4ヶ月、3週と2日のレビュー・感想・評価
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不自由な社会体制の中で…
「聞くところによれば」ということなのですが、本作のタイトルになっているのは、本作の製作国のルーマニアで人工的な中絶が(安全に?)施術可能な期間ということだそうです(日本の場合は21週と6日)。
本作は1987年の時代設定ということですけれども。すでに母体保護法の拡大解釈で、子供をおろすことの刑法的な罰則(妊婦自身についての自己堕胎罪、関与した産婦人科医の業務上堕胎罪)は、すでに空文化していたのが、当時の(そして今の)日本であったと思います。
せっかく授かった子どもを手術してしまうことについては、当事者となる男女の倫理観だけでなく、育てて行けるかという経済的な問題や、宗教的な戒律などもあり、簡単に是非を論じることができないとは思いますが、本作の場合は、軍事独裁下の何かと不自由な社会というのが本作の背景設定ですから、広く女性一般の人権や女性に固有の権利(産む自由etc.)についての軽視・無理解があったように思われました。評論子には。
そして、そういう時代(社会)背景が、本作のペペのような悪徳?産婦人科医を産み出していたということになるのでしょうか。
「希望のない時代の希望のない問題」とくくってしまうことはたやすいかも知れませんがら本作で唯一の「救い」といえば、全部をおえ、ホテルのダイニングで食事をしようとしていたガビツァの表情がとても柔和だったことでしょうか。
(食事をしようとしていたということは、体調の回復を窺わせるだけでなく、気分が良くなり食欲が戻ったということで、(幸いにも)母体にも問題は残らなかったことも意味しそうです。)
いずれにしても、生理として望まない妊娠という「危険」を常に(一方的に?)負っている女性の側には、また違った感慨のあった一本ではなかったかと思いました。
佳作であったと思います。
ルーマニアEU加盟直前に撮られた映画
この映画を見た欧米人と我々日本人とでは感じ方がそれぞれ違うのではないかという気がふとした。のぞまない子供を妊娠してしまった友人ガビツァの中絶を助けるために奔走するけなげな女の子オティリアのお話は、「困ったときはお互い助け合おうよ」という一昔前の日本だったら当り前(?)の相互扶助精神を素直に描いた作品だからだ。
中絶場所を確保するために官僚的なホテル従業員と折衝したり、手術費用を補うためにもぐりの医者に我が身を捧げたり、肉の塊のような堕胎した赤ちゃんを友人の代わりに決死の覚悟で捨てに行ったり・・・・。個人主義の発達した欧米人が見れば、「なんでそこまでしてあげなきゃならんの」という疑問をきっと抱くにちがいない。しかも、労働力確保のため避妊も中絶も許されていなかったチャウシェスク政権末期の貧しいルーマニアにおいてである。
オティリア以外の登場人物たち(中絶施術を受けたガビツァ本人、SEXのことしか考えていない大学のボーイフレンドや医者、内輪話に花を咲かせるボーイフレンドの家族、官僚的に接するヤル気のないホテルの従業員)は、他人の困惑などはおかまいなしで自分のことしか考えていない。それでも友人の面倒を最後まで見ようとするオティリアを通して、監督は観客に何を伝えようとしたのだろう。
はるか昔、統一後間もないドイツのライプチヒ(旧東ドイツ)を観光で訪れたのだが、そこに暮らす人々の無垢なふるまいに驚かされたことがある。相手の弱みにつけ込んで少しでも有利に立とうとする西側自由主義国のこすっからさを微塵も感じさせない、(本作におけるオティリアのように)親切心の塊のような人の良さに感動すら覚えたものである。
監督クリスティアン・ムンジウのインタビューによれば、本作によってチャウシェスク政権圧制下の緊張感を描いたということらしいが、映画の真意としてそれとはまるっきり逆のことをいいたかったのではあるまいか。EUに加盟し共産主義国から自由主義国に移行するとは一体どういうことなのか。ガヴィツァのように自分のことしか考えていない利己的な人間たちと付き合っていくことになるのですよそれでいいんですね、と。
映画のタイトル『4ヶ月、3週と2日』とはまさに、一度自由主義を導入したらもう2度と後戻りできないという、祖国ルーマニア社会における人心の臨界点を暗にほのめかしたメタファーだったのではないだろうか。「迷ってないで早くEUに加盟しろよ」とばかりにけたたましくクラクションを鳴らす車に、あきらかな不快感を示すオティリアのアップで映画は幕を閉じる。コ口ナ禍の影響で幸か不幸か、仕事に追われる毎日から一服つけた感がある日本の働く皆さんへ是非オススメしたい1本である。
ガビツァに終始腹が立つ映画
ガビツァの自分勝手さとバカさと後先考えずに目の前のことしか見えなくてそれさえできればなんでもいいと思っている姿にたくさん腹が立った。
オティリアは自分が妊娠してるかもしれないのに、中絶の手伝いをするのがかわいそすぎる
オティリアと彼氏の妊娠についての話から、男の欲に応える女の子のつらさがわかる。また、すべての負担は女の子にかかる。戦時中の女性は性の吐け口でしかなかったことを思い出した。
とにかくガビツァに腹が立つ!協力してくれるオリティアにも嘘をつき、すべてが、たぶん、たぶんたぶん…
こんな人のために命をかけようと思った医者?がすごい
そして自分のせいで友達が性行為の対象になったにもかかわらず、彼氏の家に行くと言ったら急に私の事はどうでもいいのねヅラして、心配の電話にもでない。何より、最後自分だけ料理頼んだいて勝手に食べてなんなの!!?笑笑笑笑
まぁでもこんなに腹が立つから演技としては最高なのだと思う。
オティリアが最後こちらを向くのには何か理由があったの
か…
なぜガビツァが中絶したのか、それはこの映画の中では一切話さない。気になるが、この映画、監督が伝えたいのはルーマニアの自由が禁じられていた時代の中で生きる性欲がある若者を描きたかったのだと思う。もちろん性欲だけではないが、法律を遵守せずに生きる若者の窮屈さが感じられた。
無駄な動きがなく、一点しか捉えないカメラの視点が味を出していると思った。
なぜ吐いたのか?
交際している彼の家からホテルに急ぐ途中、オティリアが道端に吐いたシーンがあった。
あれは、何を意味していたのか。
まさか、『つわり』なのか。
でも、そう考えると、いろいろ説明がつく。
彼の家でお酒を飲まない。「最近、ひかえている」というような言い訳。
妊娠の自覚があるから?
とは言っても、タバコは吸いまくっているのだけれど。
オティリアは彼に、もし私が妊娠したら、って話をもちかける。
そして、険悪な雰囲気にまでいってしまう。
まったくの仮定の話なら、そこまで突き詰めなくても良いのに。
そもそも、大学の廊下で、2人はラブラブ感を出しまくりで、
彼は親族まで集うパーティーに招いてくれる公認の交際。
にもかかわらず、
仮想の妊娠話で2人の関係をギクシャクした所まで追い込んでしまう、
というのは、ちょっと不自然なようにも思える。
ガビツァのお馬鹿さにはイライラを出さないよう振る舞うオティリア。
仮想妊娠なら、彼にいくばくかの不安をいだいたとしても、
無益ないさかいに発展させないよう、感情をコントロールできても良いような。
もちろん、勘ぐりすぎかもしれない。
彼の家で食べた後、すぐに急ぎ過ぎたから吐いただけ。
ちょっと、食べ過ぎていた??
でも、
もし、オティリアが妊娠の自覚をしているとすれば、
ガビツァへの献身が、ちがった意味合いをおびてくる。
ガビツァをお馬鹿に描く、必然がうまれてくる。
チャウシェスク政権下、
あらゆる自由を制限され、中絶だけではなく、避妊すら基本は認められない。
そんな体制の不条理は、もちろん描かれている。
でも、不条理はそれだけではない。
彼の親族の会話に表れる前近代性。
「両親の前で酒を飲んだりするのは、はしたない」などの通念の理不尽さと、
その理不尽さに気付かない人々。
さらには、男女間の前近代性。
もし、オティリアが妊娠を自覚しているとするなら、
彼は逃げたりしないと言っているにかかわらず、
責任は女だけが背負いこんで
命をかけて中絶に臨まざるを得ない、
そんな男女の関係性。
政権のみならず、社会のありかた全体が
女性を抑圧し、
抑圧されながらもたくましく生きざるをえない
あの時代の女性たち。
いや、それはあの場所だけ、あの時代だけの話ではない。
ムンジウ監督が
1980年代を2000年代に描いた意味は、そこにあるのだろう。
おおむねワンシーンワンカットで手持ちカメラ長回し多用の上、もしかして自然光のみ…?
タイトルなし(ネタバレ)
寮のうっかり妊娠してしまったドジっ娘友人のために、文字通り体を張って、当時違法である中絶を手助けするというお話かと思えば、計画がずさんすぎて、金がなく、主人公が体でまかなったり、友達の避妊を目の当たりにして彼氏がとばっちりを受けたり、友達の態度が、物語が進んでいくにつれてだんだん悪くなっていったり・・・とクソどじっ子のせいでいろんな人が変な目に遭う今作。
主人公が彼氏に「私が妊娠したらどうすんだオラ!」と詰問したときの彼氏の弁解が「そんなことより、キャンプ行こう」みたいな感じで笑えました。キャンプ馬鹿。
チャウシェスクの子どもたち
東欧革命の少し前のルーマニアが舞台の映画。
手持ちカメラでワンシーンワンショット。
非常に暗くて退屈です。
その退屈さが社会主義時代を表してる感じがして良かったです。
堕胎した胎児を、まるで子猫でも抱くように
腕にかかえていたのが印象的でした。
劇中に出てくるホテルの内装がアンカラで泊まったホテルに似ていて、
その時のことがすごくリアルに甦りました。
汚れた壁、薄暗い廊下、鍵のかかりづらいドア、タイルの割れたバスルーム、
泡立たない小さな石鹸、ごわごわといやな肌触りのシーツ、窓の下の喧騒。
アンカラのそのホテルで、妊娠と死産の夢を見たことを思い出しました。
その夢では、私は死産してしまったのだけど、
その後に死産なんてしていない、あなたの子どもはちゃんと生きている、と
周囲の人たちに言われる、という夢だったのです。
死産だとわかった時はとてもつらく泣き暮れて、だけど子どもが生きていると言われたときに、
私はそれを絶対に認めようとしなかった。
とても後味の悪い夢だったのです。
夢分析によれば、妊娠は願いが叶うことの暗示、
死産は大切なものを失くしてしまうこと、過去との決別を暗示しているとか。
命の大切さとか、無責任さをこの映画でとやかく述べるのはナンセンスだと思う。
ラストシーンの二人の、どこか清々しい表情は、
やり終えた安堵感と、また続いていく明日からの日々、
そして数年後にルーマニア革命が起こることを含ませているような気がするのです。
緊張感たっぷりの心象表現
女性に送る、体験型映画
これはズバリ体験型映画だ!観客(特に女性)は、ヒロイン、オティリアの背中を追いながら、彼女の苛立ちや焦燥感に自分自身をシンクロさせて行く。彼女が足早に歩けば、自分の呼吸も速くなる。彼女が怒りを感じれば、自分もこぶしを握り締める。彼女の前に立ちはだかる日常的な苦難を、私たちは“共に”考え、切り抜けて行く。
オティリアは「できる娘」だ。問題を1人で解決する知性と行動力を持っている。彼女は、寮のルームメイトの中絶を手伝うために朝から奔走する。もしも物語の舞台が現在の東京だったら、これほど苦労はしなかったろう。しかし、そこは中絶が違法であるチャウシェスク政権下のルーマニア、オティリアの長い長い1日の物語だ。
私たちは、説明的なセリフや映像が一切ない中で、オティリアと、ルームメイト、カビツァの行動だけで、状況を把握していかなければならない。オティリアは、恋人から金を借り、中絶場所にするホテルを探し、堕胎医に会いに行く。だが、これらの行動がことごとくスムーズにゆかず、彼女の焦りと苛立ちはつのって行く。しっかり者のオティリアの行く手を阻むのは、官僚的なホテルのフロント係であったり、事情を知らない恋人であったり、果ては中絶を受けるカビツァ本人だったりする。
本作は、中絶の是非や、共産主義の社会状況などを批判するものではない。ムンジウ監督が描いたのは、世間知らずな少女たちの危うさだ。誰に相談することもできない中で、「これでいいと思った」という、あやふやな判断で行動することの恐ろしさ。
だが、彼女たちは負けない。私たちは、ハンディカムで長回しに撮影された、オティリアの後姿をひたすら追い続ける。それは、オティリアが前へ前へと進んで行くからに他ならない。
これは決して憂鬱な作品ではない。本作を“体験”できた人だけが解る、全ての女性たちへ向けた応援歌であることを。
これって・・・映画の中の映画だと思う
ツタヤに行き、いつものように、内容いっさい確かめずに題名だけで6本くらい借りました。2009年記念すべき最初の映画は、題名だけではまったく内容を推測できない本作となりました。
なんでもカンヌ・パルムドールを取ったらしいルーマニア映画の本作、ツタヤのジャンルではミステリに分けられています。観終わってみると、ツタヤさん絶対にこの映画観ずにジャンル分けしたなって思いました。ぜんぜんミステリじゃありません。
前置き長くなりましたが、本作のテーマはずばり「堕胎」でございます。正月早々、とても重いのを選んでしまいました。それでも、です。観てて気分重くなるけど疲れないんです。
それもそのはず、描写が素晴らしいんですね~。カットは最小限度に抑え、物語が地に足をつけて人々の日常生活に見事に入り込んでるのです。つまり描写でストーリーを引っ張れてるのです。個人的に一番印象に残ったシーンが、主人公の女が恋人の実家に招かれ食事するシーン。そこで繰り広げられる会話や人々の表情、そのどれを取っても本筋に関係ないのに、とても説得力がある。
思うに、この監督さん、「映画」っていうものを知り尽くしているのだと思います。この作品を見て、映画を理解できてない作り手ほど解説や説明をはさみたがるのだと思いました。
フェリーニとは別のタイプだけど、感動の感覚がフェリーニと似ている。ひょっとしたら再来なのかも。クリスティアン・ムンジウって監督さんの名前、ちゃんとインプットしました。
多くを語らなくても伝わる映像のもつ力!!
優柔不断度No.1はこの堕胎女に決定!
<ストーリー>
オティリアはルームメイトのガビツァの闇の堕胎処理のため、本人が積極的に動かないため必死で奔走。いざ「闇」の堕胎業者が、金が足りないというと、それこそ「身を投げうって」まで解決しようとするのに、本人はどこか他人事。自分の事でもないのにオティリアは次第に追い詰められていく。
<個人的戯言>
最近の映画の中で、おそらく女性からバッシングされ度は、「東京ラブストーリー」の中で有森也実が演じてた関口さとみか、「ポケベルが鳴らなくて」の中の裕木奈江(未だに彼女が役であるにもかかわらず、バッシング受けたのか私には不明。そしてまさかの「インランド・エンパイア」出演。やはり不思議女優か?)か、それ以上。観てるこっちもイライラしてくるのを、カット割りが更に助長。こんなのがいたらお気を付けあそばせ!
とにかくこのガビツァという女。自分が当事者の自覚全くありましぇ~ん。とにかくいろいろな準備に奔走するルームメイトを尻目に、自分がしなければいけないことを、ほとんどまともにやってません。挙句の果てに、ルームメイトがいろいろ確認すると、「・・・と思ってた」「体調が優れないの」等ほんと
イイイイイイイイイイイイ・・・とさせてくれます。弱々しい感じで、懇願するような上目遣いが更に後押し。
その「他人事」振りを象徴的にしているのがそのカット割り。「存在」を消し、それこそ「誰のこと?」という感じにしていて、もうルームメイトと観客のイライラ度は頂点に。全篇が淡々と進み、冷たい感じの部屋や街並みが突き放したような印象が、まるで無関心を表しているかのよう。
更にルームメイトは恋人との関係も加わり、「何で私だけ?」「何で私がこんな目に?」みたいに思い、自分のことでもないのに次第に追い込まれていきます。結局最後まで頼られっ放しの後の、堕胎女の前に出てきたものは・・・
おいおい、お前平気かよ!
チャウシェスク独裁政権時代、堕胎が違法とされていたルーマニアが舞台ですが、そんな背景うんぬんよりこの堕胎女です・・・しかしやけに印象付けられてますが、まんまとしてやられてるか?
映画ファン必見
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