「地獄の底に引きづり込まれるような錯覚 。」ブエノスアイレス とみいじょんさんの映画レビュー(感想・評価)
地獄の底に引きづり込まれるような錯覚 。
イグアスの滝。”大いなる水”という名を持つ滝。”悪魔の喉笛”と名付けられた絶景ポイントを持つ滝。
そんなイグアスの滝が何度も映し出される。圧倒的な水量が滝つぼになだれ込む様は、ただただ圧巻。心が呑みこまれていく。
そんな滝にも似た二人の恋愛模様。
お互いに、お互いをむさぼりあうだけ。求め、束縛し、支配し、苦しくなり離れては、また求めあう。
お互いを、そして自分自身も破壊尽くさなければならないほどの想い。
自分と相手との境界線も見えていない。ただ、一つになることを求め、でも呑みこまれることには恐怖を覚え、そのジレンマの中で、お互いがお互いを傷つけあう。
狂おしくも残酷な愛。
不器用な愛。
私は、こんな風に人を求めたことがあるだろうか。
人を愛したことはあるし、恋愛もしてきてはいる。
けれど、どこかで、嫌われないよう間合いを計りながら、自分の生活・相手の生活も成り立つように、醒めた頭で考えながら、生きてきた。
それは賢いことではあるものの…。
自分のすべてをさらけ出してぶつけ合い、相手を求めざるを得ない激情。多分、私の中の無意識に押しこめたその想い。
だから、ファイが、ウィンが、こんなにも愛おしくて目が離せないのだろう。
☆彡 ☆彡 ☆彡
一歩間違えれば、痴話げんかのドキュメンタリーにもなりかねない作品だが、
相手の存在を乞う人間を描いた普遍的な映画に仕上がっている。
それは、
色使い。構図。それだけでも見応え有る映像におう所が大きい。
加えて音楽。
危うい雰囲気・緊迫した状況を 見事に映し出すアルゼンチンタンゴ。アルゼンチンタンゴは、何でもありの物騒な酒場で、相手の女性を奪われないように、刃物や銃器が飛んでこないように、周りをキョロキョロ見ながら、後ろ足で蹴り上げるようなステップを取りながら、他の客を牽制しながら、踊ったのが最初だと聞く。まさに、ウィンとフェイの関係。お互いを愛おしく見つめあう暇なく、お互いを取られないように牽制し合う。
哀切に響く、「ククルククパロマ」。この映画の二人そのもの。
そんな映画の最後に流れるこの映画のテーマ。気分が一新される。
そして稀代の名優たち。レスリー氏、トニ―氏、チャン・チェン氏。誰が欠けても、他の人と入れ替わっても、この作品は成り立たない。
ゲイの役を断ったのにも関わらず、トニー氏が騙されてブエノスアイレスに連れてこられる等、制作途中は、いろいろとアクシデントもあったと聞く。
映画はシチュエーションを与えられるだけで、ほとんどアドリブで撮影されたという。上記のような制作背景があったにもかかわらず、ほとんど、それぞれの役が憑依したようで、切なくも苦しい、忘れえぬ至極のシーンとなっている。
ウィンに求められることが心から嬉しいからこそ、不実な恋人に対する怒りも隠せない一途なフェイ。気持ちはわかるが、パスポートを隠してしまうのはDV。本来ならそんなことをするような性格ではなかろうに、そこまで追い詰められているフェイ。だからこそ、テープレコーダーのシーンに胸をかきむしられ、ラストにほっとする。トニー氏がたんたんと、口の端の動き等でフェイを表現してくださる。
濃密な二者関係を渇望しているくせに、濃密な二者関係になろうとすると逃げるウィン。誰かと繋がっていたいのに、持続できずに、自ら破壊するウィン。こんな悪魔みたいな奴なのに、フェイが入れ込まずにはいられない魅力の持ち主。フェイにしたら、捕まえたと思ったら、すぐに逃げていく蝶・幻影みたいなものなのか。そんなウィンを体現してくださったレスリー・チャン氏。ひげ面等、決して着飾った姿だけでなく、等身大の30代男を表現しているにも関わらず、フェイがのめり込むのがわからなくもないウィン。
撮影が長引き、この映画にトニー氏より積極的であったにも関わらず、レスリー氏が他の仕事のために途中で帰ってしまい、急遽、チャン・チェン氏達が呼ばれたという。もし、レスリー氏が最後まで残ることができたなら、どんな映画になっていたのだろう。それも観てみたかった。
そんないろいろなアクシデントを、すべてプラスに変えた監督の力。すごい。
狂おしい激情に触れたくなったとき、何度も観返してしまう映画です。
レスリー氏が亡きことがただ悔やまれます。合掌。