「彼は秒針のように」歌うつぐみがおりました 因果さんの映画レビュー(感想・評価)
彼は秒針のように
オタール・イオセリアーニの映画はこれが初めて。フランス映画的な晦渋さを覚悟したが意外にもすんなりと観られた。とはいえヌーヴェル・ヴァーグの影響は色濃い。扉の開閉に合わせてBGMが節操なく明滅を繰り返すさまや、狭い部屋を飛び出して街中を駆け回る主人公像などは、『はなればなれに』あたりの最もブイブイ言わせていた頃のゴダール作品を彷彿とさせる。
しかし本作はゴダールほど才知に走って受け手を置いてけぼりにはしない。軽佻浮薄だがどこか憎めない性格で街の人々に愛されている主人公のギアは、そう言ってよければ『勝手にしやがれ』のミシェルと『男はつらいよ』の車寅次郎の合いの子のようで、その動向をカメラと共に追っていくうちに不思議と愛着が湧いてくる。
それでいて友達の時計修理店の壁に突然釘を刺して帽子掛けを作ったり、ピアノの前で合唱する人々に混じって正しい音程で歌ってみせたり、オーケストラで自分の担当パート直前にダッシュで会場入りを果たしたり等々、いかにもフランス映画的なクールで瀟酒な振る舞いをも同時に演じてみせる。
これに似た映画を過去に一作だけ見たことがある。ゲオルギー・ダネリヤの『私はモスクワを歩く』だ。本作もまた風来坊気質の主人公が飄々とモスクワを練り歩きながら人々との交流を深めていくという物語で、主人公の一日の動向を朝から晩まで順に追っていくというナラティブの型式まで本作と同じだ。ちなみにダネリヤはロシアの映画監督だが、出身はジョージアだ。つまりイオセリアーニと同じ。ウィットに富んだ演出と誇張のないヒューマニズムをコメディベースでマリアージュさせる名手がまったく同じ故郷を持っているというのは、単なる偶然ではあるものの、ジョージアなる私にとってまだまだ未知の映画的土壌の豊かさを感じざるを得ない。
永遠に続くかと思われたギアの風来坊的生活は、唐突かつショッキングな幕切れを迎える。彼は昨日と同じように車と路面電車がひっきりなしに行き交う道路に飛び出すが、昨日とは違って左から突っ込んできた軽自動車に跳ねられる。ほどなく救急車が彼を搬送する。道路には生々しい血痕。今まで好き勝手やってきたことに対する罰だとしてもあまりに重すぎるんじゃないか、とやるせない気持ちになる。
するとカットが切り替わり、昨日の時計修理屋が映し出される。出勤してきたギアの友人の男は、ギアが昨日こさえた帽子掛けに帽子を掛ける。それから壊れた腕時計が大写しになる。男がマイナスドライバーを回すと、腕時計のトゥールビヨンが動き出す。カチカチカチカチと自らの復活を高らかに歌い上げる。これはギアの復活の暗喩でもある。ギアの生活には常に音があった。音楽だけではない、飛行機の飛行音や、電車の通過音、そして時計の針の音。それらは彼の心臓の鼓動なのだ。
彼はたぶん今頃、友人の医者の執刀で一命を取り留めているのだろう。いや、ひょっとしたら既に病室を飛び出してトビリシの街に繰り出しているのかもしれない。秒針が忙しなく回り続けるように、ギアもまた動き続けずにはいられないのだ。