悲夢 : 映画評論・批評
2009年2月3日更新
2009年2月7日より新宿武蔵野館ほかにてロードショー
いかに人間が愚かであるかを教えてくれる
交通事故を起こす悪夢にうなされ目覚めた男が、現場に車で駆けつけると、夢で見たままの事故が実際にそこで起きている。警察は監視カメラに記録された映像に基づき、自宅で眠っていた若い女性を逮捕する。どうやら夢遊病者であるその女性は、男が見る夢そのままの行動を眠りながら起こすらしい……。
映画の冒頭から、男を演じるオダギリジョー1人が日本語を話し、その他の人物は当然韓国語で会話を交わす。しかし彼らのあいだでコミュニケーションの齟齬が生じるわけではない。これはむろん不自然な状況だが、韓国の鬼才キム・ギドクの映画において、その“不自然さ”が僕らの目に欠陥と映るどころか、むしろ積極的な意味合いを帯びる。そもそもこの映画は、まったく別の人生を歩む2人がなぜか同じ夢を共有する事態を描いている。だから、いがみあったり、慰めあったりしながら次第に心を通わせあうに至る2人の男女が、2つの異なる言語によって結ばれる設定が説得力を増すのだ。複数の異なる人間が同時に共有する1つの夢……。僕が思うに、これこそ映画の定義である。ただしギドクにとって映画は、決して現実逃避の甘く楽しい夢ではなく、むしろ僕らが現実において直視することを避ける欲望のたかまりを剥き出しにしてしまう。この映画は、いかに人間が愚かであるかを僕らに教えてくれる。その愚かさは悲しいばかりでなく、愛しくも美しい。
(北小路隆志)