「生の意味、死の意味、愛することの意味」わたしを離さないで k2csf@pecさんの映画レビュー(感想・評価)
生の意味、死の意味、愛することの意味
主人公が最後に独白する。
「私達の生命と、私達が救う人達の生命とに違いがあるのだろうか?」
クローンだからと言って、生命の重さに違いがあるはずは無い。
ある者は、その無差異に本当に気付かず、またある者は気付かないフリをして国立提供者プログラムは継続されていく。
クローンである主人公達はモルモットである。
彼らの生命の提供により、人類は不治の病を克服し平均寿命は100歳を超えた。
その陰でモルモット達は他人のために、かけがえの無い生命を確実に失う。
『提供』という行為を例えるなら、我々人間が自分の生命を永らえさせるために、家畜や植物の生命を、彼らの意思に関係無く強制的に搾取する行為であり、我々は通常その事に罪悪感を抱かない。家畜や植物には、心が、魂が無いとみなしているから。
原作者はこの作品で誰かに抗議したいわけでは無いと言っている。
だが結果的に、クローンという存在を登場させることで、他の生命を食べて生きている我々人間の残酷さを暗喩してしまっている。
主人公達は提供により短かい人生を余儀無くされている。
だからこそ短い人生をより充実させて生きたいと願うべきかもしれないが、主人公達は宿命を受け止め、むしろ淡々と死に向かう。
その淡々さを原作者は、手遅れの告知を受けた癌患者にも同様に見られる行動だと説明する。
むしろ、いつ死ぬのかはっきり分からない、普通の人間達の方がいざ死の間際に立たされると、うろたえ、嘆き、その宿命を神にさえ恨む。
20歳を過ぎると提供が始まり数年前後で生を全うする。だから、そんな彼らは努力しても何者にも成れないと諦めてしまうのだが、それを責めることは誰にもできないだろう。
テレビドラマ版では、クローン達の少数は提供するために作られた事に抗議の声を上げ、自らの手で生命を終わらせる者が登場する。
自傷しながら彼女は最期に悲痛な想いを叫び絶命する。
「自分の生命は何なのか、普通の人達と何が違うのか、そういうことを感じたり考えたりしないような存在として作って欲しかった。」
映画版にも出て来て欲しい登場人物とも思うのだが、冒頭に書いたように、実は映画版で主人公はまさに同じ事を淡々と静かに独白している。
校長達が生徒の作品をギャラリーに集める目的が謎として終盤まで引っ張られるが、結局「魂が在る事を確認するためだった」と明かされる。それに対して、原作では主人公は「私達に魂が無いと思っている人が居るのですか?」と問う。
このズレこそ、我々が生きるために食べる動植物の生命に対する無関心と同質のものであり観る者に痛烈な自省を促す。
校長・マダム達はクローンに教育を与えると共に、世の人達に対して自分達が運用している“提供プログラム”の残酷さを世に啓蒙し、主人公達を救い出したかったのだ。過去に人類が奴隷なる存在を創り出し、改めて解放した時のように。
誰に教わるわけでも無く、深い愛情・友情を育みながらも、哀しい宿命を避けることができない主人公達に、観る者の心が掴まれるヒューマニズム溢れる作品だと思う。