サヨナライツカのレビュー・感想・評価
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とにかく途方もなく醜怪
"好青年"と周囲から呼ばれる豊は航空会社に勤めるサラリーマン。婚約者の石田ゆり子を置いてバンコクに単身赴任。男ばかりのむさ苦しい飲み会の席に「あら、席がないわね」と初出席のくせに妙に態度がデカい謎の女ミポリンが現れる。
「好青年!好青年!」
バンコクの炎天下で行われる草野球大会、熱い声援の中豊は打席に立った。豊の上司加藤雅也は豊にバントのサインを送る。無表情の豊。ピッチャー投げた!カッキーン!ホームラン!
・・・上司のサイン無視してどこが好青年じゃ、コラァ!
アパートに帰ってシャワーを浴びる豊。呼び鈴が鳴るとそこにはミポリンが。
「はい、ホームランボール」
手渡すやいなや熱いわねとパンストを脱ぎ始めるミポリン。生唾を飲む豊・・・くっだらねえ。どこまでも独りよがりで自分勝手な人間が好き勝手やったら皆不幸になる、出来損ないのあたりまえ体操みたいな辻仁成ワールドを忠実に映像化してみせた韓流製作陣の腕前には本当に頭が下がります。しかしやね、
If You Don't Know Me by Nowしか演奏出来ない居酒屋のハコバン。
1975年なのに全然21世紀風なバンコクの高層ビル群。
そこから25年後のオッサン役者陣のドリフのコントのような老けメイク。
四半世紀経ってもシワの一本も増えない驚異的なアンチエイジングを見せるミポリン&石田ゆり子。
どう見てもグッさんにしか見えないプレスリーフリーク風ルックスで見た目インパクトあるのにお話に全く絡んでこない謎のタイ人。
・・・目障りなものばっかりがバンバン出てきて画面がうるそうてしゃあないわ!
1975年と2000年という明確な時代設定があるのに当時の風俗に一秒たりとも触れない腑抜け切った構成、中学の学芸会の練習のようなクサい台詞のミルフィーユ、半ケツのひとつも見えないのにヘドロのように濃厚なラブシーン、豊とタイ人が25年ぶりの再会で空港で抱き合ってクルクル躍る様とその数分前に豊とミポリンがやってたクルクルとおんなじテンションのスローで撮るという冗談にしては下品過ぎる演出・・・あーもうなんぼ揚げ足取っても取っても生えてくる、巨大ムカデの立田揚げのように醜悪極まりないクソ映画。
一点だけ褒めるとしたら、一回だけバックで流れた"Chovendo na Roseira"が美しかったことかなぁ・・・ってそれボサノバのスタンダードでタイは関係ないし、だったら映画丸ごと要らんっちゅうねん。酷い映画は山ほど観てきましたが、ここまで醜怪なものはそうそうないと思います。
サヨナラシタラ?
残念な映画です
とにかく冗長で…中途半端でした。
演出と演技に情緒が感じられず、とにかく残念な仕上がり… 日本人が監督、演出したら、もっと違う映画になっていただろうと思う。
脚本が悪いのも大きい… ダイアローグがお粗末。
観客に理解を促しすぎ。
演技の下手さも…ひどく痛い。
映像美を見せたかったのだろうが、物語を語り、魅せることとの焦点がズレていて、感動には至らない。愛は汚くも愛であり続けるような、畏怖を感じるドロドロさもない。エロも美も汚れもすべて中途半端。
最後まで観るのが苦痛。
原作の情緒は何一つ映しだされていない。
それ故、朗読部分なしでは、物語が伝えきれずに終わることになる。
「サヨナライツカ」が、この映画になってしまって、本当に本当に残念すぎ。それ故に非常に悲しい。
ばかばかしい
純粋だが葛藤のラブストーリー
人生における選択
ミポリンとタイの美しさは◎
一部雑な映像、船酔いしそうな映像があったものの、女優とタイの街の撮り方はGOOD。もしこの映画が1時間45分位でスッキリ終わっていたらこんなにも低いスコアはつけなかったのですが・・・ともかく長い、長すぎます。
長くても必然的なシーンで飽きさせないなら許せるけど、「このシーンいるか?」とのけぞったシーンが特に後半目白押しでした。
制作費をケチっているとも思えないのに、25年後の老け顔メイクがあまりにもお粗末。TVの子ども向け戦隊もののメイクを思わせます。
主人公ふたりがどこで人生を変えたくなるほど相手を愛し始めたのか、それも全く伝わってきません。ケンカなんて、愛憎半ばするという感じではなく憎しみだけ・・って感じ。のっぺりしてます。
ミポリンは永遠の憧れのひとだったからなおさら残念。次はぜひ名作に出演を!
共感できるけど映画としては
女友達はみんなハマってた。
私も女友達のお付き合いで1月に観た。
誰もが一度は経験する不倫で共感する、ビジネスとしては成功かも!
ミポリンは美しい。
でも演技がダサいのか、演出がダサいのか…シラケる。
この手の映画は、香港映画のほうがいいなぁ。
会いたいな
燃えるような恋から
人間の煩悩
私だったら沓子のように生きたいです
こういった類の恋愛のお話が書ける作者の辻さんは本物の愛を知っている人なのでしょう。
愛とは人間の永遠のテーマであり、生きる意味にもなり得る特別な力を持った感情です。
本物の愛に触れたことのある人でなければ、この作品の良さは伝わりづらいかと思います。
この映画をただの不倫劇だと思った人、登場人物の誰にも共感できなかった人、主人公が可哀想だと思った人は、まだ愛するということを知らないのです。
妻=(イコール)1番愛している人、ではないと思います。
結婚とは、社会的な拘束力のある契約に過ぎません。
薄っぺらい紙に永遠を約束して安心したいだけなのではないでしょうか。
愛は誰にでも平等です。例えば、沓子と豊のような立場にあっても。自分以外の人を心から想う、その気持ちはどんなときでもどんな人にも平等であり、愛し愛することは「結婚」とゆう方法で制限したり縛りつけることができる感情ではないと思います。
それゆえに、愛は時として誰かを傷つけたり、憎しみに変わるものなのだと思います。
沓子、豊、光子。
3人の人生は幸せだったのか。
一見、誰も幸せになったようには映りません。
しかし、どの生き方も自分が選んだ道であり、愛しているからこそ成し得たのではないかと思います。
なにが自分にとって幸せかなんて自分で決めるものなのだと、この作品に教えられました。
自分が信じる愛を貫いた沓子の姿はとても美しい。
私だったら沓子のように生きたいです。
愛と子孫繁栄
これは感覚的に楽しむべき作品。 アラの多い脚本でも、きちんと泣きの映画にさせてしまうところが、イ・ジェハン監督の演出の凄いところです。
タイ・バンコクに在住する好青年と呼ばれる豊が謎の美女・沓子と出会い、25年後に再会するまでを描く作品。
タイトルは、妻となる光子が出版する詩集のタイトルから来ています。
これは感覚的に楽しむべき作品。かなり突っ込みどころが多いので、筋を中心にストーリーの論理的な面が気になる人にはお勧めできません。
アラの多い脚本でも、きちんと泣きの映画にさせてしまうところが、イ・ジェハン監督の演出の凄いところです。
そしてイ・ジェハン監督が熱烈なファンだという中山美穂を年齢を感じさせない魅力で小悪魔のような女性として沓子を描いています。
婚約している主人公の豊が一瞬にして、火宅の恋に落ちてしまうのも宜なるかなといった風情がたっぷり。けれども豊は罪の意識か、最後まで「愛している」って沓子には言えませんでした。その苦悩に満ちた姿を西島秀俊が好演しています。
ただ小地蔵が、一番印象に残ったシーンが、光子と沓子の直接対決シーン。これはいきなりだったためとても印象に残りました。
婚約者の不倫を知った婚約者の光子が、突然バンコクにいる沓子のところまで押しかけるというもの。なにも知らないように冷静に振る舞う光子の立ち振る舞いが逆に恐かったです。そして寝室に立ち入ろうとしたときやんわりと遮るところに沓子の女の意地が見え隠れしていました。その分、最後に放つ光子の台詞が強烈でした。
光子を演じた石田ゆり子もなかなかの名演だったと思います。結局光子は25年間も、このことを隠し続け、夫の豊を支え続けるわけです。
言いたいことをくぐっとかみ殺して、良妻賢母を演じ続けた光子の表情がよく出ていたと思います。そんな光子が綴った詩集『サヨナライツカ』は豊にとってとっても意味深な内容だったわけです。
さらに、舞台となるバンコクの風景。特に舞台となるオリエンタルホテルの描写が大変美しく、いつまでも記憶に残り得る映像美となること請け合いです。
ただ映画『プール』を見た人は、ロケ現場が重複しているので、ラストシーンでは、♪だんだん長くなぁってきていく~ 壁にのびる影♪という『プール』のテーマ曲が聞こえてくるかもしれませんよ(^^ゞ
きっと見る人で評価ががらりと変わる作品となることでしょう。
突っ込みどころとして、沓子が豊と一線を越えてしまうのが、余りに急なこと。ほぼ2度目の出会いで、宿泊先に沓子が押しかけていきエッチしてしまうのです。そのノリは、在りし日の日活ロマンポルノ『昼下がりの情事』かと思うほどでした。
またVIPルームで暮らす沓子の生活実感がなくて、まるでおとぎ話の主人公なのですね。その辺の登場人物の描き込みという点で、弱い作品です。豊にしても航空機ビジネスでトップに立つという夢に向かって、出世していくわけです。豊のビジネス面では、中盤以降はかなり雑になっていきます。沓子が豊に惚れる重要な要素として豊の夢に惚れたことになっているだけに、もう少し触れて欲しいと思いました。
さらに、後半の25年後のパートに入って、豊が沓子を見つけ出せなかったということになっています。でも沓子は自分が暮らしていたバンコクのホテルのVIP係となり、
豊が来ることをずっと待っていたのなら、すぐ見つかっていたはずです。
まぁそういう突っ込みを気にする人は、見ない方がいいかもしれません。イ・ジェハン監督の凄いところは、そんな人でも泣かせてしまうところです。ラストでお得意の悲恋色が強くなると、『私の中の消しゴム』のように涙腺を直撃してしまうんですよ。この監督さんは。(中身は劇場で!)
なお本作は元々2002年11月にフジテレビ製作、全国東宝系にて映画が公開される予定でした。行定勲の監督、坂本龍一の音楽、ワダエミの衣装、中山美穂と大沢たかおの主演というスタッフ・キャストだったそうです。
ところが、クランクイン直前になり監督の行定が降板し、一度は白紙状態となっていたけれど5年ぶりに復活できたというのは、裏方のプロデューサーがかなり粘った結果でしょうね。『今度は愛妻家』がちょうど公開されています。その行定監督よりは、イ・ジェハン監督の方が本作にはあっていると思います。
●本作の伝えたいことと小地蔵のひとこと
本作で語られる「愛」というものは、無常で儚いということ。いつか消えてしまうのだから、囚われてはいけないという貪愛としての「愛」が示されるのですね。
詩集『サヨナライツカ』は語ります。「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出す人と愛したことを思い出す人がいる。」と。
ひとりは、ずっと人を愛して、ひとりはずっと人から愛される。このどっちかなんでしょうかねぇ。う~ん(^^ゞ、こういう発想は女性の人なら分かりやすいものなのでょうか。
激しく求める豊が沓子にひとことも、「愛している」とは口することができませんでした。そのためそのひとことを伝えたくて、沓子は「愛する人」となり、豊は「愛される人」となったのです。
でも小地蔵は、賽の河原にやってくる方を見ていて思うのです。愛というのは、どれだけ与えたか、奪ったかしかないのだと。
二人の愛は、結局光子から奪い続けた愛なのです。そして貪愛だからこそ儚くなるのです。
質実の愛は不滅です。無私の気持ちで与え続けたことは、魂のなかに刻印されて消滅しません。光子の凄いところは、25年間もふたりを無言で許し続けてきたことでした。
空港で沓子で別れを告げたあと入れ替わるように登場した豊が、すがるように光子に抱きつくシーンでは、縒りが戻ったと言うよりも、心から許しを求めたものでしょう。
母親のように豊を抱きしめる光子。人に許しを与えることは、与える愛を実践している姿を見ているようで、心が洗われます。
本当の消えない愛というものは、与えていく中に息づくものでしょう。
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