やわらかい手 : 映画評論・批評
2007年12月4日更新
2007年12月8日よりBunkamuraル・シネマにてロードショー
残酷の先にある慈悲の光。M・フェイスフルの肉の濃さを見よ
雲は厚い。射してくるのは灰色の光だけだ。幼児が難病を患っている。家族は裕福ではない。治療に必要な金を、祖母が工面しようとする。
設定だけを見れば「やわらかい手」は陰鬱に映るかもしれない。最悪の扱いをすれば、不快なお涙頂戴映画になる。「困ったときのセックス頼み」といった発想を安直に持ち込めば、「フル・モンティ」や「カレンダー・ガール」のようなくすぐったい映画に陥る。
が、「やわらかい手」は、どちらにも属さぬ細い道を通り抜けていく。できあがったのは、重心の低いメランコリーとおだやかな笑いに満ちたディープな映画だった。
原動力は、なんといってもマリアンヌ・フェイスフルの存在だろう。彼女が演じるマギーは50歳の地味な寡婦だ。が、マギーは性根が据わっている。体型はぬいぐるみを思わせるが、背筋が伸びているし、眼の奥には物に動じない光が宿る。そんな彼女が、やわらかい手を駆使して、性風俗店で孫の治療費を稼ぎ出す。切実な行為だが、どこかドライで滑稽な味も漂ってくる。男たちは長蛇の列を作り、マギーはテニス・エルボーならぬペニス・エルボーを発症する。名誉の負傷だ。
映画の急所は、「仕事」を通じてマギーが世界と向かい合う方法を学ぶところか。彼女は恐怖を克服し、残酷の先にある慈悲の光に触れる。ここが美しい。「40年分の修羅場を踏んだ」とさえ評されるフェイスフルの肉の濃さが、マギーという器から滲み出ている。
(芝山幹郎)