真昼の決闘のレビュー・感想・評価
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無理を感じる顛末
ゲイリークーパー扮するウイルケイン保安官はグレースケリー扮するエイミーと結婚式を挙げ、保安官バッジを返納した。そんな折、ならず者たちが3人町にやって来た。
新婚さんにしてはゲイリークーパーはちょっと老けすぎてるよね。それに命を狙われているのにわざわざ町に戻ってくるとは。これでは新妻がかわいそうだね。バッジも返したんだから責任感は関係ないさ。 町から出そうとする友人を殴り倒すなんてね。顛末に無理を感じるな。意地を張って死んだら元も子もないよね。
『ベルファスト』
僕は『ベルファスト』が大好きで、公開された去年、映画館で5回観ました(笑)
当時、レビューも書きましたが、
最初まあまあ、あとからジワジワ効いてきて、最終的に5回も観に行ったのです(笑)
そんな大好きな『ベルファスト』の中で、いくつか映画が流れます。
その1つが、この映画です。
『ベルファスト』経由で、この映画を観たワケです。
この映画は、音楽が大好きです♪
『裏窓』『ダイヤルMを廻せ!』のグレイス・ケリーが出ているトコも、いいですね♪
ただ、今この時代に観ると、退屈です…
イキだし、オシャレだし、カッコイイけど…
西部劇で好きなのは、
『ヤングガン』『クイック&デッド』『バッド・ガールズ』『シェーン』
など、90年代のが多くて…
『真昼の決闘』は退屈でした…
素の評価は55点ですが、
グレイス・ケリーと、ワインの様に年代を考慮して5点ほど足しましょう(笑)
最終評価は、甘めの60点です(笑)
画面から伝わってくる強い正義感と怒り、諦観
画面から伝わってくる強い正義感と怒り、更に諦観に圧倒された。ハリウッドに対するそれら想いを、新しいタイプの傑作映画にまで練り込んだ素晴らしい脚本と演出に凄みと敬意を覚えた。
真昼の孤独な決闘
午前十時の映画祭11にて。
やはり、この映画もグレース・ケリーの美しさが際立つ。
グレース・ケリーは本作が映画出演2本目にして初のヒロイン役で、当時22〜23歳。主演のゲーリー・クーパーは51歳だった。ゲーリー・クーパーが扮する保安官ウィル・ケインは設定上も若くはないようなので、グレース・ケリーが演じるエイミーは自分の倍以上年長の男に嫁ぐというわけだ。
主人公のウィルは、結婚と同時に保安官を辞めて町を出ることになっていたようだ。
ウィルと因縁があるならず者が町にやって来ることが分かって、町の人たちはウィルと共闘するか突き放すかで二分する。町長は、ウィルが町のために尽くした保安官だと説明しながらも、町に向かっている悪党はウィルに個人的な恨みを晴らしたいだけだ、ウィルはもう保安官ではないと言い、町の人々はその言葉に無言で同意する。
だがしかし、ウィルは保安官バッヂを外さず一人銃を持って悪党たちに立ち向かうのだった。
この物語の恐ろしいところは、悪党一味の4人が町にやってくるとウィル以外に住民がいないゴーストタウンであるかのように町は静まり返り、一旦は共に戦おうとしていた人たちも含めて誰一人として救援に現れないところだ。多数決の結論を絶対とする民主主義へのアンチテーゼだとも言われている。
新妻エイミーが、悪党と闘うことを選んだウィルを置いて列車で一人町を出ようとするが、これは彼女がクエーカー教徒であることがポイントとなる。
クエーカー教はいかなる者とも闘わない平和主義、友愛主義が教えの宗派だから、闘いを選んだウィルとは決裂しなければならなかった。
だから、そのエイミーが悪党の一人を撃ち殺してウィルを助ける場面には重い意味がある。
この映画は、悪党のリーダーが列車で町にやってくる設定に工夫がある。
弟たち3人の仲間がこの町の駅で待っていることで、町に来ることが目的だと分かる。
列車の到着時刻が正午であることが分かっているから、正午までの時間をほぼリアルタイム進行で描くことでサスペンスを形成している。
これによって、〝ハイヌーン〟が刻々と近づく緊迫感が生まれている。
孤独な闘いを終え、町の人々に失望したように保安官バッヂを地面に投げ捨ててエイミーと共に馬車で町を出るウィルだが、彼があえて孤独な戦いに挑んだのはなぜだろうか。
悪党が町に向かっていると知らせが入り、急いで町を出るように町長は助言している。しかし、一旦町を出ようとしてウィルは舞い戻る。保安官を辞めた自分は銃を持っていない。自分を恨む悪党が釈放されたとなると、自分を守るために保安官バッヂと銃が必要だ。だから町に戻って保安官に復職しようとしたのではないか。そう考えると、もう保安官ではないのだから町を出ろという町長の意見は、政治家として正しかったようにも思える。
自分がいないと知っても、町にやってきた悪党一味がおとなしく帰っていくはずがない。後任の保安官はまだ着任していないのだから、自分が町を守らねばならないと考えたのだろうか。そうだとすると、悪党一味がウィルに恨みを持っているとはいえ、仮にウィルがいなくても、あるいはウィルに恨みを晴らしたとしても、その後悪党たちが町で何をするかという危機意識が町の人たちには欠如していたと言える。
恐らく後者なのだろうが、ウィルの言動には判りづらい部分もあって、従来の西部劇で描かれた完全正義の保安官とは趣が異なっている。
町の人たちも、馬車で去っていく夫妻をただ見つめるのみで、ウィルへの感謝も謝罪もない。
町を救ったであろう元保安官は孤独に戦い、虚無感の中去っていくのだ…
引き金を引いた女
村上春樹はエルサレム賞の授賞式のために空港へ向かう道中、何度もこの作品を見て勇気を出したという。
当時のイスラエルはガザ地区の擾乱をめぐって政府が激しく批判されており、その災禍をよそに授賞式への参加を表明した村上春樹にも当然非難が集中した。
「ずいぶん孤独だった」
彼はそう述懐している。
そのとき彼がスクリーンの中で孤軍奮闘するゲイリー・クーパーに自らの境遇を重ね合わせていたことは言うまでもない。
ゲイリー・クーパー扮する保安官ウィルはなぜわざわざ街に戻ってきたのか。悪漢たちが自らの命を狙っていることを知りながら。
平たく言えばエゴイズムだ。それ以外の何物でもない。保安官として街を救いたい、というエゴイズム。
街の人々にどうして街へ戻ってきたのかと尋ねられた際の「そうする義務がある」という彼の言葉に半ば自己暗示めいたものを感じたのは私だけではないはずだ。
彼がそのようなエゴイズムを採択できた背景には、きっと誰かが自分を手伝ってくれるだろうという打算があったように思う。でなければ1vs4の不条理な決闘に身を投じられるわけもない。
しかし彼の期待は徐々に裏切られていく。酒場や教会を巡りながら彼は保安官補佐を募るが、街の人々は一人また一人と踵を返していく。「俺にも嫁や子供がいるんだ」「それはあんたの個人的な問題だ」。
周囲からの信頼や助力といった頼みの綱をすべて失ったウィルはいよいよ自身のエゴイズムと真っ向から対峙せざるを得なくなった。
街を救いたい。
しかし街の人々はどうだ?自身に被害が及ぶと知るや否や誰もが彼に背を向けてしまった。彼らを助ける価値は果たして本当にあるのだろうか?
そんなことはもう関係がなかった。悪漢との決闘はウィルにとって既に個人的な問題だった。自分が決めたことは自分が最後まで責任を持つ。その過程や結果において関わってくる外部のものごとなど彼には関係がなかった。
彼はピストルを持って4人の悪漢に立ち向かっていく。
意思や行為が徹底的に個人の内面において完結しているという点において、ウィルと村上春樹は共通している。
「この時世にイスラエルなんか行くな」と周囲から後ろ指をさされても、彼にとっては「イスラエルの読者たちに何としても感謝の意を示したい」という自己規範を遂行することのほうがよっぽど重要だった。
行きすぎた個人主義はあまり私の好きなものではないが、しかし何が何でも精神の中心に一本の長い長い直線道路を引き続けようとする彼らの強さには論理を超えた敬意を表したくなる。
と言いながらも、この映画で私が最も好きなのは、最後の決闘でウィルの花嫁が彼を狙っていた悪漢を背後から射撃する終盤のシーンだ。彼女が悪漢を撃たなかったなら、おそらくウィルはあの場で死んでいただろう。彼女の助力があったからこそ、ウィルは4人の悪漢に打ち勝つことができた。
彼の孤独を極端に美化すること、つまり物語を「男がたった一人で街や人を救う」的な落とし所で締めることは安易な形式主義だ。それは旧来の西部劇がマッチョイズムと勧善懲悪を絶対的な雛形にしていたことと何も変わらない。
このシーンにはウィルの徹底した孤独=個人主義を単なるニヒルなダンディズムとして受け手に消費させない意図があるように私は思う。そこが私は好きだ。
個人主義は魅力的だ。それを貫徹できる人物を見ると無性に憧れてしまう。それでも思い出さなければならないのは、どうしたって人は一人だけでは生きていくことができないというスタブルな事実だ。
あの村上春樹にだって、親や友人や読者や妻がいるのだ。
自分勝手な保安官
午前十時の映画祭11にて観賞。
1870年、アメリカ西部の小さな町で、保安官ウィル(ゲイリー・クーパー)はエイミー(グレイス・ケリー)との結婚を機に退職し、町を出ようとしていた。そんな彼の元に、かつて逮捕し刑務所送りにした無法者のミラーが釈放され、仲間3人を引き連れて復讐にやって来るという情報が届いた。ウィルは町の人々に加勢を頼むが、ミラーを恐れ協力を拒否したため、ウィルはたった1人で4人を相手に戦うことになるという話。
あのまま町を出てたらミラーが町には何も危害を加えなかったとしたら、自分勝手な保安官が1人じゃ不安だからって仲間を募ってる様にも感じた。
4対1での銃撃戦だが、意外に復讐する方があっけなくやられる。なんじゃい、って感じ。4人を射殺したら町の人たちが出てきて祝ってくれるが、保安官バッチを投げ捨て町を出て行くのも自分のためにだから放っておいてくれ、って感じだったのだろう。
町の人たちは保安官を嫌ってた人も多くそこもなんじゃい、って感じだった。
妻エイミー役のグレイス・ケリーが美しかった。
主人公の孤独と責任
この話は今の時代、今の日本にも通じる、もっというと暮らす人々と守る保安官はいつの時代であっても孤独だということ。誰にも助けられず、1人で向かうケーン。
その姿はかの総理大臣に垢を煎じて飲ましたいと思う。
シンクロ
時間をシンクロさせた作品と紹介されていたが、舞台劇のような雰囲気を作り出すだけで、それほど効果は感じられなかった。これは多分、結婚式を挙げたばかりという設定が良くないのだろう。それよりも町の人々が保安官とミラーとの戦いに関わりたくないということが新鮮に思えた。ラストの保安官のバッジを投げ捨てるところが素晴らしい。
ゲーリー・クーパーの渋い名演の異質西部劇
物語と上映時間の同時進行の手法に拘ったジンネマン監督らしい堅実強固な演出が勝る映画。通常の西部劇にあるロマンは無く、ひとりの孤独な英雄を称えるヒロイズムが印象に残る。ゲイリー・クーパーとグレイス・ケリーの最高のキャスティング。唯一ティオムキンの音楽が合っていない。ジンネマンタッチを邪魔している。
単なる娯楽作品の枠を超えた画期的な西部劇
物語は言ってしまえば勧善懲悪で、そこは従来の西部劇と同じで変わらない
しかしジョンウエイン主演の西部劇とは大きく異なる
かといって、大いなる西部のようにオールドウェスタンの終末を描くものではない
荒野のならず者が幅をきかせている真っ只中の物語だ
ヒーローもいる
ゲイリークーパー演じる保安官だ
彼は劇中で実際強いのだからヒーローそのものだ
では何が違うのか?
それは町の人間だ
誰一人、窮地に立つ彼を助けないのだ
ジョンウエイン映画ならこぞって腕の立つ助太刀があつまる、それが本作では無いのだ
皆、傍観するのだ、それどころか悪者と戦う決意を固めた彼を批判するのだ、さらには実力で彼を町から追い出して悪者との戦いを回避させようとするのだ
悪者との戦いで死ぬのが怖いだけでなく、戦いが起こる事が今後の商売に障る為に、さらには彼に戦われると自分の卑怯さが決定的になるのを阻止する為だ
彼の新婚の花嫁すら平和を愛する為に戦おうとする彼を見捨てようとするのだ
つまり皆が利己的であるのだ、そこが従来の西部劇と決定的に違い、理想の姿ではなく現実の姿を反映させているところなのだ
そこが本作の持つ普遍的なテーマなのだ
これを根底において映画は構成されており、あの有名な本作の主題歌もそれに応じて従来の威勢の良いものではない
そして正午に着く汽車に乗って悪者がやってくる設定
映画の中の時間と実際の上映時間がほぼ一致されリアルタイムで物語が進行する
シーンが変わる毎に時計が映る
そうあのTVシリーズの24の原形なのだ
12時に敵が現れ戦いが始まるまで1時間半しかない、時計が写る毎に緊迫感が高まる見事な演出
12時というデッドラインがある為に元祖たる本作の方が,24以上の緊迫感をもたらしている
そして地平まで伸びる真っ直ぐなレールが度々写る
あの彼方から敵が現れるのだという圧迫感
その地平線の彼方に煙が上がり小さく機関車が見えだす
そして12時のチャイムを時計が告げた時、町に汽笛が届くのだ
なんという見事な演出だろう !
主役も脇役も皆配役演技とも申し分ない
特にゲイリークーパーの苦悩ぶりは素晴らしい演技だ
悪者の手下役にリー・ヴァン・クリーフが出演している
後に夕陽のガンマン初めマカロニウェスタンで大活躍する彼だが本作が映画初出演だそうだ
町の人々の行動は利己的で現実的だ
しかしそれは米国人自身が最も在りたくない姿だ
認めたくない姿
だからこそ、それでも戦うヒーローは 真のヒーローであり、保安官バッチを最後に捨てるところに共感が生まれ、カタルシスがあるのだ
町の人々の姿は当時ハリウッドを苦しめた赤狩りで仲間を見捨てる風潮を揶揄しているという
そのように見えても仕方ないだろう
しかし21世紀に本作を観る日本人にはまた違うメッセージにも見える
これはアメリカの国家行動パターンそのものだと
出演の保安官は米国だ、町の集会は国連だ
副保安官は同盟国、親兄弟を銃で殺されたから平和が一番、夫を助けて戦うなんて宗教的にも無理
そのようにいう妻は正に平和憲法の日本だ
このメタファの中で、アメリカは戦後戦ってきたのだ
アメリカ人の心象風景はこの映画を通して見ていたのだろうと
特にイラク戦争の時の有り様とは似ている
米中の新冷戦が始まった今日
本作は重要性を増しているのではないだろうか
実年齢51歳になったゲイリー・クーパー、若く美しいグレース・ケリー...
実年齢51歳になったゲイリー・クーパー、若く美しいグレース・ケリーとの結婚式シーンからのスタートからちょっと厳違和感が、あったがストーリーが進むにつれて そんな事はすっかり忘れさせてくれる逞しい保安官だった。ラストに街を去るところなどさすが「アメリカの理想の男」、貫禄のあるカッコよさだった。
リアリズム西部劇が誕生した瞬間
正午、復讐の為に町に舞い戻って来る4人の無法者。保安官は町人に協力を要請するが、拒まれる。孤立する中、遂にその時がやって来る…!
スタンリー・クレイマー製作、フレッド・ジンネマン監督、ゲーリー・クーパー主演による1952年の西部劇の名作。
ストーリーはシンプルだが、いわゆる王道西部劇ではない。
この映画で描かれる保安官は助けを求め、保安官バッジを置く。強く頼れるアメリカの男の象徴だった保安官像は脆くも崩れ去った。
町人もこれまで保安官の世話になったろうに平気でそっぽ向く。人間の薄情さを浮き彫りに。
爽快さや娯楽作としての醍醐味には欠ける。
が、劇中の時間と上映時間がリアルタイムで進行。刻一刻と迫るタイムリミット、主人公の焦燥と孤独、1対4の戦いなど一貫した緊迫感が見事。
ジョン・フォード、ハワード・ホークス、ジョン・ウェインら“西部劇の男たち”はこぞって本作を批判したと言う。
製作されたのは赤狩り真っ只中。
どんな政治的意味が込められているか分からないし、当時の背景についても詳しく説明出来ない。
確かなのは、勧善懲悪の西部劇はあくまで映画の中だけと言う事。ひょっとしたら西部の時代、名も無い町で名も無い保安官が映画と同じ道を辿ったかもしれない。
リアリズム西部劇が誕生した瞬間。
無情な町
西部劇の傑作ということで、熱い思いを予想していたのですが、いやはやなんとも、描かれていたのは無情につぐ無情の町でした。このあたり、ただ単に保安官というヒーローを描いたわけではなく、それにともなう爽快感とはまったく違った味わいを残しています。
でもやっぱり、ゲーリー・クーパーは絵になるなぁ。厩舎の2階から外をうかがう表情、そこに影が差している時の色にドキッとしましたですね。
しっかし、トーマス・ミッチェル!! あなたが出てるだけで、人情を期待してたんすけど、まっさかその判断とは! いやはや驚かされましたよ。
孤立無援、初老保安官の死闘
わたしは余り西部劇を観ないし、数多く知らない。
しかしその例外としてこの作品がある。多くの方々が既に周知の作品である。この西部劇は少し変わっている。インディアンも牛も幌馬車も登場しない。だがこれはその範疇を越えた作品であり、いわばヒューマン・ドラマとさえいえるのではないか。そこには人間の弱さとその裏返しの強さがある。また自己中心と勇気が絡み合っているように思う。さらに腕っ節の良いガンマンも強いヒーローも登場しない。ただあるのは長身で飄々とした初老の保安官だけである。
北部から釈放され、ウィル・ケイン(ゲーリー・クーパー)に復讐心を燃やす無頼漢が正午の汽車で5年ぶりに帰ってくる。時は暑い日ざしがじりじりと照りつけるある日曜日、結婚したばかりのウィルとアミイ(グレース・ケリー)にこの報が届く。ウィルはこのままでは町の平和が乱され取り返しのつかないことになると馬車を町にひき帰えす。彼は初々しい新妻アミイの説得に応じず援護隊を募るが身の危機を感じて一人二人と抜けてゆく。ウィルに多大な恩があるのに4人の無頼漢どもにおじけづいて援護を拒む。時計の針は正午へと非情に時を刻んでゆく。ウィルとて人間、恐怖心がよぎる。馬小屋に赴いて逃亡をふと考えるが踏みとどまる。
ついに正午となり彼は人気の全くない町を駅に向って歩き出す。その後ろ姿をカメラがとらえ引いて、引いて通り全体に孤立無援のウィルの孤独な姿を映し出す。寂寥感さえ漂う。
それからのガン・ファイトの詳述は割愛するが、血わき肉踊るスカッとした映像になっている。まさに秀逸である。
身の安全を優先する町民の身勝手さ、孤立無援で敵を倒したウィル・ケインの勇気と行動力にはフィクションながら賛嘆せざるおう得ない。
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