悪人のレビュー・感想・評価
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誰が悪人?
人間の弱さや、汚さ、醜さを押し付けられる。そしてその中から、人間の強さや、優しさ、温かさを見つけることが出来る。不器用な人間達のもがき苦しむ姿が、切なくて、悲しくて、虚しくて、泣けました。傑作です。
悪人て
誰でも「悪人」になりうる、ということだろうか。
「世間では悪人なんですよね」という一言に全てが凝縮されている気がする。ただ、本当は真の「悪人」でなくても、悪いことをやったら、罪を償うべきで、たとえそこに愛があっても逃げまどうべきではないと思う。
作品の(おそらく)言いたかったことには共感できなかった。
光代は裕一の"闇"を見たのだろうか?
原作は鑑賞直前に滑り込みセーフで読了。
原作自体を特別に際立った内容だとは思わないが、数多く忘れ難い場面が存在する。映画本編を観た後で、「原作がああなのに、映画はこうだから…どうたらこうたら…」とは言いたく無いのだが、2時間とゆう尺に収める為には、原作の多くの部分を削り取る作業は否めず。上映時間の関係からか?映画単品だけを鑑賞すると、どうしても意味の解らない箇所が多くなってしまっている。
その中でも多少はやむを得ないところだとは思いつつも、《祐一》が出会う女性の中で、やはり風俗嬢《美保》のパートがバッサリと切り落とされてしまっているのが痛い。
実は原作を読んでいた時に、「この女とのエピソードって必要なのかな?」と思いながら読んではいたのですが。原作でも度々登場する、《祐一》がお母さんに捨てられるエピソード。映画の中ではお母さん役の余貴美子が唐突に登場するのですが。その大好きだったお母さんとの絆を、何とか繋ぎ止めて於こうとする《祐一》の思い。それを読者側に知らせる役割を果たしているのが、この風俗嬢である《美保》の存在だったのですが…。
彼女は時に突拍子も無い行動に出る《祐一》の事を、最後は気持ち悪く感じてしまい、やがては関係を絶ってしまうのだが。“愛に飢えた”《祐一》の心情を、第三者の目線で唯一理解していて、彼の本当の心の優しさを理解する女性でもありました。
しかし《美保》は、《祐一》を理解しつつも“同じ匂い”も持つ女性では無かった。《美保》に出会い、愛はお金によって買う事を知る《祐一》。出会い系で会う女性とは金銭的なやり取りをするのは必然と考える様になる。原作には描写されない《光代》に金銭を渡すが、それを拒否された事で初めて《祐一》の中で、今までと違う感情が芽生える。
《光代》も本当の愛に飢えていた。いつも同じ事の繰り返し。家の近くに有る国道。この近辺をただ行ったり来たりするだけの毎日。CD1枚買うのも考え込み引っ込み思案な性格には、自分で自分が嫌になる毎日を送っている。「誰かにここから連れ去られたい…」心のどこかでそんな叫び声を上げていた。
映画は驚くべきスピードで進んで行く。《光代》と出会うまでおよそ20分程度しか掛かっていない。原作で《光代》が登場するのは上巻の最後なのだから、そのスピードが解って貰えるかと思う。逆に後半の逃亡劇を1時間30分余りも掛けてじっくりと描いている。但しこの逃亡劇と併せて、タイトルの“悪人”に掛かる周辺の人の様々なエピソードが同時進行して行く。
原作には映画には無い良い点が有れば、悪い点も有る。逆に映画本編にも原作には無い良い点も有れば、悪い点もそれぞれ有る。
原作の良かったところとして、導入部に於ける峠の描写が素晴らしく、一気に読ませる。心霊スポットでも有り、事件が発覚した際に同僚の女性達の反応や、出会い系殺人を面白がりスキャンダラスに報道するマスコミの過熱振り。インターネット上では過剰に反応し、被害者の遺族を罵倒する。それらの理不尽な描写等は、その後の[[柄本明]]の行動に影響を与える。“ふしだらな娘”と蔑まれ、被害者で在りながらまるで加害者扱いされてしまう。直接の責任は一体誰に有るのか?
原作でセンセーショナルに報じられる事件の概要だが、映画でのマスコミ描写はおばあさん役の[[樹木希林]]に対して殺到する描写しかマスコミ側は描かれ無い。僅かにニュース番組で逃亡する《祐一》の顔写真が映る程度だ。だから後半《光代》が妹に電話を掛ける場面で、妹が怒っている描写は。世間からの出会い系の殺人犯と逃亡…とゆう世間体の悪さに対する怒りの感情が、どうしても伝わって来ない。
およそ2時間前後に収める…とゆうのはやはりなかなか難しいと思わせる。タイトル『悪人』とゆう意味の中には、報道で伝わる悪人が本当の悪人なのか?と問い掛ける意味も含まれるのだろうが。原作にはもう一捻り有る。事件の発端を作る《増尾》とゆう金銭的にも恵まれている男。映画の中では完全なる悪役として描かれるが、原作では小さい時から両親の嫌な面ばかり見てきた悲しい過去を持っている。
殺される《佳乃》に対して「あんたは仲居タイプだ!」と蔑むには、それだけの辛い過去があった。そんな詳しい過去が在るのだが、残念ながら映画にはその描写は無い。しかし、これは尺の都合上やむを得ないのだと思う。原作を忠実に描いてしまうと優に4時間近く掛かってしまうのだから。
その為にこの《増尾》とゆう人物を完全なる悪役として映画は徹底的に描く。それは《鶴田》の存在でも明らかだ。《鶴田》は《増尾》の人間的な弱さや、悲しい過去を知っているだけに、本当の悪役とは感じていない。
ただ周りにちやほやされて本当の自分を見失ってしまう《増尾》を不憫に思っている。
それだけに、被害者の父親とのいざこざの後での、原作には無い彼の行動で《増尾》を完全に“悪人”として際立たせている。
“悪人”で在って“悪人”で無し。
最後に《祐一》が起こす行動で《光代》は或る意味救われる。
この物語に存在する本当の“悪”は誰か?
ただ面白おかしく報道するだけのマスコミか?それとも、インターネットで過剰に反応し、ただ自分が面白ければそれで良い…と思っている人間か?それとも人の弱みに付け込んでは弱者からお金を搾り取る奴らか?
そんな中に在って樹木希林演じるおばあさんは、自分が直面する問題に対して正面から向き合う決心をする。
「逃げない!」
原作では、昔から欲しくて欲しくてたまらなかったスカーフ。明日のお米代にも事欠くのに、思い切ってスカーフを買う。おばあさんにとっては、騙し盗られたお金以上に、可愛い孫が犯人だとゆう事実がどうしても理解出来ない。おばあさんにとっては事件現場に出向き、事実を認める事こそが本当に逃げない事だった。映画の中ではそれを強調する為に、スカーフは《祐一》から貰った設定になっている。
原作・映画共に、おばあさんが《祐一》は「本当に人を殺してしまったんだ…」と自覚するのが、バスの運転手[[モロ師岡]]とのワンシーン。
それまでは「絶対に違う!」と思い続けていただけに、あの一言が染みる。
実に印象的な場面ですが、元々原作でも唐突に登場する。このバスの運転手との触れ合いの場面が、前半に幾つか有ったら…と惜しまれる。原作自体は新聞小説だっただけに、思い付いた時にはもう遅かったのかも知れないのだが、せめて映画の脚本の中では滑り込ませる事は可能だったのに…と。
だらだらと不満点を書き連ねてしまったので、映画の良かった点を。
出演者は殆ど全員が素晴らしい演技で、1人1人を観ているだけで満足出来る。中でも[[満島ひかり]]と[[岡田将生]]の存在感は抜群。2人とも素晴らしい汚れ役です。
柄本明と樹木希林は流石の演技。間違い無く賞レースに絡んで来るでしょう。
そして肝心な主人公の2人の[[妻夫木聡]]と[[深津絵里]]。
妻夫木聡のダメ男振りは原作を超えているかも知れない。但し原作を読んだ時にも、この男がこの状況でつい思わず《佳乃》の首を絞殺してしまう理由は、今一つ釈然とはしないのですけども…。
妹の部屋を見て、妹が恋人といちゃいちゃしていた様子を想像する深津絵里。確か原作にその様な描写は無かったと思うのだけれど。仕事場と自宅をただ行き来するだけの毎日に対して、嫌気を覚える。
だから戻って来た《祐一》との逃亡劇での異次元な感覚に、貪る様に抱き合う2人。
とかく“悪”なイメージが付き纏う出会い系。その中で作者は、全ての利用者の中で多少でも“真実の愛”を求め、アクセスして来る人も居るのじゃないか?とゆう視点に立っている様にも見える。勿論そんな人はほんの一部でしかないとゆう冷ややかな視点も交えて。
「俺はあんたが思う様な人間じゃない!」
警官隊が突入する直前に突如《祐一》は“悪人”へと変身する。
直前には《光代》が帰って来ない事で、子供時代の様に再び独りぼっちになってしまう事の悲しさを思い出す。
原作では絶えずマスコミから非難される《光代》を気遣うが故の行為と思わせる。実際に《光代》もそう感じてはいるのだが、ラストで「本当にそうだったのだろうか?ひょっとして…」と、謎を残して終わる。
そんな原作を読んだ際に感じた最後の違和感は、読者が共通して「そうであって欲しい」との願いからだった。
でも作者自身はそんな読者の願いを突き放す意図が在ったのかも知れない。まるで《美保》が《祐一》の優しさを知れば知るほど“恐怖感”を覚えた様に。
映画本編も、観客が願う“真実な愛”を求め合う2人…と思いながら結末を理解すると思う。原作では2人で初日の出を見る場面が映画でも挿入されており、その思いを募らせられる。
だからこそ、タクシーの中での最後に《光代》が呟く一言には、単純では計れない思いが散りばめられているのかも知れない。彼女もあの瞬間には《美保》が感じた《祐一》の真の闇の心を覗いたのだろうか?
色々な解釈が成り立つエンディングになっている。
原作同様に映画本編でも、その様にはっきりとは示さないそのスタンスが実にもどかしく。ちょっと厳しい見方をしましたが。今後時間が経って再見した際に、自分でどの様に感じ・解釈するのか?…考えさせられもしました。
※正直なところ最後に関しては自信が無いから“逃げた”感想になっています。そんな情けなさっぷりは《佳乃》から見た《祐一》並です(汗)
(10月21日TOHOシネマズ西新井/スクリーン3)
身近にありそうな恐怖
この映画は単純に主人公だけが悪いってわけじゃないところが良かった!
悪人は主人公だけではなく色んな悪人が存在し物語を大きく動かしている!
特に最後の柄本明の演技が好きだった!
加害者である男に一喝したセリフにシビれた!
個人的には深津絵里じゃなくて竹内結子の方が良かったかな~
ずっしり重いけどわかりやすい
なんかだか後からずっしり余韻に浸る映画でした。
妻夫木聡、深津絵里、満島ひかりそれぞれのイメージを覆すような役柄で素晴らしかったです。
愛とは何か、悪とは何か、、
考えさせられました。
人間は誰もが悪人なのかもしれませんね。
うーん。。
満島ひかりがすごかった。こうも嫌な奴になれるのか、ってぐらいやな奴。
でも、映画の内容は、というと…。なんだかな。
出会い系で知り合う→カッとなって殺しちゃう→出会い系で知り合った他の女と会う→控えめでおとなしく、自分を見下さない相手に出会い、自分に自信がでる→あんなことしなきゃよかった→逃避行→捕まる
殺された女の子の親の気持ちになったらつらい、苦しい。殺してしまった犯人の生活環境が、息が詰まる。犯人の祖母の言動すべてがつらい、重い。
でも、どのシーンでも、ついつっこんでしまう。
だからって殺しちゃだめでしょ、って。
何があっても犯罪はだめでしょ。どんなことも理由にならんし、後悔したって手遅れだし。
イマイチ感情移入もできなかった…。
俳優さんってすごいな!とは思ったけど、内容だけ考えたら、あれ…?ってなっちゃう。
ただの悪人じゃなかったんだよ!っていう説明があの映画のいいたいことなの?
でも、犯罪にどんな背景があろうが、だめなもんはだめなわけで…。
なんか、まわりくどい言い訳聞かされた気分になってしまった。
悪人
罪を犯したから悪人、そうでないから善人。
というわけではなく、誰だってそういう面を持ち合わせているのだなと考えさせられました。
一回だけじゃなくて2回以上見たらもっと感じ方も変わるのかなと思いました。
全てはラストの言葉に。
昔、九州に住んでいて、佐賀にいた元彼を思い出しました。見覚えのある景色ばっかり!!!そこに興奮してしまいました。
そんなことはいいとして、
私は悪人である妻夫木くんがやはりいい人にしか思えないのです。
だけど、そうなんですよね。彼は悪人なんです…。ラストの言葉で原作者が伝えたかったことが伝わりました。
大好きな女優さんなのに本当に満島さんは憎たらしいな、と思ってしまいました。彼女の演技力は凄いです。
主演が美男過ぎ
日本にあまたある地方都市が持つある共通した閉塞感。直視する事を避けてきたのかああいう風に見せつけられると息がつまる。自分もそこで生活する若者の気分になってつらくなる。その「若者」である登場人物達の行動や発言にまたつらくなる。つまらないからではなく(気持ちが)つらいから見るのを断念か!と何度も思ったが、そうならなかったのはやはり監督のおかげだろう。最後の主人公の取った行動とそれをしながら叫んだセリフには一瞬耳を疑ったが次第に彼のあまりにも悲しい心のうちがなんとなくわかったような気がして思わず泣くところだった
悪人。
人間誰しも悪人になりえる。
秀逸なタイトルですよね。作品にこめられたテーマがとてもわかりやすくある意味ハッキリ表現されていて、それだけに心に深く突き刺さる。
樹木希林は素晴らしい女優ですね。
樹木希林だけでなく、俳優陣みな素晴らしい演技でした。妻夫木聡の新たな一面をみれた気がします。
社会の陰にいる人々の描き方が絶妙
総合:75点
ストーリー: 75
キャスト: 80
演出: 75
ビジュアル: 70
音楽: 70
いきなりネタばれです。まだ映画を見ていない人は注意してください。
何故深津絵里の首を絞めたのか。警察官にそれを見せて「男に脅されて無理やり連れまわされていた」と思わせる。また「ずっと待っている」と言った深津絵里にも、自分を忘れて前向きに生きて欲しいと思わせる。自分を捨てた母親に小銭をせびるのも同様。加害者であるはずの母親に、まるで被害者であるかのように錯覚させて負い目を軽減させる。それが彼なりの優しさ。最初は腑に落ちなかったのだが、ちょっとネットを検索してみるとこのような解釈もあるようだ。
なるほど、それも可能性として有り得る(もちろん正解とは限らない)。しかしそれでも彼は感情的な女の言動に動揺して人を殺した。死体を崖に落して隠蔽工作をした。その後も普段どおりの生活をした。根本的な悪人ではないのかもしれないし、人との交流や愛情が少なく自己表現が苦手で孤独で幼いだけかもしれない。彼は運が悪くて理解者が少なかったことには同情するものの、それでもこの人物をそれほど好きにはなれないし許されるものではない。そのような人が人を殺して同情されるのならば、実にたくさんの犯罪者がただ単に可哀想な人で済まされてしまう。やってしまったことの重さは理解されなければならない。
それよりもこの映画で興味深かったのは、それぞれの人々の描き方。淡々と狭い世界で日常生活を送っているうちにふと気がつくと愛情もないまま孤独に歳をとっている深津絵里、田舎でなんとか親に捨てられた孫を育てているのに詐欺に引っかかりその孫が殺人事件を起こす樹木希林、普段はいい子ぶってもちょっと親に隠れて恋愛ゲームを楽しむ満島ひかり、傲慢で自分勝手なボンボン息子の岡田将生、親の前で見せる姿しか知らず大事な娘に愛情を注ぐどこにでもいる普通の彼女の両親。もちろん、27歳にもなって幼く人との関わりあい方が下手な妻夫木聡。登場人物の演技も良かったと思う。
みんな自分の人生や背景があり、何が良くて悪くてなど絶対的な正解などない。派手に生きる人もいいが、ひっそりと生きる人々の陰の部分のえぐりだし方が実に絶妙。妻夫木聡や深津絵里みたいな人って実は世の中にはたくさんいて、連綿と続く日常の閉塞感と孤独感に苦しみ悩み、何とかそれを変えたいと思っていることだろう。殺人事件などなくてもこのような社会の陰に焦点を当てて違う映画を撮影しても良いものが出来るのではないかと思った。
誰にでも悪は潜んでいる。
「誰が悪人か?」とキャッチコピーにあるが、この映画から出した答えは「誰にでも悪は潜んでいる。」
心の奥深くに、日常の中に、いろんな形の悪がある。一見、何気無い瞬間瞬間に、悪があらわになる。
登場人物の全員に。嘘、エゴイズム、ナルシシズム、無関心、妬み、怒り、驕り、愚か、正義と言う名の暴力、悪意と無頓着…。
殺人という法的なる絶対悪を主題にすえながら、その周囲にある様々な悪をまざまざと映し出している。
「俺はお前が思っているような人間じゃない」と、相手の首を締めた彼の叫びは、彼女をかばうためではないと感じた。
盲目的に自分に執着する彼女によって、楽になれたらよいが、そんなに簡単に魂の痛みから解放されえるだろうか?
そんなに簡単に楽になれるなら、人を殺してしまうくらい激情したりしない。
それでも、観る人によって、タイミングによって、彼女が「悪人なんですよね」と遠い目で語る瞳に救いを見出すのでしょう。
監督はそのあたりも計算して、受け手に委ねているのではないでしょうか。
誰にでも潜む悪を、何とか押さえ込んだり、昇華させたりしながら
それでも生きていかなきゃならないのだ。
映画を観て2日かけてここに思い至りました。
悪人
ネタばれ注意!!
浮島ひかりが演じた尻軽女が山の峠で大学生に捨てられてその後を追って来た男(元彼妻夫木)が可愛そうだと思い助けようとしたが、尻軽女に嫌がられ女が{誰か助けて~殺される~と勘違いして騒ぎ立てたので」妻夫木が感情的になりとっさに尻軽女の首を絞めて殺害した。
(そんな糞女勝手に山の中に置いておけば良かったのに どうせヨリなんか戻せないんだから)
その後メールで知り合った女(深津)と逃避行。
一番可愛相なのは妻夫木を育ててきたお婆さんと娘を殺された家族の人
オチは深津が妹のところへ電話を掛けた後で警察に保護されその場から逃げ出した事によって
妻夫木の隠れ場所が警察の山狩りで見つかってしまい 感情的になった妻夫木がどうしようもなくなって深津の首を絞め殺そうとした時点で 警察と面会 ラストは何か三丁目の夕日(灯台版)で終わり。
深津と逃げ始めた時点で何かのロードムービーっぽく表現されて リアルっぽさが無くなっている感じだった。
もっとグイグイ窮地に立たされる映画だったら見ごたえあったのにな~
今時映画の深津みたいなお人よしなおんなはいないよ。
【戦慄の超個人時代】
登場人物は「全員悪人」だ。
社会意識と社会経験の欠落した自意識過剰な「(ブログ時代の)個人」達が、社会倫理や道徳、家族・地域の繋がり等を一切顧みず 各々が「超個人主義」を貫いてゆく。
勿論彼等は一人として悪びれてなどいない。 社会の有益等 微塵も意識すらしないのだ。 社会的尺度ではなく 個人的尺度でのみ正悪概念を量る。 だから彼等は「社会にとって悪人」なのだ。
だが映画は社会的観点ではなく あくまで個人的視点を貫く。 だから観る側にとっては「彼等は悪人には見えない」のだ…。 そう、この瞬間 -観客が『一人も悪人はいない』と感じるこの瞬間- こそが作品最主題だ。
「悪人はいない」とゆう結論に辿り着くとゆう事は 即ちその観客こそ『社会性を顧みない 超個人』であり、同時に「真の悪人なのでは?」と映画は問い掛けるのだ。
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社会と結び付かず、自己を客観的俯瞰も出来ぬ 自意識過剰な「超個人の時代」への怜悧な批判と、 安易なヒューマニズムを決して許さぬ厳然たる訴えに ただ〃戦慄した。
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《劇場観賞》
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