4ヶ月、3週と2日のレビュー・感想・評価
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ガビツァに終始腹が立つ映画
ガビツァの自分勝手さとバカさと後先考えずに目の前のことしか見えなくてそれさえできればなんでもいいと思っている姿にたくさん腹が立った。
オティリアは自分が妊娠してるかもしれないのに、中絶の手伝いをするのがかわいそすぎる
オティリアと彼氏の妊娠についての話から、男の欲に応える女の子のつらさがわかる。また、すべての負担は女の子にかかる。戦時中の女性は性の吐け口でしかなかったことを思い出した。
とにかくガビツァに腹が立つ!協力してくれるオリティアにも嘘をつき、すべてが、たぶん、たぶんたぶん…
こんな人のために命をかけようと思った医者?がすごい
そして自分のせいで友達が性行為の対象になったにもかかわらず、彼氏の家に行くと言ったら急に私の事はどうでもいいのねヅラして、心配の電話にもでない。何より、最後自分だけ料理頼んだいて勝手に食べてなんなの!!?笑笑笑笑
まぁでもこんなに腹が立つから演技としては最高なのだと思う。
オティリアが最後こちらを向くのには何か理由があったの
か…
なぜガビツァが中絶したのか、それはこの映画の中では一切話さない。気になるが、この映画、監督が伝えたいのはルーマニアの自由が禁じられていた時代の中で生きる性欲がある若者を描きたかったのだと思う。もちろん性欲だけではないが、法律を遵守せずに生きる若者の窮屈さが感じられた。
無駄な動きがなく、一点しか捉えないカメラの視点が味を出していると思った。
なぜ吐いたのか?
交際している彼の家からホテルに急ぐ途中、オティリアが道端に吐いたシーンがあった。
あれは、何を意味していたのか。
まさか、『つわり』なのか。
でも、そう考えると、いろいろ説明がつく。
彼の家でお酒を飲まない。「最近、ひかえている」というような言い訳。
妊娠の自覚があるから?
とは言っても、タバコは吸いまくっているのだけれど。
オティリアは彼に、もし私が妊娠したら、って話をもちかける。
そして、険悪な雰囲気にまでいってしまう。
まったくの仮定の話なら、そこまで突き詰めなくても良いのに。
そもそも、大学の廊下で、2人はラブラブ感を出しまくりで、
彼は親族まで集うパーティーに招いてくれる公認の交際。
にもかかわらず、
仮想の妊娠話で2人の関係をギクシャクした所まで追い込んでしまう、
というのは、ちょっと不自然なようにも思える。
ガビツァのお馬鹿さにはイライラを出さないよう振る舞うオティリア。
仮想妊娠なら、彼にいくばくかの不安をいだいたとしても、
無益ないさかいに発展させないよう、感情をコントロールできても良いような。
もちろん、勘ぐりすぎかもしれない。
彼の家で食べた後、すぐに急ぎ過ぎたから吐いただけ。
ちょっと、食べ過ぎていた??
でも、
もし、オティリアが妊娠の自覚をしているとすれば、
ガビツァへの献身が、ちがった意味合いをおびてくる。
ガビツァをお馬鹿に描く、必然がうまれてくる。
チャウシェスク政権下、
あらゆる自由を制限され、中絶だけではなく、避妊すら基本は認められない。
そんな体制の不条理は、もちろん描かれている。
でも、不条理はそれだけではない。
彼の親族の会話に表れる前近代性。
「両親の前で酒を飲んだりするのは、はしたない」などの通念の理不尽さと、
その理不尽さに気付かない人々。
さらには、男女間の前近代性。
もし、オティリアが妊娠を自覚しているとするなら、
彼は逃げたりしないと言っているにかかわらず、
責任は女だけが背負いこんで
命をかけて中絶に臨まざるを得ない、
そんな男女の関係性。
政権のみならず、社会のありかた全体が
女性を抑圧し、
抑圧されながらもたくましく生きざるをえない
あの時代の女性たち。
いや、それはあの場所だけ、あの時代だけの話ではない。
ムンジウ監督が
1980年代を2000年代に描いた意味は、そこにあるのだろう。
寮のうっかり妊娠してしまったドジっ娘友人のために、文字通り体を張っ...
寮のうっかり妊娠してしまったドジっ娘友人のために、文字通り体を張って、当時違法である中絶を手助けするというお話かと思えば、計画がずさんすぎて、金がなく、主人公が体でまかなったり、友達の避妊を目の当たりにして彼氏がとばっちりを受けたり、友達の態度が、物語が進んでいくにつれてだんだん悪くなっていったり・・・とクソどじっ子のせいでいろんな人が変な目に遭う今作。
主人公が彼氏に「私が妊娠したらどうすんだオラ!」と詰問したときの彼氏の弁解が「そんなことより、キャンプ行こう」みたいな感じで笑えました。キャンプ馬鹿。
女性に送る、体験型映画
これはズバリ体験型映画だ!観客(特に女性)は、ヒロイン、オティリアの背中を追いながら、彼女の苛立ちや焦燥感に自分自身をシンクロさせて行く。彼女が足早に歩けば、自分の呼吸も速くなる。彼女が怒りを感じれば、自分もこぶしを握り締める。彼女の前に立ちはだかる日常的な苦難を、私たちは“共に”考え、切り抜けて行く。
オティリアは「できる娘」だ。問題を1人で解決する知性と行動力を持っている。彼女は、寮のルームメイトの中絶を手伝うために朝から奔走する。もしも物語の舞台が現在の東京だったら、これほど苦労はしなかったろう。しかし、そこは中絶が違法であるチャウシェスク政権下のルーマニア、オティリアの長い長い1日の物語だ。
私たちは、説明的なセリフや映像が一切ない中で、オティリアと、ルームメイト、カビツァの行動だけで、状況を把握していかなければならない。オティリアは、恋人から金を借り、中絶場所にするホテルを探し、堕胎医に会いに行く。だが、これらの行動がことごとくスムーズにゆかず、彼女の焦りと苛立ちはつのって行く。しっかり者のオティリアの行く手を阻むのは、官僚的なホテルのフロント係であったり、事情を知らない恋人であったり、果ては中絶を受けるカビツァ本人だったりする。
本作は、中絶の是非や、共産主義の社会状況などを批判するものではない。ムンジウ監督が描いたのは、世間知らずな少女たちの危うさだ。誰に相談することもできない中で、「これでいいと思った」という、あやふやな判断で行動することの恐ろしさ。
だが、彼女たちは負けない。私たちは、ハンディカムで長回しに撮影された、オティリアの後姿をひたすら追い続ける。それは、オティリアが前へ前へと進んで行くからに他ならない。
これは決して憂鬱な作品ではない。本作を“体験”できた人だけが解る、全ての女性たちへ向けた応援歌であることを。
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