劇場公開日 1952年9月16日

「引き金を引いた女」真昼の決闘 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.5引き金を引いた女

2021年9月12日
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村上春樹はエルサレム賞の授賞式のために空港へ向かう道中、何度もこの作品を見て勇気を出したという。

当時のイスラエルはガザ地区の擾乱をめぐって政府が激しく批判されており、その災禍をよそに授賞式への参加を表明した村上春樹にも当然非難が集中した。

「ずいぶん孤独だった」

彼はそう述懐している。

そのとき彼がスクリーンの中で孤軍奮闘するゲイリー・クーパーに自らの境遇を重ね合わせていたことは言うまでもない。

ゲイリー・クーパー扮する保安官ウィルはなぜわざわざ街に戻ってきたのか。悪漢たちが自らの命を狙っていることを知りながら。

平たく言えばエゴイズムだ。それ以外の何物でもない。保安官として街を救いたい、というエゴイズム。

街の人々にどうして街へ戻ってきたのかと尋ねられた際の「そうする義務がある」という彼の言葉に半ば自己暗示めいたものを感じたのは私だけではないはずだ。

彼がそのようなエゴイズムを採択できた背景には、きっと誰かが自分を手伝ってくれるだろうという打算があったように思う。でなければ1vs4の不条理な決闘に身を投じられるわけもない。

しかし彼の期待は徐々に裏切られていく。酒場や教会を巡りながら彼は保安官補佐を募るが、街の人々は一人また一人と踵を返していく。「俺にも嫁や子供がいるんだ」「それはあんたの個人的な問題だ」。

周囲からの信頼や助力といった頼みの綱をすべて失ったウィルはいよいよ自身のエゴイズムと真っ向から対峙せざるを得なくなった。

街を救いたい。

しかし街の人々はどうだ?自身に被害が及ぶと知るや否や誰もが彼に背を向けてしまった。彼らを助ける価値は果たして本当にあるのだろうか?

そんなことはもう関係がなかった。悪漢との決闘はウィルにとって既に個人的な問題だった。自分が決めたことは自分が最後まで責任を持つ。その過程や結果において関わってくる外部のものごとなど彼には関係がなかった。

彼はピストルを持って4人の悪漢に立ち向かっていく。

意思や行為が徹底的に個人の内面において完結しているという点において、ウィルと村上春樹は共通している。

「この時世にイスラエルなんか行くな」と周囲から後ろ指をさされても、彼にとっては「イスラエルの読者たちに何としても感謝の意を示したい」という自己規範を遂行することのほうがよっぽど重要だった。

行きすぎた個人主義はあまり私の好きなものではないが、しかし何が何でも精神の中心に一本の長い長い直線道路を引き続けようとする彼らの強さには論理を超えた敬意を表したくなる。

と言いながらも、この映画で私が最も好きなのは、最後の決闘でウィルの花嫁が彼を狙っていた悪漢を背後から射撃する終盤のシーンだ。彼女が悪漢を撃たなかったなら、おそらくウィルはあの場で死んでいただろう。彼女の助力があったからこそ、ウィルは4人の悪漢に打ち勝つことができた。

彼の孤独を極端に美化すること、つまり物語を「男がたった一人で街や人を救う」的な落とし所で締めることは安易な形式主義だ。それは旧来の西部劇がマッチョイズムと勧善懲悪を絶対的な雛形にしていたことと何も変わらない。

このシーンにはウィルの徹底した孤独=個人主義を単なるニヒルなダンディズムとして受け手に消費させない意図があるように私は思う。そこが私は好きだ。

個人主義は魅力的だ。それを貫徹できる人物を見ると無性に憧れてしまう。それでも思い出さなければならないのは、どうしたって人は一人だけでは生きていくことができないというスタブルな事実だ。

あの村上春樹にだって、親や友人や読者や妻がいるのだ。

因果