昼顔(1967)のレビュー・感想・評価
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【”昼は娼婦、夜は貞淑な妻。そして罪と罰。”医師の妻として平穏な結婚生活を送っていた女のマゾヒスティックな欲望をルイス・ブニュエル監督がシニカル且つシュールに描いた作品。】
■若く美しい人妻・セヴリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)は、医師ピエールの妻として平穏な結婚生活を送っていたが、心の内にはマゾヒスティックな性的欲望が渦巻いていた。
ある日、友人の話から高級売春宿の存在を知った彼女は、夫のいない昼間だけ”昼顔”と言う名で売春婦として客を取り始める。
◆感想
・冒頭からセヴリーヌはピーターと馬車に乗っているが、突如ピーターに引きずり降ろされ、木に縛られ激しく鞭打たれる・・、という夢が描かれる。
・セヴリーヌは最初はオドオドと娼婦を務めるが、徐々に大胆なプレイにも応じる様になる。
ー 除き穴から見た、高名な医者のマゾヒスティックな姿に感化されるセヴリーヌ。ー
■だが、彼女に恋したチンピラ、マルセルに付きまとわれ、夫ピーターは撃たれ、全身麻痺になってしまう。
セヴリーヌは夫を献身的に介護しながらも、どこか嬉しそうである。
<ラストが強烈にシニカルでシュールである。ピーターは普通に立ち上がり、快活にセヴリーヌに話しかけるのである。
この物語全体が、セヴリーヌの妄想なのか、女性の魂の解放を示唆したのかは、シュールリアリストであるルイス・ブニュエル監督ならではの観客に解釈を委ねるラストである。>
よろめき美人
冒頭からして
公開当時はずいぶん衝撃的だったんじゃなかろうか。
隠微なSM世界が繰り広げられていますが
現代の感覚からみればかなりソフトではあります。
人間の、それも美女が堕落していくさまというのは
なぜに魅惑的なテーマなのか。
好奇心や満たされない性欲からとはいえ
いきなりそっちへいってしまうのかい!
なんてツッコミたい箇所もありますが
とにかくドヌーブが美しいので
もういいのです。OKです。
娼館でドヌーブでてきたらびっくりしすぎて萎えたりしませんかのう。
三島の「美徳のよろめき」とどちらが先だっけ?
どちらも面白いですが。
それでも最後の、
旦那の友人の行動の後の
ドヌーブの妖しく、満足げなあの表情といったら。
それだけで★追加であります。
エロくないドヌーヴ
バカレロによるサンローランの2023AWで本作がオマージュされていて、うわ見てなかったと思い視聴。
シュールレアリスト好みの象徴的なエロいシーン満載なのだけど、あのドヌーヴがサンローランを着てたら美しさが際立ちエロさは微塵も感じられず、そらそうよなあと思った。
ベッドに寝転がった時、パンプスのバックルが写り、ロジェヴィヴィエと分かり思わずイェアと叫んだ笑。
画面からエロスを遺憾なく発散させていたのはピエール・クレマンティ。野生的で粗暴な振る舞い。ステッキを振り回し、危険な臭いをプンプン漂わせていた。
みじめの極地の夫
カトリーヌドヌーヴ扮する若妻セブリーヌは、ジャンソレル扮する夫ピエールと幸せに暮らしていたがマゾ的な妄想をしていたところ売春の話を耳にした。
セブリーヌはちょっと挙動がおかしいね。夫に娼館の事を聞いたりしてさ。欲求不満なのは夫が悪いかな。確かにカトリーヌドヌーヴが娼館にいたらびっくりするけど売れっ子になるのは間違いないね。夫はみじめの極地だね。
カトリーヌ・ドヌーブがすべて
主人公(カトリーヌ・ドヌーブ)はマゾヒスティックな欲望に悩まされていた。
遂に娼館を訪れ、娼婦になってしまう。
夫には気付かれないようにしていたが・・・。
なんといってもこの役を演じるのが、美しさが絶頂期のカトリーヌ・ドヌーブ、公開当時はフランスの女優はすごいなぁ、と思ったものだ。
カトリーヌ・ドヌーヴの美しさ!
あらためて観て
カトリーヌ・ドヌーヴの端正な美しさに溜め息が出る思いだった
映画の解釈はいろいろあるだろうけど
とにかく‘昼顔’を演じているのが
ドヌーヴだということだけで
十分な映画なのかも知れない
理性と欲望の間でみせる
無機質な表情も
ラストシーン近くでみせる愛らしく
美しい笑顔も
ドヌーヴなればこそなんだろうなと思う
ブニュエル監督もきっと原作のイメージから
ドヌーヴで映画を撮りたいと
望んだんだろうなと思う
パリで夫と幸せに暮らすセヴリーヌだが、マゾスティックな性的妄想に耽...
パリで夫と幸せに暮らすセヴリーヌだが、マゾスティックな性的妄想に耽る。現実の中に妄想があやふやに入り込んでくる。
何か期待してしまった自分もいたが、行為のシーンはない。それでもエロティックに感じてしまうのはさすが
【想像力がエロチシズムを掻き立てる】
ルイス・ブニュエル作品としては、日本では最も人気のある作品のように思う。
カトリーヌ・ドヌーヴ人気がそうさせているようにも思えるが、ベッドの上で裸の背中を見せるセブリーヌ(カトリーヌ・ドヌーヴ)の宣材写真から想像できるほどのエロチシズムは映画のセックス描写にはない。
どちらかというと、貞淑で不感症と思われていたセブリーヌが、犯される夢を見たり、売春宿で「昼顔」という名前で働くようになって、様々な相手を通じて快楽を得て、性に開放的になっていく姿を見て、当時の人々は、女性にも性欲があるのだとか、あって当然だとか、どんなプレイが許されるのかとか想像力を膨らませたに違いないのだ。
そして、夢や妄想と現実の境目が曖昧になっていく状況は、ヒッチコックにも絶賛され、フロイト的と言われたりするが、当時より性的には開放的と考えられる現代でも、多かれ少なかれ、セックスを想像すれば、人は似たようなものではないのかと考えたりする。
そして、ケースバイケースで、いたぶられるなどマゾ的な想像を膨らませたり、そして、現実では貞淑な妻なんかの役割を演じてみたり、その曖昧な境目を実はスリリングに楽しんでいるのではないのか。
ちょっと謎なエンディングは、メッセージというより、きっと人間の本質を示唆したのではないのか。実は、ヒッチコックはそこを称賛したのではないのか。
そんな風に感じさせる作品だった。
嘘と真の見極めが難しい
若かりし頃のカトリーヌ・ドヌーヴの美しさに凝視!23歳であの色気、おそろしや。
女性は性欲が弱いだろうとか、性に奔放な女性はアバズレだ!という世間の目や思い込みから、表向きは淑女でありたいが、性の悦びも味わい尽くしたいという願望との複雑な心情と葛藤が巧く表現されている。性の悦びを知った女性の深淵のような欲と理性。男も女も頭の中ではあれこれと想像を巡らせているのです。人には悟られないように。
どこからどこまでが嘘で本当かがわからない。だけどこれが人間の姿なのだろう。
パリの街並み、上品なファッションと見応えあった。
素晴らしい芸術性。見てよかった。
1967年ベストムービー!⭐️⭐️⭐️⭐️✨
当直明け1/5本目。
『ルイス・ブニュエル監督特集上映 デジタルリマスター版 男と女』にて鑑賞。
ルイス・ブニュエル監督作品を初めて観た。
この作品は昔から有名でタイトルだけは知っていたけど、カトリーヌ・ドヌーブ当時23歳?の色気にやられてしまいました(笑)
少女時代の性的虐待?がトラウマとなって性的不感症となった女性が、昼間娼婦となって客を取っていくうちに、性格や性的志向が徐々に開放的になっていく。もしかしたら、この作品、かつての日本では"変態な作品"と思われたかも知れない…ような気がする(笑)
でも、この作品、監督の演出力が優れていて、カトリーヌ・ドヌーブ演じる妻役の女性に色気が徐々に出て来るにつれ、観ている私自身も彼女にヤキモキする気持ちになっていった…"監督に見事してやられました"な作品でした(笑)
名作だと思います…オススメ!笑
昼は娼婦で、夜は貞淑な妻……フロイト的解釈でブニュエルが描く「性」と「道徳」の悲喜劇。
角川シネマ有楽町のブニュエル特集、鑑賞二本目。
『昼顔』は大学時代に一度VHSレンタルで観ているはずだが、内容は全く覚えていなかった。
あのときは、カトリーヌ・ドヌーヴの裸が観たい一心で借りたのに、肝心のバストトップがどこにも出てこないので、大いに落胆して早送りしながら観ていたのを何となく覚えている。
(僕は当時、スクリーン特別編集の『裸のトップアイドル』に大いに影響を受けて、自前の「女優ヌードシーン集ヴィデオ」を少女編・大人編に分けて独自に編集していたのだw)
今回改めて観ると、ブニュエル作品のなかでは比較的筋を追いやすいし、とにかくドヌーヴの扱いがセンセーショナルなので、彼のフィルモグラフィのなかでも最もよく知られた一本であることはよく理解できる。ただ、あまりにじとっとしているし、けっして後味の良い話ではないので、個人的にはもっとからっとした笑いに富んだブニュエルのほうが好きかも。
性的に抑圧された不感症の美しき若妻が、高級売春宿で「昼顔」として春をひさぐことで女としての自我を解放し、亭主とベッドをともにできるまでになるが、売春宿の客のひとりが暴走してせいで悲劇が引き起こされる……。
もともとはプロデューサーから持ち込まれた頼まれ仕事で、ブニュエルにとっては「くだらない原作を自分好みの映画に作り替える」ある種の実験のようなものだったようだ。
大筋自体はメロドラマチックともいえるし、当時世間を席捲していたフロイト精神分析的な側面も強い。女性の「性癖」に分け入っていったり、フックとして女優の裸を売りにする感覚は、若干同時期の「性科学映画」とも軌を一にする部分もあるかもしれない。
幼少時の性的いたずらのせいで潔癖症、不感症になった美女が、内面で性的妄想を膨らませ、白昼夢のなかで被虐の歓びに耽る。性的妄想が始まる合図は、四輪馬車の鳴らす鈴の音だ。この鈴は、売春宿で彼女が相手をする東洋人が手に持つ鈴とも呼応し、彼女の性的な興奮のシグナルともいえる。
出だしがいきなり、馬車から引きずり降ろされて、森で亭主と馬丁に犯されるシーンでのけぞるが、これがまるまる夢落ち。その後も随所で、彼女の性的妄想は現実とシームレスな形で挿入される。どうやら、内なる彼女は狂暴で支配的なオスに乱暴に扱われ、サディスティックに蹂躙されることを望んでいるらしいが、現実の旦那は聖人君子のような善良なるイケメン医師。彼女が拒めば手すら出さず、やさしくお休みのキスをしてくれるような善き夫だ。性におびえる貞淑な乙女として夫から優しく扱われるほどに、女の内奥で抑えがたい性衝動が渦巻いてゆく。
今でこそ、性的白昼夢を観るヒロインなど、日活ロマンポルノやその後継としてのAVではちっとも珍しいネタではないし、そういやラウラ・アントネッリの『禁断のインモラル』も似たような話だった(大八車に縛り付けられて羽根でくすぐられてたような……あれは別の映画だっけ?w)。
でも1968年当時の観客にとっては、これって結構新鮮な内容だったのではないか。主演のカトリーヌ・ドヌーヴは、すでに『シェルブールの雨傘』(64)の前後で『悪徳の栄え』(63)と『反撥』(65)に出ているので、この役をやること自体に周囲の違和感はなかっただろうが、それでも露出度は今まで以上だ。まあ、ブニュエルが他の映画では女優を脱がせまくってるのに、この映画でバストトップがないのは時代のせいなのか、ドヌーヴのNGラインのせいなのか(しつこい)。
中盤に高級売春宿の客として登場する、公爵夫人に鞭打たれるプレイを所望する教授(段取りどおりにいかないときだけ、高圧的な態度に戻るのが笑える)や、虫の羽音のような音のする奇妙な箱(プレイに使うのか??)をもって謎言語をまくしたてるガタイのいい東洋人などは、まさにブニュエルの好きそうな変人・変態大集合のたぐいで、観ていて純粋に楽しい。実際の客とも白昼夢ともとれる、喪服を着た娘の死体にドヌーヴをコスプレさせて棺の下にもぐって自家発電する貴族も最高にイカしている(このへん、ちょっと『悪徳の栄え』っぽくもあるよね)。
いっぽう、終幕の悲劇の立役者となる差し歯の犯罪者マルセルは、突発的な暴力とサディズムを内包した「テロリズム」の体現者であり、これまたブニュエル映画には欠かせないキャラクターだといえる。
個人的には、ドヌーヴ演じるヒロイン、セヴリーヌがどうしても単に感じの悪い勝手な女にしか思えず、彼女のせいであんなことになる亭主が可哀想で、ラストはただ心が痛い。
お話の作りとしては、夫婦生活を可能なものとした「売春セラピー」の「つけ」が、なんの罪もない亭主に回って生まれた悲劇で終わるともいえるし、いっぽうで夫は本当の意味で妻の愛を得て、妻は結果として本当の自由を手に入れたのだから、シニカルなハッピーエンドともいえるのかもしれない(ラストのアレは、アレのほうが白昼夢、という解釈を採りたい)。
総じて、あまり魅力的に描かれているようには思えない主人公夫婦に比して、ミシェル・ピコリ演じるエミル・ユッソンは、妙に忘れがたい印象を残す強烈なキャラクターだ。
セヴリーヌに性的な誘いを露骨にかけたかと思えば、高級売春宿の場所を彼女に教え、娼婦のナンバーワンになった時期を見計らうかのように客として訪問して彼女の心をかき乱し、ラストではわざわざ●●状態の夫のもとを訪ねて妻の不貞を告げ口する。下卑ているのに、どこか超然としていて、適当なようでいて計算ずくにも見える。おそらくなら、彼は本作における「メフィストフェレス」の役割を果たす存在なのだろう。
あと、セヴリーヌと旦那とユッソンとの四人組で登場する女友達のルネって、どこかで見たような顔だと思ってたら、『サスペリアPART2』の冒頭で殺された女霊媒のウルガ・ヘルマン役の人だったんだな。……ダリオ・アルジェント教徒なのに、気づいてあげられなくてごめん(笑)!
「シェルブールの雨傘」からイメージチェンジ
「シェルブールの雨傘」のカトリーヌ・ドヌーブは可憐な女性のイメージだったが、この映画では一変して、やや悪女っぽい女性役だったので、かなり衝撃を受けた。この映画以降、時々悪女っぽい役を演じるようになったのは、ある意味この映画の彼女がはまり役だったと感じた監督が多かったからではないだろうかという気もする。表向きは美人でお淑やかに見えても内心は違うということか。この映画では内心はエッチなことを妄想していることであった。
音楽がほとんどなかったせいか観ていて重苦しい気持ちになった。
また、美しいはずのカトリーヌ・ドヌーブが、なぜだろうか、厚化粧のせいなのか主人公の役柄のせいなのか、「シェルブールの雨傘」の時の美しだが感じられなかった(私だけ?)。
結局、すべて彼女の妄想だったのか?騙された感じで後味の悪い映画だった。
何十年ぶりかのブニュエル作品
男性の私としては、カトリーヌ・ドヌーヴ
の裸がチラチラしてなかなか冷静に観れない
作品だった😅
ルイス・ブニュエル作品は若い頃に
「哀しみのトリスターナ」
「ブルジョアジーの秘かな愉しみ」
「自由の幻想」「欲望のあいまいな対象」
を観たが、正直なところ「自由の幻想」の
テーブルの椅子が便器になっているシーン
が強く印象に残っているだけで、
他の記憶がほとんど無い中での
歳を重ねてからの「昼顔」初鑑賞となった。
ストーリーは、子供の頃のトラウマから
性的不感症になり、
娼館での経験からの自信回復で夫婦生活が
元に戻るかと思いきや、という展開だ。
夫婦の性生活の不満足状態が家庭外での刺激
を通じて改善に転ずる、
というのは良くあるパターンだが、
ラストには今度は夫の不能という、
苦労の末に問題解決したはずの妻の
その努力の要因によって招いた皮肉な結末
が用意されていた。
この映画の中でも夢か幻想なのかのシーン
が数多く出てくるが、ブニュエル作品は
多分に象徴的・抽象的描写が頻繁で、
リアリティや社会テーマ性を重視する
映画鑑賞姿勢の私には印象に残りにくい
監督なのかも知れない。
そんな中では「昼顔」は多分に
現実と幻想の区別が付きやすい作品で、
ラストシーンも、せっかく妻は問題解決した
のに、今度は夫が不能になったとの
皮肉の裏返しの夢または幻想としか
思えませんでしたが、
皆さんの解釈はいかがなのでしょうか?
女性にとって有難い映画
映像は綺麗で素敵だけれど、ところどころやはりちょっと古い映画かな、と感じさせられる。
けれど、扱われている内容が時代を越えて普遍的なものなので、興味深かった。
それは、
心が求めるものと体が求めるものの不一致、理性と野性のバランス取りの難しさ、人間の性癖のバリエーションの可笑しさ、女性の性的成長の難しさ…などかなと思う。
大雑把に言えば、人間は、動物側面とどう向き合っていけるか…ということだとおもう。
女性にとってはセブリーヌの心理は、多かれ少なかれ自分に経験があるか、又は想像によって理解できるものではないだろうか。
少なくも私には彼女は身近に感じる。
女性にとってのなやみどころを、映画という世界で、他人の経験として間接的に体験でき、模索できる。
ありがたい映画でした。
カトリーヌ・ドヌーヴのイメチェン作
シェルブールの雨傘から約3年後に製作されていますが、カトリーヌ・ドヌーヴのそれまでの清純派のイメージを一新させるような作品です。
日本の昼顔の原案にもなった作品ですが、日本のものより色んな意味で更に激しい物語です。
ベッドシーンもSMプレイがあったりして、かなり衝撃的。
日本版では、「普通の人が不倫している」という感じを強く受けますが、こちらの方が日本の作品より全体的な生活感は薄れていると思います。
一筋縄では行かない難解な映画だと思います
カトリーヌ・ドヌーヴ24歳
シェルブールの雨傘が21歳
ロシシュフォールの恋人たちは本作と同年の製作
本作まではどちらかといえば清純派の娘役が多かった彼女ですが、それが本作では正に有閑マダム
化粧も衣装もそうで年齢以上に見せています
物凄く美しい!正に大輪の赤い薔薇です
豪華な金髪、細いのにグラマラスなのです
大人の女性に脱皮するためのイメージチェンジの映画と言えるでしょう
その彼女が娼婦役を演じ、裸にもなり下着姿を晒し、SMプレイに体当たりするのです
いささかショック療法ですが、効き目は絶大でした
本作から半世紀以上時代は進み、ポルノは溢れかえっています
しかし本作はそれににも関わらず、21世紀の私達に取っても刺激的です
74年のエマニュエル夫人よりもエロチックであると思いました
お話の内容はどこまでが現実でどこからが彼女の妄想なのか混然としており入り交じっています
全ては彼女の妄想の物語で、ことによるとラストの室内のシーンだけが現実だったのかも知れません
しかし少女時代の消せない性的記憶のシーンは現実なのだとおもいます
性への欲求を拒絶し隠そうとする気持ちと、性の喜びを楽しみたい気持ちが相反して激しい葛藤が彼女にもたらす妄想のストーリーだったのだと思います
つまり、その葛藤の根源は少女時代の性的ないたずらを受けて、声も上げれず抵抗感できなかった記憶にあると読み取れます
怖くてたまらない記憶、しかし快感も感じてしまっていたのかも知れません
それが彼女を性への自然な欲求が抑圧され、妄想の世界の中でも、抑圧され支配されつつも性の喜びを得るという世界に浸ってしまうのでないでしょうか
性的なシンボルが全編に散りばめてあります
吹き上げるシャンペンの瓶
死んだように眠っているベッドの中で突き上げられる律動
服装は聖母マリア様で処女であったことを説明しています
テーブルクロスの下に隠れての律動
親にも誰にも隠れての性行為のことです
封筒のなかのゆりの種とは何でしょう?
封筒とはもちろん女性の膣、ゆりの種とは精液のシンボルに他なりません
終盤にユッソンが瓶の下を割るのは、男性器が機能しないシンボルではないでしょうか
冒頭とラストは馬車の鈴の音が響きます
少女時代の性的いたずらを受けた相手は配達員のような服装をしていました
馬車=乗り物に乗って否応なしに自分に性的体験をもたらす存在を示しているのだと思いました
一筋縄では行かない難解な映画だと思います
すみません。良さがわかりません。
ヴェネチア国際映画祭で最高の賞を受賞している作品。
当時としては斬新な表現だったのだろうなとか、フロイト・ユングの影響を受けていて、『8 1/2』と基本的コンセプト(夢・妄想・深層心理と現実のないまぜ)は同じなのかしらんとは思うものの、
『8 1/2』に比べて、映画の中に入り込めない。
ドヌーブさんは、ビスクドールのように美しい。胡粉もといおしろいを塗りまくっているのだろうかと注視してしまうほど。でも、初々しく柔らかみのあった『シェルブールの雨傘』に比べると、骸骨顔で今一つ。後半いろいろな表情が出てきて人間らしくなるが。
ヌードの後ろ姿は、しまるところ、豊かなところのラインに驚愕。でも、バレエ等をやっている人に比べると、筋肉が引き締まって美しくというのではなく、ちょっと垂れているところもある。それを柔らかみととるかどうかという好みに分かれるかな。
あと、ローレンさんやヘップバーンさんに比べると意外に歩く姿とかが不作法。場末の踊子みたい。あんまり”気品”を感じないのも好みの問題か。
それでも、イブサンローラン氏の服等を身にまとった姿は美しい。ギリシャ神話のアンドロメダのごとくに縛られた様や、白雪姫か眠れる森の美女をモチーフにしているのかと思うシーンとか。まるで、ドヌーブさんの動画写真集(PVとも微妙に違う)かと思いたくなるような映像が続く。
理想的な、幸せそうな美男美女のセレブカップルが壊れていく。しかも、外部からの要因ではなく、二人の関係性・欲望によって。観客のスキャンダル的な好奇心を満たす展開。
美しい妻を手に入れたことに安心し、仕事上での人間関係作りや仕事に夢中になって、妻の気持ちに無頓着な夫。
子どももおらず、家事もメイドに任せられ、享楽的に時間を持て余し、自分の存在があいまいになっていく妻。
という、二人の関係性は想像できるが、表面的にしか描かれない。二人がどうやって知り合い、恋をして結婚したのか。妻は結婚前に何をしていたのか。深窓の令嬢が親の薦めるままに結婚したような、お人形カップル。
だから、時折挟まれる妄想にも、妻の昼間の行動にも、まったく説得力がない。
だから、ついていけない。
この監督作品は初めて。いろいろな方のレビューを読むと、細部にこだわりがある作風らしい。ここで馬車?ここで猫の鳴き声?
でも『8 1/2』はくらいついて読み解くなりたくなるけれど、この映画は1回見ればいいや。
憎めない変態さんたち
かなりSの夫ピエール。だけど、不感症を治そうとしているんだな。結局、夫以外の男にカラダをまかせると快楽を得ることができたのでしょう。決心して最初に取った客がSM愛好家。いきなりチェンジさせられ、見学することに。
かなり色んな変態さんが登場して面白いんだけど、その様子が全然わからないのは時期尚早だったためか・・・ヌードも背中だけだし。ラストはちょっと意外でした。続きも知りたくなりましたね~一瞬どこで怪我したんだよ!と見逃したんじゃないかと焦ってしまって・・・
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