赤い風船のレビュー・感想・評価
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どうやって撮影したのかしら?
約70年前の作品。「白い馬」と2本立てで上映されていました。赤い風船が、まるで意思をもっているような動きが不思議でたまらなかった。CGなどが無い時代に風船の動くシーン(まるで監督の指示に従っているような…)をどのように撮影したのかしら?ラストは、神秘的というかファンタジーでした。
真っ赤ないのちと真っ白な花
ドキュメンタリー記録映画出身の監督は
目の前に起きる事をひたすら描写する
作家の想いを伝えるのではなく、
見る人がまさに目の前で起きている現象になるべく
ありえない、不思議な不思議なこの瞬間瞬間に
いつしか惹き込まれていくのだ
少年あるある日常生活のなかに
大好きな大好きな対象が見つかってしまったら
毎日はもう尋常じゃいられない
街を行く大人たちはそんな少年をみて
さまざまなリアクションをする
少年のハートは赤い風船でいっぱいだ
もの珍しい現象は、周囲の好奇心、ヤンチャな嫉妬に晒される
かわいいものをいじめたくなる、暴力的本能だ
今も昔も変わらない
綺麗な花を平気で踏みにじることで
みずからを傷つけている事にきづかない
ラストシーンは「不穏」な印象。ペットのように登場した風船は、やがて受難の歴史をたどる。
美しい、良い映画ではあったけど、
あのエンディングはどう判断したらいいのかな?
あれって……ハッピーエンドなんかじゃないよね??
どっちかというと、
「勝手に寄ってくる風船」といわれると、
伊藤潤二の短篇漫画『首吊り気球』を
真っ先に思い浮かべる世代としては、
「なついてくる風船」が愛くるしい
純粋な善意の存在とは思いづらい。
まずはひとつの風船があって、
それを寄ってたかっていじめて
破裂させたガキどもがいて、
わらわらと町中から集まってきた
色とりどりの風船がある。
これ、なんか怖くないすか?
弱いゴブリンなぶり殺しにしたら、
復讐に集まってきた100匹のゴブリンみたいな。
個人的にはホラーの香りがしてねえ。
しかも風船が集まって来てやったことといったら……。
僕は、あんな風船おじさんみたいなラスト、
マジで悪い予感しかしないっす。
ネロとパトラッシュ召していく
天使たちみたいに、
少年運んでいくヤバげな風船、
マジで嫌なんだけど……。
あれって、飛べてよかったね!
で済ませて良いラストなんだろうか??
― ― ― ー
アルベール・ラモリス監督の映画は、今回初めて観る。
名前は当然存じ上げていたが、実見する機会がなかった。
『赤い風船』『白い馬』『素晴らしい風船旅行』の3本を立て続けに観て、思った。
なんか思っていたより、えらく「不穏」な映画ばかりだったような。
少なくとも『白い馬』のエンディングは、いくらどう考えてもグッドエンドとは言い難い。
救いがないどころか、それを「楽園への脱出」みたいな口ぶりで表現するナレーションには、恐怖すら感じる。
なに? この監督の価値観だと、少年と馬の運命ってこれが最適解なの??
『赤い風船』の場合は、『白い馬』ほどぎょっとさせられるようなエンディングではないかもしれない。ひとしきり風船たちと空中遊泳を楽しんだあと、ふつうに戻って来て、はいおしまい、という毒気のないエンディングだという可能性もあるからだ。
だが、風船に包まれて、そのままどこかわからないところ――「風船と人間が幸せに暮らせる場所」(『白い馬』の言い回しのパクリ)に連れていかれてFin、という可能性だってないわけじゃないのでは?
だとすると、それはさすがに子どもの運命として、あまりにあんまりじゃないだろうか。
僕たちは、夢と希望を抱えて空に舞った「風船おじさん」の末路を知っている。
僕たちは、飛翔への想いを監督業で実現したアルベール・ラモリスの最期を知っている。
空は夢の領域だ。
飛翔は人類の大きなロマンだ。
だが空は、危険なデッド・ゾーンでもある。
人は、何かの補助なしに空を飛ぶことはできない。
空は、常に死と隣り合わせのリスクを秘めている。
空に挑む人間は、常に「イカロス」へと身を堕とす危険を孕んでいるのだ。
― ― ― ―
『赤い風船』と『素晴らしい風船旅行』に共通するのは、「浮遊」と「飛翔」へのあくなき憧れと、それを前にしたときの、童心に返ったかのような胸の高まりである。
同時に、僕は両作の主人公の行動に、度外れた「無警戒さ」「恐怖心の欠落」「無謀さ」「無鉄砲さ」を感じて、観ていてなんだか怖くなった。
空を飛ぶという行為、無重力に挑戦するという行為に対して、少年たちはあまりに無防備だし、あまりに簡単に「危ない瞬間」を踏み越えすぎる。
たとえば『赤い風船』の冒頭。
街灯にひっかかる風船を見つけた少年は、当たり前のようにするすると街灯に攀じ登って、風船をゲットする。いったん、落ちたら死にかねないような細い出っ張りに立ってから、また街灯に飛び移ってすべって降りてくる。
一連の行動で、少年にはまったく躊躇するところがない。
危ないことをしているという認識すら感じられない。
高いところに風船があったら取って当たり前だと思っている。
高所でなんの支持もなく立つことに、一切の恐怖心を見せることがない。
監督も、出演している息子も、あまりに「高所への恐怖」に無頓着だ。
そこが逆に怖い。
あるいは、初めて風船が寄ってきたときの反応にも、若干の引っ掛かりがある。
この映画の「キモ」になる部分なのに、少年はたいして驚いたり喜んだりしない。
妙に反応が薄い。当たり前のように受け入れている。
こうなんというか、異常事態に対して、あまりに平静に対処しすぎている。
それは良し悪しであって、「何かおかしなことが起きた」ときに、これだけ素直で警戒心がないと、つい大丈夫なのかな? と感じてしまうのだ。
この感覚は何に似ているかというと、ちょうど宮崎駿の描く少年少女の示す、「飛ぶことへの憧れ」と「警戒心の薄さ」に近いかもしれない。
(世代的に考えて、あれだけ空が好きで無重力への夢を膨らませてきた宮崎駿が、ラモリスの影響を受けていないはずがない。)
あれはアニメ(=完全な絵空事)だから「監督に全幅の信頼を寄せて」子どもたちの安全と成功を確信しながら観ている部分も大きいが、宮崎アニメのキャラクターたちもまた、あまりに気軽に「空飛ぶ機械に飛び乗ってぶらさがり」「落ちそうになっても一切慌てず」「飛行機の翼を走ったり」「垂直の壁を足だけで攀じ登ったり」する。
飛ぶこと、落ちることに対して、実に無頓着だ。
飛べると信じている。落ちないと信じている。
高所恐怖症の僕からすると、まあまあ信じられない。
しかも、彼らは常に「突然現れた脅威」や「いきなり降ってきた相手」に対して、あまりに無警戒だ。コナンは出会ったばかりのラナのために大冒険を繰り広げるし、パズーは当たり前のように「墜ちてきた少女」を助けようとする。何か危険が迫ったり、巨大な機械が迫ってきたりしたときでも、絶対何とかなるとの確信のもと、少年少女は果敢に立ち向かっていく。
その姿は、尊いし、凛々しい。
でも、彼らの勇気は、蛮勇と裏表だ。
同じことを実写でやられると、
「え? 大丈夫なの??」という気分になる。
アルベール・ラモリスの描く子どもたちには、
そういう「不穏さ」が常につきまとう。
風船を、そんなに信用していいのか?
そんなに簡単に、街灯に登ったり、窓枠から身を乗り出したり、道に飛び出したりしていいのか? 風船につかまって、空を飛ぶことは本当に安全なのか?
僕はこの「危うさ」を、空撮にのめりこんだうえで、不慮の事故で墜落して死んでしまったラモリス監督とどうしても重ねて考えてしまう。
彼自身、そもそも、飛ぶことに恐怖心がなさすぎたのではなかったか。
ちょっと「冒険野郎」のマインドが強すぎたのでは?
それは彼の息子にも遺伝していて、結果的に僕たちは微妙に「ふつうとは違うルールの元作られた映画」を見させられているのではないか。
そんな気がしてならない。
単なる、高所恐怖症男のひがみかもしれないけど……。
― ― ― ―
本作における「風船」は、動物もしくはペットの「アイコン」といえるかもしれない。
冒頭に話を戻せば、少年は高台の広場で通りすがりに猫を撫でる。
それとまったく同じ手つきで、風船をゲットし、風船を愛で、連れ歩く。
彼は風船と一緒に街を歩き、雨が降れば風船を傘に入れ、学校にも連れていく。
少年にとって、風船はペットと変わらない。
生き物である以上に、友達。
「モノ」をヒトと同然に扱うなかで、モノにココロが芽生える。
だからこそ、本作の風船は、少年に「なつく」。
付喪神のように、心を持って、
「相棒」として少年に付き従う。
ラモリスの映画において、常に「相棒」には「紐」が付いている。
赤い風船の紐。
白い馬の首縄。
気球から下がる紐。
この紐をつかむのか、つかまないのか。
つかむ時の心は、友情なのか、束縛なのか。
紐を放しても相棒は返ってくるのか。
この紐は、言ってみれば、
ペットの犬につけている
「リード」と同じものなのだ。
信頼の証としての1本のライン。
でも信頼しているからこそ、手放せる。
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『赤い風船』の前半戦は、牧歌的で、抒情的だ。
少年の無垢な心が生んだ奇跡を、
『ピーターと狼』のような音楽に載せて、
メルヘンチックに描いている。
だが、後半戦の悪ガキたちによる執拗な攻撃は、
「子ども」のもう一つの恐ろしい面を垣間見せる。
暴力性。集団性。暴走性。
一度、攻撃性に火がついたら、
全てが台無しになるまでとまらない、とまれない。
若年ゆえの残酷さと極端さ。
暴徒と化し、どこまでも風船を追って来る「迫害者」としての少年たちは、トリュフォーの『あこがれ』や『大人は判ってくれない』の悪ガキたちや、『乱闘街』に出てくるロンドンの貧民窟の少年たち以上に、獰猛で、たちが悪い。
ラモリスが描こうとしている「子ども」は、決して純真で無垢なだけではない。
同じくらい、狂暴で粘着質な悪しき面も兼ね備えている。
「人と交流できる」赤い風船は、否応なく周囲の好奇心を掻き立て、やがて好奇心は羨望を生み、羨望は破壊衝動を誘発する。
ひとのおもちゃを壊して溜飲をさげる子ども。
野良犬狩りをエスカレートさせて本当に殺してしまう子ども。
イジメられっ子が逃げれば逃げるほど追い詰める子ども。
こういう手合いの怖さ、不気味さ、えげつなさを、ラモリスは執念深く描く。
前半で「イヌ」や「ネコ」に近い扱いを受けていた風船は、いつしか「殉教者」のように迫害されることになる。
風船は、石もて打たれ、パチンコを当てられ、しわしわに縮んだあげく、無惨に踏みつぶされる。
迫害に至る転機が、「風船が教会に入ろうとするけど、追い払われる」シーンというのはきわめて興味深い。さらにいうなら、悪ガキに風船をくすねられるきっかけが「パン」(キリストの肉体の象徴)を食べたことというのも意味深だ。おそらくならラモリスは、本作を意図的に「キリストの受難劇」とかぶせて描こうとしているのだ。
悪ガキたちに追いつめられて処刑されるのが高台の空き地というのも、どこかゴルゴタの丘を想起させるし、その後の風船たちの決起は、まさにキリストの「復活」と「昇天」を表わしているといえそうだ。
逆に言うと、西欧の観客の多くは本作の宗教的含意を体感的に理解できるからこそ、この映画の不穏なラストを「救い」として素直に受け入れられるのかもしれない。
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●モノトーンな街並みのなか、真っ赤な風船は本当に映える。
必ずしもパートカラーというわけではないが、くすんだ街と赤い風船の対比は、『天国と地獄』(63)や『シンドラーのリスト』(93)の効果的な「赤の差し色」を想起させる。最近だとたしか『関心領域』(2023)でも少女の持っているリンゴの実で同じことをやっていたような。あと、『ラ・ラ・ランド』(2016)では赤い風船の少年のオマージュをやっていた。
●CGもデジタル処理もない時代に、これだけ自在に「風船に演技」させたというのは、驚愕しかない。ふつうに考えるとテグスくらいしか思いつかないのだが、どうやってたんだろう?? あと、パリの古い町並みと丘陵地の上下構造を背景として巧みに取り入れている。
●本作の白眉は、なんといっても通りすがりの少女(サビーヌちゃん、主演のパスカル君同様、ラモリスの実子)の青い風船に、赤い風船が引き寄せられるあたり。サイレンス映画のようなシーケンスだが、情感たっぷりで味わいぶかい。ほんと、風船がペットにしか見えない!!(散歩で連れているイヌが、こういうことよくやるよねw)
●ロベール・ブレッソンもまた、『バルタザールどこへ行く』(66)や『少女ムシェット』(67)を、迫害を受け続ける弱者を描くことで「受難劇」に仕立てようとした監督だった。
そう考えると、若干意外なことに、ブレッソンもまたラモリスの影響を大なり小なり受けているといえるのかもしれない。なにせ、ラモリスが「ロバ」の映画『小さなロバ、ビム』(50)を撮ったのは、ブレッソンの『バルタザール』より16年も前の話だ。当然、なにか影響関係があるとすれば、ラモリスの方がブレッソンに影響を与えているということになる。
美しい映画、だけど。。
1980年代に東芝ショールームのベータカセットのビデオシアターで観た。
この映画は特撮のハシリの頃の名作だと思う。
風船の着色をコントロールするのに、インクのマゼンダっぽい色合いの風船の下にオレンジ色の風船を重ねてガスを入れて膨らませていた。これでラモリス監督の思うような色合いにしたとのこと。
しかし、CGはおろかラジコンも使わずに、よく撮影出来たなと感心するばかり。
初めて「赤い風船」を観てから40年経っているのに4Kで修復されたので、また新しい視点で観られた気がする。
ただ「白い馬」はトラウマレベル。。
「赤い風船」は、また観たいけど「白い馬」は。。
それに、ひずんだBGMが大音量で流れていたのが気になった。BGMまで補修してほしかった。
街並みと風船のコントラスト
モノトーンの街並みに赤い風船の色が鮮やかで、ほんとうに赤い風船が生きているように、少年に何かを話しかけているよう。
昔っていじめっ子っていたな。
白い馬の方は、動物が可哀想で少し悲しくなる。
馬飼の男が男に二言がありすぎて腹立たしい。
あの撮影は今の時代なら動物虐待でテロップを入れないといけない感じかもなぁ。
絵本のようなラストで、更にその後を考えてしまう。
二人の少年が幸せに暮らしてくれていることを願う。
カール爺さんより、鴨取りごんべいが思い浮かんだ。
昔VHSで
心に残る名作
ラストに衝撃🎈
幼稚園児の時に観て以来です
サイレント映画の方が良かった
1956年(昭和31年)公開作品
ニコニコ動画で鑑賞
独特のアレは比較的うざくなかった
昔のフランス映画だからだろう
たとえ字幕がフランス語だとしても吹き替えじゃなくても十分に楽しめる
引っかかっていたバルーンをゲットした少年パスカル
はじめはただ単にバルーンをを持った邪魔くさい少年の話かなと思っていた
だが始まって10分あたりから赤いバルーンが確かに意思を持つようになった不思議なことに
飼い主さんが好きで好きでたまらない子犬のようにまとわりつくファンタジー
そんなバルーンを地元の悪ガキどもが黙っているわけがありません
しつこく追いかけまわしついには割れてしまう
すると町中のバルーンが決起しパスカルに集まり激励
バルーンたちは掴んだパスカルと一緒に天高く舞い上がった
のちの風船おじさんである(大嘘)
主演の少年は監督の息子
親バカである
三十四分間の映画詩🎈
昔の言い方で4巻物、上映時間は34分、キャストは少年と1つの "赤い風船"🎈少年と赤い風船の素晴らしき友情物語🎈ストーリーらしいストーリーは無いのですが、その素晴らしい映像美というか、映像表現で長編以上の充足感を観る者に与えてくれます🎈そしてこの映画の一番スゴいところは、この "赤い風船" に観る者が共感し、感情移入してしまうことでしょう🎈少年が歩き出すと、風船は少年の言うことを聞き、ついて行き、少年が学校へ行くと外で待っていたりする。少年にまとわりつき、すねたり、ふざけたりする風船がホントに可愛らしく、愛おしい🎈生物以外のキャラ(?)に感情移入出来てしまう映画は唯一無二🎈他に思い浮かびませんよね🎈風船の赤色を基調に捉えた画面の美しさ🎈舞台となるパリの街並みの美しさ🎈いじめられっ子から風船を守るために少年が路地裏を逃げ回るシーンの美しさ🎈パチンコの標的になり、空気が抜けて萎んでしまう "風船の死" の感動🎈沢山の風船を手にした少年が大空の彼方に舞い上がるラストシーンの優しさと美しさ🎈多分、アルベール・ラモリス監督は、少年と風船をこよなく愛する、夢と愛情に溢れた人だったのでしょう🎈次作の「素晴らしい風船旅行」にも監督の人柄が反映されてます🎈ピクサーの名作「カールじいさんの空飛ぶ家」も必ず、絶対影響受けているハズです🎈観る人すべてを魅了せずにはいられない傑作ファンタジーであり、素晴らしきシネ・ポエム(映画詩)🎈たくさんの人に観ていただきたいです🎈
タイトルなし(ネタバレ)
いつ見たのか、全く忘れた。兎に角、『素晴らしい風船旅行』よりも前たから、キドカラ○の飛行船が飛ぶ前の話だ。何故なら、この映画の最後を覚えていて、初めて『素晴らしい風船旅行』を見た時、あの少年はまだ、風船旅行しているって思ったからだ。
空に浮かぶ事は、私にとっての夢だった。
それで、
一ヶ月前に安曇野へ、気球に乗りに行った。高度1000米位まで上昇した。天気が良くて、扇山、常念岳、大天井岳と手に取る様に見えた。『凄い』とは思った。
だが、しかし、燕岳を含めて縦走しているので、その気配は復活したが、新たな感動までには至らなかった。
飛ぶよりも歩いた時の感動が大きかった。帰りに松本で食べた『生サバ』の握り寿司に感動した。
追記
親父に『何で赤い風船なの?』って聞いたら『共産○なんだよ』って答えた。彼の妄想だと今は思っている。
さて、はなたれ小僧ばかり出てくるから疑問に思い、googleLen○で調べたら、学校が『パリ市立男子校』と訳された。納得。
伝説の映画🎈
『Le Ballon Rouge』
アルベール・ラモリス監督作品
(2008年日仏交流150周年記念上映)
シネスイッチ銀座にて鑑賞
「赤い風船」「白い馬」同時上映
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール賞に輝いた作品
名作と言われながらも
観る機会が、限られ
「伝説の映画」と呼ばれていたようです。
舞台は、パリ20区メニルモンタン
パリ最大級の緑地で有名。
ある朝、
パスカル少年(パスカル・ラモリス)が
街灯に引っ掛かっていた
赤い風船を見つけ
取り外してあげたのをきっかけに
物語は、始まります。
パスカル少年と赤い風船は
どこへ行く時も一緒でしたが
お店でパンを買っている間に
いたずらっ子達に風船を奪われてしまう。
追いかけるパスカル
(映画の中でよく走っています)
揉みあっている内に
とうとう、
いたずらっ子たちに割られてしまい
風船がどんどん、しぼんでいくシーン、
とても、悲しくて・・・
あぁぁ・・・と思っていると、
何と、とどめは足で踏まれて・・・
パスカル少年泣いてしまう(T_T)
すると、不思議・・・
街中の風船が空から降りてきて
パスカルを優しく包み
空高く飛び去っていくのでした。
スクリーンの中の
「赤い風船」の鮮やかさと
まるで、生きているかのような
動きにはびっくりでした。
実は、「赤い風船」🎈
応援団キャンペーンがあり
先着1000名が
パンフレットに名前(実名)が
記載されるというので
参加しました(^^)/
劇場で買ったパンフレットに
自分の名前をみつけて嬉しかったです。
同時上映の「白い馬」も
南仏カマルグが舞台で
荒地に棲息している野生馬のリーダー
美しい白い馬と少年フォルコが
海辺を駆け抜けるシーンも
迫力ありました。
少年が、白い馬を思う気持ち
その思いが白い馬にも伝わり
友情を感じるシーンは
特に、素晴らしかったです。
でも、ラストは、悲しくて・・
とにかく、
素晴らしい伝説の映画を
鑑賞できて幸せでした。
風船は希望?
パスカルの目の動きがいい。笑いながらみていたが、セリフがないので、スクリーンをみて理解しなければならないのが、かえってよかった。私は海外の映画を数多くみるが、字幕に囚われて、素晴らしい景色や人の目の動きを見逃してしまっている。同じ映画を二度続けて見るときもあるが、字幕の理解が気になって十分に雰囲気をあじわえないことがある。でも、この映画は全く違った。
1956年のフランス映画だと。第2時大戦後の映画なんだなあ。果たして赤い風船は何を意味しているんだろう?青い風船は?風船の意味は? なぜ、風船の色が鮮明で、町や学校は褐色で、カラフルではないんだろう。なぜ監督はこの映画を作ったんだろう。パスカルと風船の映画を。
風船は希望?パスカルはユダヤ人の少年の例え?少年が街を歩くときは彼がユダヤ人だと外見だけでわからないから、優しく微笑みかける。でも、学校や悪ガキの間ではいじめられる?でも、最後に、風船に乗って、いじめのない世界にいける。それが、唯一の希望で、反戦映画?
監督の意味することは実はよくわからない。時代背景が必要になるが、戦後フランスはナチスの脅威の名残?
子供のときの夢が”映画の夢”になった
記憶の彼方にある作品。
小学校のときに定例的な上映会というのがあって市民会館へ行って見るのだが、その中で印象的な映画といえば赤い風船だ。
真っ赤な風船がまるで意思を持っているかのように、というか意思を持ってあちこち旅をしている。
その風船と少年の友情みたいな話だったように思うのだが、昔の記憶過ぎて思い出せない。
随分と頑丈そうな風船で、子供心にこれは風船じゃなくてボールではないかと思ったものだが、そうそうこの年にリバイバルしたのは覚えていて、見に行きたかったが結局時間がなくて見に行けなかった。
石段を風船は転がったり跳ねたりその様子がとても美しい。
こんなにも素敵な映画があるんだろうかと思ったくらいに素敵な映画だったのを覚えている。
制作が50年代というのは驚きだ。
80年代くらいにできた映画だとばかり思っていた。
この作品がまた世に出ることを切に願う。
雨上がりに、君と歩こう
フランスが誇る名匠、アルベール・ラモリス監督が1956年に発表し、カンヌ国際映画祭において高い評価を得た小さな、小さなファンタジー。
何の変哲もない赤い風船と、少年。この最小限の要素だけで、ここまで観客の創造力をたおやかに、豊潤に膨らませてくれる世界がある。この一点を知っているだけで豊かになる誰かの人生がある。ただ、それだけで嬉しい。
フランスという国の持つ薫り高い気品が、日本人として純粋に羨ましくなる。雨上がりの石畳、細い裏道を優しく、申し訳ないように流れる水の流れ、くたびれたトロッコバス。街全体が物語を包み込み、一人と一個を繊細な魅惑の悪戯に連れて行ってくれる。
どこか異国の雰囲気漂う音楽に乗せて、台詞を徹底的に排し描かれるのは、路地裏で街の人間の噂話に興じる野良猫を盗み見たときに感じる異邦人のような気恥ずかしさと、心に広がる暖かな共感。
君が、いる。君と、いる。それだけで、嬉しいんだ。
言葉で説明する必要は、本当は無いのかもしれない。誰か、小さな喜びを日常に見つけたときに、満面の笑顔で「いいね、素敵だね」と一緒に喜んでくれる人が側にいる貴方なら、きっとこの作品を楽しめるはずだ。
雨上がりに、君と歩く。それだけで・・きっと、幸せなんだと気付かせてくれる極上の一品である。
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