「欲するなら,まず与えよ.」グラン・トリノ 牛込太郎さんの映画レビュー(感想・評価)
欲するなら,まず与えよ.
この映画の主人公ウォルターの周りには,
与えることに無関心で,
欲することしか知らない人たちばかりがいた.
ソファが欲しいとか,宝石が欲しいとか,
野球のチケットが欲しいとか,
そういう連中ばかりに囲まれて暮らして来たがために,
ウォルターはすっかり偏屈になってしまっていた.
電話がかかってきたり,人が家に訪ねてきたりすると,
彼は挨拶も抜きにして,まず相手の要件を尋ねる.
「で,何が欲しい?」
彼に言わせれば,人が電話をかけて来たり
家に訪ねてきたりする理由は常に決まっているのだった.
挨拶の言葉やそれに続く世間話などは,
相手が要件を持ち出すまでの前置き,
つまりはご機嫌取りの欺瞞でしかない.
そのような状況の中で,
ウォルターの家の隣に引っ越して来た人たちだけは違った.
その人たちは,与えることを知っている人たちだった.
隣の家の娘は,
不健康な食生活を送っているヤモメ暮らしのウォルターに
おいしい食べ物があるからと言って,
自宅のパーティーに来るよう誘ってくれた.
ウォルターがある時,隣の家の少年を助けると,
その日以来,彼の家には,花や食べ物などの贈り物を
お礼として届ける少年の親族の人たちの列が絶えなくなった.
ウォルターは,自分の死後,
持ち物をすべてこのモン族の人たちに譲った.
一番の宝物であるヴィンテージ・カー「グラン・トリノ」も,
このモン族の少年に与えられた.
ウォルターがかわいがっていた犬は
モン族のおばあさんに与えられた.
いわば赤の他人であるモン族の人たちが
様々なものを譲り受ける一方で,
身内であるはずのアメリカ人家族の人たちには
何一つ与えられなかった.
欲するなら,まず与えよ.
欲することしか知らぬ者には,
何一つとして与えられないのだ.
しかし,そんな彼らも一度だけ
ウォルターに贈り物をしたことがあった.
ボタンの大きな電話機と老人ホームのパンフレット.
ただしこれは,厄介払いしたいという彼らの思惑が
透けて見えるものだった.
ボタンの大きな電話機は,老人であることの自覚を
ウォルターにうながすための小道具でしかない.
これらの物の贈り主らは,結局,
自分たちのことしか考えていないのだ.
「欲するなら,まず与えよ」の利他精神が
彼らに理解されることはまずない.
この利他精神こそ,
ウォルターが人生最後の瞬間に実践して見せたものだった.
彼は,モン族の人たちが町の無法者らによって
苦しめられていると知ったとき,
この精神にのっとって行動したのだった.
誰かを助けるためには,
まず自分が犠牲にならなければならない.
ウォルターは,命と引き換えに
モン族の人々の苦しみを取り除いた.
具体的に言うと,丸腰で無法者らに挑み,
無抵抗のまま奴らの一斉射撃を受けることによって,
奴らを一人残らず刑務所送りにし,
社会から追放したのだ.
彼がこのやり方を思いついた背景には,
過去の戦争体験があったものと思われる.
彼はかつて朝鮮戦争に従軍し,多数の敵を殺した.
しかもそれは軍の命令で仕方なくやったことではなく,
自分の意思で,自分のためにやったことだった.
(彼自身が神父を相手にそう語る)
しかし,それによって彼が得たものは何もなかった.
期待した充足感や勝利のよろこびは得られず,
罪の意識だけが後に残った.
もしこれが誰かのために,
誰かを守るためにやったことだったとしたら
結果は違っていたかもしれない.
だからこそ彼は無法者連中との対決を
ためらわなかったのだろう.
自分のためではなくモン族の人たちのために行う戦いは,
きっとかつての戦争での戦いとは
違った結果を彼にもたらしてくれる.
彼にはその確信があったのだ.
彼は,この最後の戦いを一人で行った.
本当は,彼にも一人味方がいたのだ.
しかし彼はその味方を戦いに連れて行かなかった.
なぜならその味方の人物は,
自分のために戦いを行おうとしていたからだ.
その人物は,かつてのウォルターと
同じ間違いを犯そうとしていた.
ウォルターが彼を一人残して
戦いへと向かった理由はこれ以外にない.
頼りにならないからとか,
自分ひとり良い格好をしたいから
とか言う理由では絶対にないのだ.