闇の列車、光の旅 : 映画評論・批評
2010年6月22日更新
2010年6月19日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー
貨車と映画の相性のよさを足場に、観察と確信で観客をひっぱる
90分のフィルムにいろいろな素材が詰まっている。いや、素材と呼べば、呼吸や体温が逃げてしまう。「闇の列車、光の旅」には「生身」がうごめいている。肉体の動きと情感の動きが巧まずして響き合い、蜂蜜色の光線を断ち割るように移動していく。移動を可能にしたのは、中米を縦走する貨物列車の力だ。さらにいうなら、貨車と映画の相性のよさを確信した新人監督C・J・フクナガの手柄だ。
映画には、柱が2本ある。1本の柱は、ホンジュラスからメキシコを経てアメリカ合衆国に密入国しようとしている少女だ。少女は危険をしのぎつつ、ニュージャージー州に住む叔母のもとへたどり着こうとしている。
もうひとつの柱は、ギャング組織に追われる少年だ。少年は、少女の乗った貨車を襲撃中に組織の地区リーダーを殺してしまう。怨恨が原因の事件だが、くわしい説明は省く。
かくて、ふたりが歩んできた2本の道は1本に重なる。少女は密行をつづけ、少年は組織に追われる。ふたりとも切羽詰まっているのだが、恋愛感情は生まれず、淡い信頼関係だけが築かれる。だがふたりは、「信頼」にすがるほかない。リアルな設定ではないか。
道が1本になってからも、フクナガは複眼を捨てない。掟に忠誠を誓う組織暴力のむごさと、不法移民が負わされる理不尽なまでの苦しみ。普通なら眼を背けたくなるふたつの暗部を、30代前半の若い監督はひたと凝視してひるまない。しかもフクナガは、この映画を、ひたすら煮詰まっていくドキュメンタリーもどきに着地させようとはしなかった。ここは勇敢だ。そう、観察と確信の力で観客をひっぱるだけでなく、彼は娯楽映画の味わいを取り入れることも忘れていない。そうでなければ、悪夢に包まれて走る列車の沿線風景が、あれほど柔らかく、あれほど魅力的に映ることもなかったはずだ。
(芝山幹郎)