ケンタとジュンとカヨちゃんの国 : 映画評論・批評
2010年6月8日更新
2010年6月12日より新宿ピカデリー、ユーロスペースほかにてロードショー
大森作品における重力は肉体の確かな重みに他ならない
大森立嗣の作品には重力がある。主人公たちは飛べずに地面を這いまわり、観るほうもまたその強いエネルギーに吸引される。だがその重さは題材からくるものではない。だから物語の背景に格差社会があっても、格差社会の映画と捉えてしまうと作品の本質から離れてしまう。もっと混沌と監督の無意識下に潜行しているものがあるのだ。それは一体何なのか。
大森作品にとって「肉体」は重要なファクターだ。彼自身、台詞より肉体で表現したいと語っており、その点では身体表現にズバ抜けた才能を見せる女優安藤サクラを今回得たことは大きな意味があるだろう。彼女の登場シーンたるや近年の映画史に残る素晴らしさである。だがここで言いたいのはそういった表現ツールとしての肉体ではなく、作品全体から浮かび上がる肉体の重みといったものだ。かつて日本映画は肉体の存在をもっと重要視していたはずなのに、70年代を最後に肉体から重みが消えてしまった。映画は内へ内へと旅を始め、肉体は20世紀に置きざりにされた。だがしかし、大森作品では登場人物たちが内へと向かえば向かうほど、その渇望は肉体の存在を浮かび上がらせる。怒れる青年たちが居場所を見つけられないのはその不運な生い立ちゆえではなく、精神だけが旅しているせいではないのか。彼らの求めるホームは自らの肉体にあるのではないか。そんな問いが湧き上がるのだ。彼らが旅の果てに辿り着く場所が体の重み(重力)を感じない「海」というのも、あながち無関係ではあるまい。
そう、大森作品における重力は肉体の確かな重みに他ならない。そここそが彼のテーマである「生」の住む場所なのだ。
(木村満里子)