時期を過ごし、愛し合う者がいて、介護人になることを選ぶ者がいる。それぞれが「生」に意味を見出し始めるも、時は流れて提供者として「終了」を迎えるという避けられない現実を受け容れるルースやトミーの表情からは、かつてのあどけなさは消え失せ、絶望が影を落としている。
生まれた時から死ぬことが決まっていて、限りある時間の中で生きていくという事実は、キャシーやトミーやルースだけにではなく、本作を目の当たりにする私たちにも同じなのだ。彼らには「生」の有限性が強調されていて、観る者はより一層強くその事実を認識させられざるを得ない。「自分たちと救った人の間に違いがあるのか」いや、ないはずだ。
いかなる理由であってもクローン人間など作られるべきではないのであるが、クローンとはいえ作られた以上は人間であり、人間として与えられる当然の権利・尊厳は守られるべきだと私は思う。
現実味が湧かず入り込めなかった
人間としてあり得ない。
自我が目覚めたなら
愛が芽生えたなら
脱走するか考えるでしょう。
また同じ人間として
こんな扱われ方は出来ない。
感情を持った人を道具のように扱えるわけがない。
見終わったあと心が重いし暗くなる。
音楽は妙に心に響いた。
性倫理的な面から評価は下げる
『わたしを離さないで』(2010)
原作は2017年に日系人としてノーベル文学賞を受賞したとして日本でも話題になった、カズオ・イシグロで、それがあって、放映があったのを録画してみたが、ネットで調べて補足して感想を書くが、臓器提供をして死ぬ運命を背負った人達というSFの設定の強引さがピンとこず、類似なのは徴兵制だろうかと思っていたが、劇中で「オリジナル」という人を主人公たちがのぞきみるという場面があり、ネットで調べたら、臓器提供と死を運命づけられているのはクローン人間で生まれた人たちだったのだということがわかった。しかし思考も感情も何から何まで人間そのものであり、喧嘩もあれば恋愛もあるのだが、クローン人間の危険性ととらえるか、生命の大切さをとらえるか、考えさせられるところはある。臓器摘出の場面もあり、怖い感じもある。◆最近はアメリカの州で、人工中絶をした医師を終身刑に処するという賛否でる政治判断の報道がなされたが、それに通じるような思いもある。この問題も、反対者たちは、性暴力や近親からの強制的行為からできてしまった
子供はどうするのだなどという反論をみた。私はそうした反論のような、生まれてしまった子供の悲劇性は心配するが、そうした反対の陰に隠れて、同意があれば赴くままの性欲的な自由な性行為、フリーセックスといわれる状況はまずいと思っているから、この映画でも、クローン人間で死ぬ運命であるという設定ながらも結婚せずに、フリーセックスになってしまうのを美化するような点では、
批判的にみた。だから評価は下がる映画であった。若くして死ぬ運命でも結婚はできるから、
二人の女性と性行為してしまう男性を美化するのはよくない。キーラ・ナイトレイが美しさを抑制して、特に臓器提供後の姿は美貌を塗りつぶしている役柄が重かった。キャリー・マリガンは、『華麗なるギャッツビー』を以前観たはずあので、レオナルド・ディカプリオの最後の場面や、金持ちと女性の問題を扱っている哀しみは感じたと思うが、共演していたのが、キャリー・マリガンらしいのは、
まったく同定できなかった。一つ二つの映画をみても、特に外国映画は、出演者も判別できなかったり、認識したはずなのに、わからないという思いをさせてくれる。これもインターネットで調べることができる時代になり、勘づくことでもある。だが結局愛を生涯与えられたはずの寿命まで為せない
はずの主人公たちの悲劇は、フリーセックスになってしまう悲劇でもあったかも知れず、そういう面でとらえようとすれば、カズオ・イシグロは逆説的な性的倫理を保っているようでもあるだろうか。そういう意味でフリーセックスが乾いているような村上春樹にはノーベル文学賞は受賞してもらいたくないと常々思ってきたが、ノーベル文学賞に価値を見出すこともないのかなとも思ったりする。当時、東京国際映画祭で上映されたのが東日本大震災直後で、2週間ばかり後のようであるのは、
それもなんだか怖い気もしたが、私も被災者ではあるが、その頃はかなり心境がピリピリしていたのではないかと思う。
ずっしりと心に残る作品
大分前に観ましたが、衝撃で涙が止まりませんでした。
実話ではないにしろ、実際にありえそうに感じました。
子供達が大きくなるにつれて意味を理解し、それでもそれを受け入れる…。
だけど、彼らは自分の運命を知り、それに反発し始める・・・なんとも残酷で悲しい映画でした。
ただ、とても後味が悪く残酷ですが、同時にとても引き込まれます。深く考えさせられます。
カズオ・イシグロ氏、ノーベル文学賞、受賞おめでとうございます。
切なすぎる
新任教師から君たちは臓器提供をするために生まれてきたという真実を告げられた時、なぜ生徒たちはまったく動揺しなかったのか不思議、というか不自然である(トミーは風で落ちた書類を拾い上げる冷静さ?さえあった)。また、青年になっていつでも逃げれる環境にいながら、SF映画「アイランド」のように、なぜ逃げないのかという疑問も残った。
最後、結局猶予申請は噂に過ぎなかったという事実を突きつけられ絶望してしまうが、観ている我々にとっても悲しすぎる展開だ。
個人的には、猶予申請が認められるか、クローン人間による臓器提供自体が反対派による圧力で禁止になるとかで、ハッピーエンドにしてほしかった。最後に3人で行った廃船のある浜辺て、ルースがトミーをキャシーに返して二人が猶予申請して生き延びられたなら、臓器提供をベースにしてはいるが、その実、友情と初恋成就の物語になったはずなのだが。
ハッピーエンドにしたくても、ノーベル賞受賞者の原作を変えるのは恐れ多くてできなかったかとも思ったが、この映画が製作された時はまだノーベル賞は受賞していなかった。
生の意味、死の意味、愛することの意味
主人公が最後に独白する。
「私達の生命と、私達が救う人達の生命とに違いがあるのだろうか?」
クローンだからと言って、生命の重さに違いがあるはずは無い。
ある者は、その無差異に本当に気付かず、またある者は気付かないフリをして国立提供者プログラムは継続されていく。
クローンである主人公達はモルモットである。
彼らの生命の提供により、人類は不治の病を克服し平均寿命は100歳を超えた。
その陰でモルモット達は他人のために、かけがえの無い生命を確実に失う。
『提供』という行為を例えるなら、我々人間が自分の生命を永らえさせるために、家畜や植物の生命を、彼らの意思に関係無く強制的に搾取する行為であり、我々は通常その事に罪悪感を抱かない。家畜や植物には、心が、魂が無いとみなしているから。
原作者はこの作品で誰かに抗議したいわけでは無いと言っている。
だが結果的に、クローンという存在を登場させることで、他の生命を食べて生きている我々人間の残酷さを暗喩してしまっている。
主人公達は提供により短かい人生を余儀無くされている。
だからこそ短い人生をより充実させて生きたいと願うべきかもしれないが、主人公達は宿命を受け止め、むしろ淡々と死に向かう。
その淡々さを原作者は、手遅れの告知を受けた癌患者にも同様に見られる行動だと説明する。
むしろ、いつ死ぬのかはっきり分からない、普通の人間達の方がいざ死の間際に立たされると、うろたえ、嘆き、その宿命を神にさえ恨む。
20歳を過ぎると提供が始まり数年前後で生を全うする。だから、そんな彼らは努力しても何者にも成れないと諦めてしまうのだが、それを責めることは誰にもできないだろう。
テレビドラマ版では、クローン達の少数は提供するために作られた事に抗議の声を上げ、自らの手で生命を終わらせる者が登場する。
自傷しながら彼女は最期に悲痛な想いを叫び絶命する。
「自分の生命は何なのか、普通の人達と何が違うのか、そういうことを感じたり考えたりしないような存在として作って欲しかった。」
映画版にも出て来て欲しい登場人物とも思うのだが、冒頭に書いたように、実は映画版で主人公はまさに同じ事を淡々と静かに独白している。
校長達が生徒の作品をギャラリーに集める目的が謎として終盤まで引っ張られるが、結局「魂が在る事を確認するためだった」と明かされる。それに対して、原作では主人公は「私達に魂が無いと思っている人が居るのですか?」と問う。
このズレこそ、我々が生きるために食べる動植物の生命に対する無関心と同質のものであり観る者に痛烈な自省を促す。
校長・マダム達はクローンに教育を与えると共に、世の人達に対して自分達が運用している“提供プログラム”の残酷さを世に啓蒙し、主人公達を救い出したかったのだ。過去に人類が奴隷なる存在を創り出し、改めて解放した時のように。
誰に教わるわけでも無く、深い愛情・友情を育みながらも、哀しい宿命を避けることができない主人公達に、観る者の心が掴まれるヒューマニズム溢れる作品だと思う。
超ギリギリ
こっちでは常識、あっちでは非常識、
そんな事は世界中どこにでもある事。
日本人にしてもそう。時には残虐に見られたり粗暴に見られたりする。時には鼻で笑われていたりする。日本人の考え方、文化そのものをね。でも逆に日本側から見た非常識も、世界中にはたくさん存在する。
この映画は、これからの管理社会に向けての皮肉にも似たメッセージ映画。どんなに過酷な状況も、それが常識、当たり前であるならば、それは普通の事。ほんの少しの希望さえ持つ事を許してさえくれれば人は生きていける。喜びの価値観なんて、与えられた物の中の優劣でしかない。
この物語を作った人、いやぁ凄いね(笑)
命について考えさせられる
最後のセリフが胸に刺さります。
いろいろと?となるところはありますが全体的には私好みの映画。
命の重さって人それぞれ違うのか、あるいは全くの平等なのか。
自分自身何を目指して生きているのか。
そんなことを考えさせられる重い作品でした。
キャリー・マリガンの演技が印象的。
死に方を…
あまりにも
重たく 考えさせられる映画でした。
映画とはいえ
世界中のどこかで ありえないとは言い切れない事だからです。
現実からかけ離れていればただのSFとして見れたかもしれませんが 残酷でした
なぜ 彼等は 逃げ出さないのでしょう?従順なのでしょう?
いくつからそのような教えがあったか どのような境遇で生まれてきたのか わからなかったけれど彼等を生んだ親たちは そのような人生を望んだでしょうか?
誰でも 死 と向き合う人生を担っていますが 死に方を特定される人生はあまりにも 可哀想です。
このようなこことが
現実に起こらないことを祈るばかりです。
世界は…。
観ながら、複雑な違和感に襲われました。まず、ある種のSFという先入観があったせいか、全く近未来的な描写やテクニカルな要素がないことに。意匠は現在と変わらないか、むしろ懐かしくさえ感じられます。それは、彼らに与えられるものが、不要になったガラクタだからでもありますが…。
次に台詞の奇異さに。全く違う字幕をつければ、平凡な青春ものにすり替えることも可能なくらいに穏やかな日常を描写しながら、台詞だけが異様な現実を明らかにしていきます。彼らは、それをむしろ淡々と受け止めているようにさえ見えますが、こちらの理性が勝手に違うストーリーを上塗りしたくなってしまうほどに過酷な現実を。
そして、なぜ彼らは、それほどまでに従順なのか?という疑問。原作を読んではいませんが、幼児期は、どう育てられた設定なのか、その描写はあるのかという興味。
人間をまるで機械のように、必要な栄養と知識だけを与えて育てる(飼育と言うべきでしょうか?)恐ろしい実験が、過去、実際に行われたことがあります。その結末は、ここに記しませんが、本作の描く世界とは違うものです。
原作を知らずに勝手な憶測を書いてしまいますが、彼らの幼児期は、子供が欲しくても出来ない夫婦に短期間預けられるという設定が必要な気がします。
なぜなら、遺伝子は愛を知らないのです。それは後天的に学習して身につけるものなのですから。
だからこそ、愛し合うもの同士が結ばれ、友人たちに祝福され社会的に認知されることは特別なことなのです。
その儚い夢、根も葉もない噂にすがった、微かな希望はあっけなく砕かれてしまいます。青年の言葉にならない叫びが違和感と痛ましさをフルボリュームにしてバラ撒きます。観るものは、それを受け止めねばなりません。監督の意図が、こちらの気持ちに不協和音を生じさせることにあるのなら、成功と言えるでしょう。
暴力も差別も、許し難い犠牲も、言葉によってなされるのでしょうか?
世界は言葉で出来ています。
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